ダメな映画のダメな批評の仕方


 

映画を観続けてきてから長い。

年間で100本が自分としての目安で映画館に通い続けてきたけれど、ついに昨年にその記録が途絶えてしまった。残念である。今は自分の会社で仕事をしているわけだが、当初、そうすれば映画も観放題だわいなどと考えていたのだが、事態は全く逆で、フリーの時間=労働時間という現象に却って、映画に充てる時間がとれない。映画ファンとしては、たるんでいるだけなんだろうけれど。よくある脱サラ幻想のバリエーションのひとつといえるかもしれない。

まだ学生だったころ、大学の映画論のセンセイに、とにかく本数を観ろと教わった。それからバカのようになるだけ観ることに没頭してきた。そうすると当然ながらダメな映画にぶつかることもある。というか、目が肥えてくる(・・・いや趣向が偏ってきているのだろうが)につれ、そちらの方が確率としては高くなる。良い映画というのは砂金を探すのに似ている。たぶんほとんどの時間は不毛な時間だ。そうするといわばマゾヒズム的な感覚すら出てくる。ああ、ダメなんだろうな・・・と思いつつも、それでも映画館のシートに背中を埋める。自分にとってシネコンの映画の邦画のラインナップはほとんどがそうしたものだ。

まあいいんじゃないっすか・・・という程度の作品にあたればそれはそれでよろしい。それが中庸たるものなのだろう。しかし、それでもアタリを目指して映画を観る。

こういう体験は音楽の世界でもよくあったことだ。

昔、西新宿に集結していたブートレッグのレコードとビデオには本当にやられた。いや、むしろアタリがあったことがほとんどない。ビストルズの「レア」なLIVE音源、ジャコ・パストリアスの「本邦初公開」のLIVE、マイルス・デイビスの未公開LIVE映像。そのどれも音質は最悪だし、映像にいたってはノイズだらけで視られたものではない。あれは明らかにカネの無駄遣いだった。

渋谷の宇田町、現在のマンハッタンレコードの裏手、DJ機材のDisc Jamの前のビルに、SWINGという「ビデオ・ジャズ喫茶」というのがあった。そこでもその手のブートレッグの映像が置いてあるのだが、その品質はどれもこれも酷いものが多く、くたびれたファイルにいれてあるビデオリストには映像が悪いということが注意書きしてあるのだが、それでも流してくれるようにリクエストすると、これがまた本当にヒドイ。それでもリクエストした手前、がんばって観つづけるのだが、店内の客がだんだんイラついてくる空気を若い自分でも察知する。うーん、これはまずいなあと思っている頃に、店の昔の妙齢の姉さんがやってきて、そろそろ停めてもいいですかと聞きに来る。渡りに船である。ウェーザーリポートのライブだったか。それにしてもSWINGは懐かしい。あの店で繰り返し繰り返し、ジョニ・ミッチェルの”Shadows and Light“をリクエストして、またオマエか的に取り扱われていたのは自分です。LIVEアルバムに入っていない音源(映像)があったからなんですが。

 

レコードコレクターの「レコードを掘る」という行為も同じようなものだ。たぶん今や我が家の無用の長物の最たるものとなっているビニールレコード数千枚のうち、たぶんまともに2回以上針を落したことがあるのはそのうちの1/10程度でしょう。そして、この問題は多くのレコードコレクターが共有するだろう悔悟がともにあるだろうと固く信じる。なにしろ昔はそのアルバムの音を確かめるという手段がなかったのだ。当たりはずれをある程度ネットで推測しながら音楽をゲットできる今の世代は本当に幸せなのだ。

こうして莫大な時間とカネを当たりはずれ定まらぬものに浪費し続けてきたものは、たかだか一本の映画のハズレにあっても動じない。ああ、自らの批評精神に磨きをかける2時間になったものだ。つまらぬものを斬ってしまった。そういう気分である。本当はウソですけど(笑) ハラ立ちますし、心の底からムダなカネと時間を使ったと懲りもしないくせに映画館を出るわけです。

 

しかし、当たり前の話をすると、これは作品とし正対したものだけが味わう非徳の致す所の悔恨であるのは言うまでもない。作品は一度作者の手を離れると、作者から自立する。それどころか、作品と相対して、それを体験した個人と関係を取り結び、それは誰にも触れることができなくなる。

つまり、その人にとって良いものは良いのである。逆に万人が良いといっても、その人がダメだと言ったらダメ。そこに誰も介入することは出来ない。私もその関係に誰しも入ってもらいたくはない。そうなったとき、作品というのは個人(観客)との関係の中で初めて立ち現われるものと言っていい。

 

とある自分が関わった映画がある。さほどの投資がなくとも手軽に編集できるノンリニア編集は、こうやってドンドンとシロウト作品を生み出していく。そして、その映画はいわゆる映画の文法を全く無視した全くのシロウト映画である。テスト上映を兼ねて、劇場のオペレーターと一緒に2人で映画館で観て終了後、二人で苦笑いをする。

「せめてイマージナリーラインくらい教えてあげたほうがいいのでは」
「マルチカムなのがうれしいのかもしれないけれど、このカット割りの目まぐるしさはなんとかしたほうが・・・」
「次のカットと照明が明らかに違うのはどうにも・・・」

などと映画学校出身の劇場のオペレーターさんは親切にも言ってくれるのだが、自分はそのまま流すことにした。これはこれでいいのではないかと。

というのも、その映画がある一定の観客をターゲットにしているもので、そのターゲットがプロが分かるような「映画の文法」をわかっていて、それに忠実な作品を求めているとはとても思えなかったからである。むしろそれを超えるものがあればいい、と。そして案の定である。映画は多数の客を呼び、評価も高かった。映画というのは良しにつけ悪しきにつけ「興行」である。それが如何に破天荒で文法を無視しクオリティが低いものだとしても、あるものが鑑賞に堪えられないとしても、その観客個人の評価がその作品の全てである。

永遠の0 DVD通常版 『永遠のゼロ』が特撮しか見どころがないしょうもない映画作品だったとしても、それはあくまでも私の評価である。それに感動して涙を流す人達に、私はなにひとつ横からしゃしゃり出ることは出来ない。それが映画であり、小説でもあり演劇でもあり絵画でもあり、あらゆる芸術作品である。

ジグジグスパトニックが如何にサギであるか。エグザイルの音楽が如何にしょうもないか。志賀直哉の文学が如何に権威主義的なものか。大島渚の『日本の夜と霧』がセリフ間違いが多発していて如何に学芸会レベルか。それらはすべて個人の感想に過ぎない。かたやブートレッグで買ったピストルズの未発表音源が如何に酷い音質で、演奏もどうしょうもなく、バンドとして体を成していないとしても、それに興奮する人間はいるものだ。

風立ちぬ [DVD] 最初の興行された映画作品のひとつの中の汽車のシーンの逸話は有名である。観客はホームに滑り込んでくる汽車の映像にこちらにやってくるとおびえて席から腰を浮かせたという。今ではありえない話だが、それもその時代の作品と観客との間で成立したもので、それをバカげていると笑うわけにはいかない。

一方で 宮崎駿の『風立ちぬ』にどのような世評があったとしても、自分には受け付けかねぬ映画であれならば、自分はそう言う。映画はわたしの中にあり、それ以外のどこにもないからだ。

 

だから作品は作品と対峙したものの中にのみ存在するという原則に自分は忠実でありたいし、その体験をしなければ自分は作品を語ることはしたくないし、するべきではないとも思う。

 

 

さて、とある映画が批判を浴びている。

こちらも自分が関わったドキュメンタリー映画なのであるが、劇場公開を終わった時から堰を切ったようにネット上で批判が始まった。

これには理由があり、作品に直接・間接的に関係していた人が劇場公開が終わってから批判を始めたからだ。ここから先、自分は映画の「批判」という言葉を使うのは、これが「批評」でなく「感想」ですらないからだ。つまり、批判のほとんどは映画を観てないものであるからだ。

それまでネット上であったのは、それなりに肯定的なものだったのだが、これが一挙に変わったのは、映画を観に行った某氏による映画の「批評」があったからだ。キチンと映画を観に行ったうえで、同じ映像制作者としての映像作品としての批判は筋が通っていると思う。

自分自身もその映画については、自分がインタビュー出演しているにも関わらず、ずっと他人には触れないでいた。粗編集の段階で観たのがあまりにも酷かったからだ。自分はこのまま公開するとはさすがに思わなかったが、それでも、ただ単に素材をつなぎ合わせただけの作品としか言いようがないドキュメンタリーに、知人も多数インタピューに応じているにも関わらず、残念ながらシンパシーを感じることができなかった。

そのうちに、著作権の話や制作費にまつわる話が耳に入ってくるようになった。自分自身も親しい人に、作品としてのクオリティは低いし、製作費についてもあれだけかかるとはとても思えない旨を伝えていた。つまり、これには関わらない方がいい、と。

この映画は極めて政治的なことを扱っている映画であるため、その方向性には賛成するし、だからこそインタビュー出演しているわけだが、それにプラスになるようなものとはとても思えなかったのである。

もちろんこれは制作するテーマの政治的な内側にいるものだからの態度である。

作品としては観る者が判断すればいいし、それに第三者は介入するべきではないというのが自分のスタンスである。もちろんダメな映画はダメと自分は批評や感想を言うことは出来る。ただし、またこの事象に関する記録としてあればいいという考えもあった。なによりも、その当時はこの政治的なテーマについて正面からとりあげた映像作品はテレビも含めてほとんど皆無だったからである。これも政治的な内側の理屈である。

著作権や制作費の問題は別に批判があれば内側で批判していいのではないかとも。

(ただし自分は著作権の問題は人伝に問題なしという見解を聞いている。また制作費に関しても賛同者が出すという自己責任の問題ならばいいのではないか、とも)

そして公開になった。

この映画は寄付により制作費とクラウドファンディングの段階ですでにペイは十分にしてあると思う。そもそも編集にしても機材があれば一日で終了するレベルのクオリティだ。(後から自分は粗編集とほとんど公開版が変わらないという話を聞いている)なお、使用した機材も自分が見た限りすべて民生品。

公開もいわゆる自主上映というもので、映画館が買い付けたりしたものではない。もちろん自主上映だから映画館がプログラムにかける必要がないと判断したものと即断はできない。そういう映画はたくさんある。

はたしてどのようになったか。

これがそれなりに観たものには評価を得ていた。

その映画の感想をネットから拾い出すと、肯定的な評価が多いのに気づくだろう。自分は思ったのは、やはり映画は作品と観客が作り出すもので、それ以外のものではないということだ。

特にそのとりあげるテーマについて、あまり前提知識がない人にとっては初めてみる映像や言葉はそれなりに意味するものがあっただろうと。「観たことがある映像ばかりでそのインタビュー内容も知っているものだった」というのは、それはあくまでも知っている人の「感想」である。それがない人には適切に届いた可能性もある。だからこそ、それなりの評価があったのではないか。そして先に触れたとおり、映像としてのクオリティというのは玄人筋が言うほどに一般の観客はそんなに気にしていない。かつての小僧だった頃の自分のようにブートレッグの最低の音源にでも何かを感じてしまうことがあるように。

ところが、この高評価は、ある日を境にきれいに暗転する。先に紹介したドキュメンタリーとしての技術が全くクオリティに達していないという評価がネットに出てきたからだ。ただこれには少し裏がある。堰を切ったようにこの作品のの「悪評」が出てきたのは、決定している最終上映があった日に、とある人がこの技術評を紹介したからで、この段階では映像としてのクオリティの問題で、しかしながらそれに感動を得ている人もいるので良かったところあるのだが・・・いう話だったのが、もう一転する。

ようするにクオリティの問題とは別の問題があったのである。それについては自分は詳しくは書かない。確かに問題であろう。

しかし、それが映像として人に与えた部分と作品の評価とは別であると強く思う。ぶっちゃけ、自分は映像が猟奇犯やナチの戦争犯罪人や極悪非道な結社がつくり、その制作資金は詐欺だったり搾取から出てきたものだったとしても、いいモノであればいいと言う。

さらにそれが作品として自分はダメなものだし、自分の映画体験に照らし合わせても駄作でしようもなかったものだったとしても、それを人が観ていいというなら、それは致し方ないと思う。おまえ、あんなのいいと思っているの?とは思うし、その作品を作品として批判することはあれども、それ以上はない。ましてや作品を観てないのにクチを挟むことはしたくない。

シロウトバンドの自主制作盤や自主制作映画に対して、ヘタクソとかつまらないとかクオリティに達していないとは言うかもしれないが、それを別に邪魔立てすることは決してないだろう。それを観たり聴いたりして、それがいいと思う人はいるわけだから。そうしてインディーズの業界というものは出来上がっている。

くだんの映画に関しては、もちろんそのテーマの内部の人間として、その方法論はどうなのかとか映像クオリティに批判することはできるだろうが、実際にそれが多少なりとも観客の心をとらえたならばそれに対して自分は何もいうつもりはない。そんなことをやっていてもキリがないからだ。

そんなことをやっていれば自分ならば理屈上シネコンの邦画は片っ端から上映反対運動でもしなければならないだろう(笑)

 

最後に映画を観ないで批判がよろしくないという話で付け加えておきたい。

靖国 YASUKUNI [DVD] これまでネット右翼のおかげで日本では公開されなかった映画というのはいくつもある。もちろんそれが政治的な理由で公開されなかったとばかりは言えないとも思う。単純に興行の論理は儲かるか儲からないか。その利益が政治的な摩擦に対応するコストを上回れば、彼らはやらないだろう。ようするに面倒くさいのだ。

『靖国 -YASUKUNI-』は、民族派の右翼により上映妨害がされた。ところが、あの映画を観ればあの映画の中国人監督は反対派の予想とは別に靖国に寄りそう日本人の心性をそれなりにリスペクトしてフィルムを回していることがすぐにわかるはずだ。

『アンブロークン』も観る前から批判が起きている。事実に即していないということだ。ノンフィクションとされているのが気に入らない人間がいるそうだ。だが、その作品を確かめている人間は誰もいない。

右派の反対で日本で上映されないのは南京事件ものにすべて共通する。巨匠チャン・イーモウの『フラワーズ・オブ・ウォー』も公開されなかった。彼は中国映画界でもきっての日本通で親日化であることを映画ファンなら多少なりとも知っている。

ちなみにこの南京ものでいえば『ジョン・ラーベ -南京のシンドラー-』というドイツ映画も公開できなかった。そのため有志により日本での自主上映が行われている。自分はこの映画の上映に少しだけ手伝いをさせてもらっているのだが、正直作品としてははっきり二流である。だが、公開することに意義があり、それを観て何かを感じる人がいるならやるべきだと思うし、手伝わさせてもらいたいと思う。

あの頃映画 日本の夜と霧 [DVD] その昔大島渚の『日本の夜と霧』はクオリティに達していないうえに政治的すぎるという理由で公開がわずか一週間で打ち切りになった。ところが今ではその映画は松竹ヌーヴェルヴァーグの古典である。なにも自分はここで論じてきたドキュメンタリー映画が、そのような古典になるようなものというわけではない。ただし、自分は映画と観客の関係に対して謙虚でいたい。

観ないことには始まらないわけである。よって、それを飛び越えて始まる批判は、映画そのものに対する批評とはみなせない。

もちろんその政治的なシーンの内側での論理は別の結論を出すことがあるだろう。もっとクオリティをあげることがそのシーンの向上に役立つという理屈だ。またその映画の成立に関することを問うこともできよう。しかし、それらが混然一体になっているのは、双方の論理にとって欠陥を生じさせることになるはずだ。

 

なお以上は、自分が映画の内側にいる人間であり、さらにはその批判の角度について内側の人間のスタンスとして思ったことを書いたまでである。

たぶん一観客としてこの映画を体験したら、相当に批判的な評価を下すことは間違いないと思う。だが、人に問われて『永遠のゼロ』やシネコンでかかるテレビドラマのスピンアウト作品やラノベ原作の作品と、そのダメな映画のどちらかを観るべきかといえば、自分は後者を推薦することも間違いがなかろう。

 

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