ビジネスとしてのプロ野球とJリーグはいかに相互に影響を及ぼしあったのか -『巨人ファンはどこへ行ったのか?』を読む


 

巨人ファンはどこへ行ったのか?という本で少しインタビューを受けた。4/7発売。著者は雑誌「野球小僧」「野球太郎」の元編集でライターの菊地高弘氏。見本刷りが献本されてきたので初めて通読させてもらったのだが、これがなかなか面白かった。

以下、つらつらと本書に読んでみて考えたことを書いてみる。

この本は、「日本国民1億2000万人のうち、8000万人が我々を応援している」(長嶋茂雄の1994の発言)と言われた巨人が、気づいてみると昔ほど人気ではないし、巨人ファンというのも減っているのはどうしたわけなのか、という疑問とそれに対する様々な答えを見つけていこうとするものだ。

そして、それを通じて「ファン」なるものはなんなのか、野球というエンターテインメントビジネスは草の根でどういう受容のされかたをしているのか、ということを解き明かそうというところが面白い本である。

現在のプロ野球にはほとんど興味がない(というかわからない)自分なのではあるが、そういう視点でも面白く読めた。しかし、そういう自分ですらも、小学校は町内会の野球クラブには箸にも棒にも掛からぬ存在であったのだが、一応は入っていたりするし、中学くらいまではスタジアムに足を運んでいた。このへんが野球の層の厚さだとも思わざるをえない。本書では「ニワカがすべてを動かす」と言う。実際にそのとおりだろう。自分もニワカに近いゆるふわな野球ファンだったと思う。

例えば、イギリスは今でも階級社会であるから、スポーツもはっきりとファン層が色分けされている。もちろんサッカーはその中で一番クラスが下の人たちがムキになっているスポーツエンターテインメント。ハイクラスになると、これがラグビーになり、サッカーなんかまるで知らないスポーツのように無視している。ところが、そこにはからくりがあるのである。

野球オンチと言う私が、スライダーとカーブの違いがなんとなくわかっていたり、クイックモーションやら、どこそこにランナーがいるときに、ピッチャーはどこをカバーリングするだとかなんとか、そういう技術についてもさわりの知識があったり、昔話なら呂明賜のものすごいスイングで驚いていたことがあったり、「巨人はロッテより弱い」と言ったあとに巨人に4連勝されたり、清原という高卒の怪物ルーキーが守備についている一塁で泣いていたり、そんなことを一応知っているわけだが、イギリス人の場合は、これにサッカーが該当する。

ふだんはサッカーなぞ何も知らないというような顔をしていても、やはりそれなりに詳しい。ラグビー以外には興味ありませんという風なイケ好かない連中でも、日本の海外サッカーファン程度の知識は誰でもおおよそ保有しているというのが自分の経験則からの見立てだ。

それに比べれば、日本人の過半数はオフサイドとはなんぞやということさえ知らないだろう。4-4-2とか3-4-3など、もっとちんぶんかんぶんだ。逆に野球のことはそれなりに知識はある。求めていなくてもテレビには野球が流れてくるからだ。

支配的スポーツというのは、今でもやはり日本では野球なのである。こういう実情を踏まえて、2002年の日本代表の監督だったフィリップ・トルシエは、日本のスポーツエリートは野球に行ってしまっていると嘆いていたが、これは確かにその当時はそうだったと思う。

ところが、それが今では必ずしもそういうわけではないそうだ。

 

 

「1/12」になった巨人と、DeNAベイスターズのローカリズム

 

本書でもとりあげられている『野球崩壊』(広尾晃)によれば、次のような未来予測図になる。

エンターテインメントビジネスとしての野球はともかく、ただでさえ少子高齢化の日本社会のなかで野球の競技人口の減少は危機的な状況であるとのこと。これは自分のまわりの子供たちの姿を見ていてもよくわかる。それに加えて、いまだに賭博問題や数々の不祥事やら、エンターテインメントコンテンツとしてのライバルの存在がボディーブローのように続いており、この数年、観客動員が増加傾向にあるとはいえ、このままでいけばそれこそマイナースポーツに転落することさえありうるのではないか。それはもちろんエンターテインメントビジネスとしても衰退していくということである。

これが巨人には典型的に表れているということなのだろうか。巨人といえば、この野球界の絶対的な唯一無二の存在であったのが、今ではいわば1/12になっているということ。

これについて『巨人ファンはどこへ行ったのか?』の筆者は、巨人の視聴率のピークなどから1993年が分水嶺だったのではないかと目星をつけている。これがどういうことかというと、おそらく昭和の価値観というのが、ここで大きな変質を遂げたののではないかということである。この1993年は、細川内閣樹立による自民党の政権支配、つまり55年体制が崩壊した年。ここに巨人ファン=自民党支持者という仮説を筆者は取り付けているのだが、これがそのまま当てはまるかといえばなんともなのだが、それでも昭和を支えた価値観がこの年あたりから崩れだしていったというのはなんとなく肌感覚ではわかる。ちなみに、この1993年はJリーグが開幕した年であり、コミックの『スラムダンク』が連載が開始した年でもある。バブル時代後期に隆盛したスポーツエンターテインメントは従来のアメリカのものではなく、元々は上中流階級趣味的な、より洗練された欧州オリエンテッドのサッカー、F-1、そして競馬というそれであった。

本書の筆者は、この巨人ファンが「元・巨人ファン」となるまでの経過と現在を様々な角度から拾っていき、その全体像を紡ぎだそうとしている。そこでは、退廃したマジョリティ(巨人)であることから離脱し、マイノリティであっても生き生きとしたファンの在り方や、マスマーケティングから零れ落ちたものに価値観を見出そうとする志向を見出す。それは例えば、筆者がスタジアムの外野席で見た、自分の姿を写真に収めるファンと同じく、より一層スタジアムという場所に「自分を刻み付ける」ことができるからである。その流れに巨人というマスマーケティングの権化のような存在は適応できなくなったのではないか。

本書ではDeNAベイスターズの話が非常によく出てくる。正直言って指揮官としては結果をほとんど残せなかった中畑清が、現在のベイスターズの隆盛に意味合いがあったのか。これがなんとなくわかってくる。ちなみに、ベイスターズの本拠地である横浜スタジアムから半径3キロで仕事と生活が完結してしまう自分のささやかな観察でも、DeNAが徹底的なエリアマーケティング(しかもバスでスタジアムまで通える商圏)に集中していたかを知っている。横浜の港湾事業のみならず政財界に決定的な影響力を持つ藤木企業の藤木幸夫会長が、かつて「横浜ナショナリズム」と言っていたものと同じものだ。これは自らがローカルであると自覚し、それにむしろプライドを持つこと、マイノリティとなることを尊ぶ感覚である。

Jリーグがひとつのこのスタイルを作り出したことは言うまでもない。欧州では自らがつくりあげる共同体意識は国家をも寄せ付けないことがある。自らがローカルであることを自覚し、そのローカル性をマーテケティングしていくことを「グローカル」という造語を使って説明することがある。マンチェスターの労働者や、バルセロナの少数民族の寄り合いが、その求心力ゆえにパワーをもち、それが逆に商品化していく例である。自らをマイノリティとして位置づけ、そこに心のよりどころを見出していく感覚に、ナショナルブランドであろうとしてマスマーケティングを志向した巨人がついて行けなくなった・・・そんな見立てを個人的にはできる。

しかし、その一方でローカルであることをよりどころにして、個別のチームのファンは、1/12となった巨人を旗目に新しい楽しみ方を見出した。ここ数年のプロ野球の観客動員の増化はそういうところが原因なのではないだろうか。本書でメジャーリーグベースボールに詳しいライター氏が、巨人のような一極集中はむしろ弊害だったと、今の日本プロ野球の方向性に肯定的なのはこのへんが理由であろう。

 

 

興行団体としてのプロ野球と、それに影響されたサッカービジネス

さて、その野球とサッカーをビジネスで比較していくと、これもまた様々な違いがある。

サッカーはもともと強いコスモポリタニズムとイギリス紳士的なプライドを強くもったスポーツだ。世界中にサッカーを広めていき、誰もが同じボールとルールでフェアにプレイすることをポリシーとする。サッカーの「クラブ」というのは、こうした人たちが集まる貴族的な社交場の名称から始まっている。それがコスモポリタニズムと結合した。

しかし、そのジェントルマン的な発想は基本的にスポーツはアマチュアがやるものだった。金銭をもらって専業で行うなどというのは、いわば邪道であった。基本的に営利に真っ向反した発想から、サッカーの組織化は始まっている。そのためビジネスを優先するというスタイルには出来上がっていない。

もともとイングランドでは、サッカーの競技はノックアウト方式のトーナメント戦(例えば天皇杯やFAカップのようなもの)しか存在しなかった。そうすると、公式戦というのは負ければそこで終わりなわけで、優勝チーム以外は試合数は少なくなる。もちろんステージの最初で負けたものは1試合だけだ。

その頃、ようやく金銭を報酬にクラブチームに参加する選手が出てきた。賛否両論の存在ではあったが様々な紆余曲折の末に認められ、その時にサッカーはビジネスとなりだしたのである。そこで、問題となったのがトーナメント戦しかないと試合数が補償されず、しかも少ないということだった。

一方で、その頃にはアメリカではプロ野球が隆盛しだしていた。ブロ野球はその初めからしてビジネスとして成立することを前提としたものだ。年間に百数十試合が行われ、そこに集まる観客の入場料とその試合分の広告露出を保障されたスポンサーが集められ、そこでビジネスとなる。

実をいうと、現在のサッカーのリーグ戦(例えばプレミアリーグやJリーグ)の方式は、この野球のビジネススタイルをそのまま導入したものなのだ。つまりビジネスとしての方式は野球のほうが最初から進んでいたわけである。

※このへんは『サッカーで燃える国 野球で儲ける国』(ステファン シマンスキー・アンドリュー ジンバリスト共著)に大変詳しい。興味ある方はご一読を。

本書『巨人ファンはどこへ行ったのか?』に書かれているとおり、野球は入れ替え戦のない「運命共同体」でリーグがつくられる。そういう情緒的な言葉で表すとなんとなく本質がわからなくなるが、要するに外部参入を許さない保護主義である。プロ野球が営利目的の興行団体であるのだから当たり前の話でもある。

サッカーのリーグの入れ替え戦のように、チームが勝ち負けでビジネスのフィールドからたやすく弾き飛ばされたりするならば、企業としては投資がしにくい。また、新規参入によってシェアの奪い合いが無制限になることも、投資のメリットがでにくい。例えばサッカーならば、何百億円投資しても、たまたまその年の結果が出なければビジネスとしてうまみがない二部リーグに降格する。こうすると投資は絶望的に回収できない。プロ野球はハナからチーム数に応じたリターンが保証されたビジネスともいえる。それは例えば本書で指摘されているように、リーグの分配金が「社会主義的」といえるほど、公平に分配されることからもわかる。

ちなみに野球の「フランチャイズ」とは要するにその地域のマーケットを独占する権利のことである。プロ野球というのはあくまでも興行団体なのである。ところが、サッカーはそうはいかない。もともと世界にサッカーを広げていくコスモポリタニズムがあるから、ルールをフェアに守れるならば、来るものは拒まない。結果を出したものは報われる。それは投資とは一切関係ないし、それが保証もされなければ損失は補填されることもない。

Jリーグの創設時には、立ち上げ時の戦略として地域的に重複がないようにある程度配慮されたが、軌道にのるとすぐにこの方針はなくなった。

例えば神奈川県にはJリーグ1部に3チームがひしめき合っている。これがJ3まで含めると6チーム。ビジネスの観点から言えば、明らかにパイに比べてチーム数が多すぎる。しかし、それはサッカーの基本理念からすればなんら問題はないことである。しかしビジネスの観点からいえば、スポーツエンターテインメントとして未成熟なマーケットに多数の商品があるならば、やはりリターンはそれ相応にしか期待できない。よって投資はできないということである。これが悪循環を生む。

 

Jリーグの脅威を力に変えた日本プロ野球

ところで、本書も含めてなのだが、野球についてのビジネスやマーケティングを扱った論考には、必ずサッカーJリーグの話が出てくる。それはやはり前述のとおり、競技人口に直結するサッカーに対しての危機感やビジネスとしてのコンペティターとして強く意識していることが容易に理解できる。それは本書で40年以上も巨人に関わり続けた、とある人が、「江川事件」も長嶋解任騒動も巨人の人気低下には決定打とはならず、むしろJリーグの誕生が一番の危機と感じたと現在でも考えていることからもわかる。

この当時、読売新聞社長の渡辺恒雄 vs Jリーグ川淵チェアマンの対立も生じた。さらには実際に読売新聞主導でサッカーの新リーグの可能性が検討されたのも当時あったことのようである。(もちろん実現は不可能だったろう)。だが、実際は渡辺恒雄の考えていたことは、それがいかに自身のビジネスを中心に考えていたものだったとはいえ、資本投資しやすい環境をつくり持続的なビジネスとするという意味ではやはり理にかなったことともいえるだろう。

実際、この対立からすぐJリーグのバブルは崩壊した。未成熟なマーケットに無理な投資と商品の過剰供給が生じたといわれても仕方ない出来事だった。しかし、その一方で草の根までスポーツの魅力を伝えて、そこから「百年構想」で営利を超えた文化をつくるというJリーグのポリシーも実を結びつつある。それが競技人口の逆転現象だ。これはおそらく今後さらに加速していくであろう。その時に、ビジネス優先の施策をとったプロ野球はウサギとカメの故事のようになる可能性は極めて高いだろう。

しかし、だからといってサッカーが野球のようなエンターテインメントビジネスとして成立するかどうかはまた別の問題だ。ときおり、知人の誘われてプロ野球を見に行くと、私が少年時代にスタジアムで見た野球とはエンターテインメントとしてかなり変わったと思う。たぶん今のプロ野球はルールを知らないものがなんの前提知識もなく見に行っても、それなりに楽しめるだろう。アメリカ流のエンターテインメント路線はチアガールや観客サービス、飲食やチケット販売まで行き届いている。スタジアムの光の量も全く違う。カクテルライトに照らされる緑の芝生の美しさは、日本のサッカースタジアムとは格段に違う。これはライト数の違いである。おそらくエンターテインメントとしてどうやって生き延びていくかは、プロ野球のほうがより真剣に考えてきたのではないかと思わざるをえない。もちろんこれは単純に試合数の差による収益規模から来る投資体力が大きいのだろうが、それでも90分間ロクなエンタメもなく、ひたすら苦行のように寒いスタジアムで90分間じっと試合だけを観ざるを得ないサッカーとは格段に違う。これがプロバスケットボールになると、もっとその差を味合わせられることになる。プロバスケットボールのエンテーテインメントの洗練され方は、それがBリーグレベルでもサッカーファンとしては思い知らされることになる。

いずれにしても、おそらくビジネスとしてのプロ野球にサッカーが追いつくのは、遥か先のことになるだろう。Jリーグが百年構想ならば、そのうちまだ四分の一も経過していない。

逆に日本プロ野球は、1/12になった巨人、つまりマスマーケティングではない、商圏を限るエリアマーケティング、それを担保するローカリズムをグローカルに展開できるようになった。これはもちろん本来はJリーグが目指していたものだった。

 

理想主義的サッカーはコスモポリタンな未来を掴めるか

自分としては、逆にサッカービジネスは、かつてリーグ戦のビジネスモデルを野球から導入したように、サッカーも変わらなければならないところはあるのではないかと思わざるをえない。サッカービジネスのごくごく端くれにいるものとして、やはりサッカー、特に国内リーグのマーケットの貧困にはまだまだ問題があると強く思う。スタジアムが満員になるのは、年何回かの日本代表戦と海外クラブチームの遠征時、Jリーグのスタジアムはまだまだワールドカップ仕様の観客席を埋めるには至らない。年間140試合が保証されている野球だからなおのこと羨ましい。

一方で、ビジネス優先で、プロ野球のクライマックスシリーズを思わせるシステムの2ステージ制を引けば、これも国内のファンの強い反対にさらされる。確かにこのような公式戦システムはサッカーでは例が少なく、これに反対するのは理想主義的なサッカーファンの面目躍如なのだが、それを言うなら、リーグ戦そのものがサッカーのオリジンとは関係なく、野球のビジネスを見習ったものなのはどう考えたらいいのだろうか。サッカーファンは、そういう意味であまりにも考えが閉鎖的になりすぎているような気がしてならない。これに関しては、Jリーグに危機感を抱いて自ら変わろうとした日本プロ野球とは対照的だろう。

唯一、日本プロ野球に対して、ビジネスとして先駆けているところもある。それは外資の導入である。

プロ野球には外資規制があり、これは比較的厳格なものだが、Jリーグはこれが近年かなり緩くなってきている。これは、横浜F・マリノスが顕著な例であるが、もともと親会社である存在が外資企業になってしまうケースが出てきているからである。日産自動車はすでにフランス政府が大株主のルノーの連結子会社、つまり外資企業である。というか、そもそも外資であるか国内資本であるかというのが古い話であり、日本の時価総額1000億円以上の企業の株式の外国人保有率は30パーセント超の時代に、外資か国内資本かといっても仕方ないわけである。マリノスは、2014年にUAEの国策投資会社のアブダビ・ユナイテッド・グループのスポーツエンターテインメント事業を行うシティ・フットボール・グループの株式を受け入れている。つまり、マリノスを実質支配しているのは、フランス政府とUAE政府ということになる。

今、世界のサッカーでビジネスとして台風の目となっているのは中国だ。ナショナルチームの不甲斐なさとは別に、中国のクラブチームは積極的に高額な移籍金で選手や指導者を招き、アジアでトップレベルのチームも出てきている。あたかもバブル直後のJリーグ創設当時を思わせるが、同じように中国のサッカーファンやプレイヤーも大きな刺激を得ているだろう。この効果は10-20年後に底上げ効果として必ず出てくるはずだ。その中国が例えば、シャープは台湾企業に買収されたが、中国は当の昔にラオックス、レナウンといった日本企業を買収し、家電メーカーの部門の買収はもはや珍しいものではない。こうした企業の爆買いの対象にJリーグのクラブがなることもありうるのではないか。中国ではJリーグはサッカーファンの間ではリスペクトの対象である。欧州では、中国、タイ、インドネシア、ロシアといった国が有名クラブを買収するのは、もうこの15年来珍しいものはではなくなっている。これにより、多大な投資が可能になって見違えるようになったチームをファンは普通に承知している。

日本の少子高齢化の中で、競技者の裾野をいくら広げても、どんなに適切なマーケティングだけをしていっても、ビジネスとしては可処分所得のパイの食い合いになるだろうだろう。そういう引き潮の中で立ち回る方法は必要となってくる。そのひとつが外資の受け入れとなるだろう。

もちろんこれはサッカービジネスの中で、重要ではあるもののあくまでもビジネスの中では部分の話に過ぎない。

本書で初めて知ったことがひとつある。歴史的に巨人が本格的に人気が出たのは、V9後、第一次長嶋政権で史上初めて最下位(1975)になってから、というものだ。それまでのV9時代であっても後楽園球場の観客席には空きがあったとのこと。

その巨人が初めて最下位になったとき、巨人ファンは「自分が応援しなくても(強い)」から「自分が応援しなくては(負ける)」に変わったというわけだ。そういう参加意識や帰属意識を得て、はじめて巨人に一極集中して巨人ファンが最大化したのだと(例の93年を超えた94年くらいがピークとのこと)。これはなるほどなとも思うし、同じスポーツファンとしても納得できるところがある。きっとスポーツエンターテインメントを持続可能なビジネスとしていくには、こういうことすらも、サービスの送り手は読み解いていくことが必要になっていくのであろう。

 

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