マーラーとカフカと田村隆一 / 「恋の罪」 園子温

恋の罪01
映画館の暗闇が引けたときに座席に座りこみながら、まず思いだしたのは、G.バタイユの次のような一節。

おまえは、どんなものにも、あからさまな貌と隠された貌とがあることを知らねばならない。おまえの顔立ちは高貴だ。(中略)だがおまえのドレスの下にのあの軟毛に包まれた部分が、おまえの唇ほどの真理を持たぬわけではない。あの部分は、ひそかに汚物へと開かれている。あの部分を抜きにしては、あの部分の用途につながれた屈辱をぬきにしてはおまえの眼の命ずる真理もしみったれたものになってしまう
(G.バタイユ「ハレルヤ」)

愛のむきだし』でも、徹底的にまじめに人間の「原罪」について語り続けているのが、園子温という監督。
ここでいう「原罪」とはまごうことなきまでカトリックがいうところの「原罪」。
しかも、盗撮グループに所属する主人公というのがあくまでもキッチュであり、そのアンバランスさがとても印象に残った。
原罪が実のところ真正面から描ければ、キッチュになる。ユーモラスでさえある。グロステクにも見える。
これを喜べるか、眼をそむけるか、その選択がこの作品の評価を決める。腑わけでもするかのような冷徹さで、事象のふところに手をいれて血みどろの内臓を取り出す仕草に、自分は声も出なくなった。またやられた、そんな感想をようやくつぶやいて椅子から立ち上がるわけである。
映画は、片親から一方的におまえは罪びとだと宣言されてしまう大学教授にして娼婦である女がキーポイント。
父親が汚辱にまみれた存在だとされ、いい家柄の母親に断罪されてしまう。だからおまえは生まれながらにして呪われているということらしい。
恋の罪サブ2
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これはなんとなく三島由紀夫の出自を思い出させた。
三島の祖父は平民の出ながら成りあがった内務官僚。その後、汚職事件で没落。家柄よろしい祖母の影響下に育った、三島は汚辱にまみれた父の家系と決別しつづけることを選ぶ。三島の雅(みやび)趣味は、実は祖母方の影響であり、そこには表裏一体となった汚辱の歴史があるのだ。
途中、田村隆一の詩篇を持ち出してくるのにはびっくりした。「愛のむきだし」における新約聖書のコリントの信徒への手紙と同じく、強烈なインパクト。

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
 -田村隆一『帰途』

さらにはカフカの「城」まで。ここまでくると、正直自分にとっては後付けすぎる仕掛けと思えたが、この田村隆一の詩篇と意味との整合性はとれている。図式すぎるとしても。
マーラーの五番もそういう意味で図式をつくりあげる道具ですが、あまりにも道具然としすぎている感もあります。もちろんこの曲はビスコンティの「ベニスに死す」の物語性の引用ととっていいのであれば。美少年に寄せる同性愛を醜く、かつ美しく描いた、老いた作曲家の汚辱の物語のテイストが、この映画に付け加えられているわけです。
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三人の女の性の罪深さが悲劇となる話です。
狂った母親が娘である大学教授の女の超自我、ラブホテル街で客引きをする大学教授の女が主人公の超自我、という構図は、「愛のむきだし」を、重層的にしたものです。
愛のむきだしでは、超自我が突然新興宗教の教祖に転移して実在化されます。それとは違った展開となったこの映画では、女たちは自我を確立すりための戦いに赴かなかったというところ。儚く虚ろに女たちはオロオロとしていき、そのうちの2人は異様な形相となって深く堕ちていく。
音楽的な物語引用がおこなわれたヴィスコンティの「ベニスに死す」。この原作には老醜の主人公がこんなことをつぶやくシーンがあります。

認識はものを理解し赦し、性根をもたず、体裁も顧みない。認識は奈落に、深淵に気脈を通じている。いや、認識こそ奈落なのだ。(中略)われわれにはただ彷徨することしかできないのだから。
(トーマス・マン「ヴェニスに死す」)

マーラーの交響曲第五番は、この言葉を引き出すかのようです。
「言葉を覚えてしまった」(田村隆一)、つまり「認識してしまったかのゆえに、奈落に落ちてただ彷徨する」(トーマス・マン)。
アダムとイブの原罪を認識することである。それにより「われわれは必ず邪な道に踏み入らなければならないだろう」。そして私たちは苦しむことになる。
血のしがらみで「原罪」を刻印された女は、狂った母に促されるかのように、キチガイじみた娼婦におちていく。これがひとつの発動回路となり、女の中の汚辱の部分に共鳴しあう。
このへんのストーリーがあまりにも強烈すぎて、一応謎解きとなるラストの強引さや、図式を成立させるために多少ぎこちなく取り扱われる「城」の物語的引用に不満は残るものの、圧倒的な映画のパワーに首根っこをつかまれて引きずりまわされる思いである。
ただ同時に、猟奇殺人というテーマをどまんなかにおきながら、その謎解きの部分までキッチュにしてしまうことはなかろうとも感じる。これも愛のむきだしと同じく不満となるところ。
愛のむきだしでも、まったくもってSFアクションもどきな展開がマイナスすぎる。
超自我は最後まで姿を現さないから怖いのは、ヒッチコックからの基本ではないか。しかし、それでもこの監督は結末をつくってしまう。その超自我はなんなのか、真正面からカメラを置く。まじめさと確信犯的なキッチュを現われにする手法が交錯しあう。
この微妙なバランス感は、この監督の魅力として享受してよいものと思う。同時に不満なところでもある。

ちょうど同時期に、ヴィスコンティの「ベニスに死す」がデジタルリマスターで上映されていたため、確認のために観に行くことにした。やはり、これは共振しあっている作品に仕上がっていると思う。園子温の勝ちである。
「ベニスに死す」のレビューを参考にされたし。
FWF評価:☆☆☆☆★

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