マレーシアというと、たいへんな「親日」国家であるそうな。実際のところそうなのでしょう。
これは1981年から20年以上在任したマハティール首相の功績が大ということである。この首相は「ルック・イースト」と呼ばれる、日本の経済発展を学ぼうという政策を打ち出したことで知られる。そのため、様々な分野で日本へ留学し、帰国後に活躍しているということらしい。そのため親日である、と。
さらには、最近の出所妖しいネットの情報によると、太平洋戦争の評価を巡っても
「マレーシアの教科書には、日本軍は解放軍と書かれている」
ということである。
例の大東亜戦争はアジアの解放戦争だった!ってヤツですね。
で、こんなサイトがあったりします。
親日国家マレーシアの歴史の国定教科書をごらんください。マレーシアは、日本によるイギリスからの開放によって歴史が始まったとされているようです。
マレーシアの教科書には「日本軍が、イギリスを追い払い大東亜共栄圏のおかげで独立を勝ち取ることができた」そのことが克明に記されています。
日本が東南アジアでなしえたことそれは日本人自身がしっかりと把握しておかなければならないと思います。
日本人としての意識をもう一度考えなおすために日本のメディアや中国の言動に惑わされず真実を見極めることが必要不可欠だと思います。
知っていますか? マレーシア教科書から見える真実
そして結論はこうなるようです。
【マレーシアの歴史教科書】#歴史認識関連Tw#植民地支配関連Tw#戦争の真実と事実関連Tw
マレーシアの歴史教科書は日本軍の上陸から始まり、日本軍を「解放軍」と記載。
開放というのは白人の植民地、帝国主義からの開放という意味。⇒(続く)
— 野中星〔ノチゥ〕スティックジャグラー【愛妻が令和2年2月29日に永眠】私は早期退職し畑爺に転身 (@nochiw_penguin) October 1, 2020
マレーシア国定歴史教科書
マレーシアは長らく西欧諸国の植民地であったため、国としての歴史が存在しなかった。国の歴史がどこから始まるかというと「日本軍のコタバル上陸から」である。教科書の最初には明治天皇のご真影。侵略国の天皇陛下の写真が最初に掲載されるわけがない pic.twitter.com/zT4BjY0aRz
— カワダ運送 不動産賃貸・古物商のカワダ 川田倫也【公式】 (@kps_niigata) January 13, 2020
マレーシアの歴史教科書では日本軍は英雄だと教えておりチャイナから圧力があってもそのスタンスは変えてないと聞いたけど。しっかし、このAFPの記事はまるで華人のプロパガンダ紙だね。地元スター(Star)紙を引用する形で華人の捏造をそのまま垂れ流し。レイプ・首切り…https://t.co/eDG1i0NgpH
— mike (@mikedayan3103) March 27, 2019
えっと・・・あの。
実際、この人たち、このマレーシア語の教科書読んで書いているのかな。まあ読んでないでしょうねえ。
以下は、マレーシアの国定教科書中学校二年用『歴史の中のマレーシア』の邦訳です。
なお、マレーシアは公的補助が出る学校はマレー語での教育が定められています。本教科書はそれなのですが、これとは別に人口の24%を占める華人系の私立の学校の教科書はあります。が、これから紹介するのは、これとは別の国定教科書です。
1988年度版でやや古いのですが、くだんのマハティールの「ルック・イースト」政策は1981年に始まっていることもあわせて書いておきます。
長いので、以下の引用には太字をつけてます。ここだけ読んで頂いてもけっこうです。
マレーシアの歴史教科書 -日本人によるマラヤの占領
◇日本、満州と中国を侵略 1931-39年
日本は自国の地位を保持する上で朝鮮と満州が重要であると判断した(中略) 日本は満州国に、日本の意向に対して従順な国王を擁立した。そのような政権を傀儡政権と呼ぶ。すなわち、日本が満州の事実上の支配者であり、満州の炭鉱や鉄鋼山の所有者であるという意味である。
◇日本が東南アジアを侵略した理由
日本は20世紀に工業国となった。しかし日本の工業の発達は、外国から輸入される天然資源に頼っていた。その状態は現在までずっと変わっていない。日本にとってもっとも重要な資源は石油だ。(中略) 東南アジアへ勢力を拡大することで、日本は安定した石油の確保がきっとできると考えた。(中略)したがって日本が東南アジアへ勢力を拡大した大きな理由は、経済的必要性である。
1936年2月、軍部は当時勢力があった政治家たちを一掃した(※2.26事件のこと)。ほとんどが軍の指導者からなる新しい政権が樹立された。新しい指導者はヒトラー支持者だった。(中略) 日本政府はますます攻撃的になっていった。軍司令官のひとり東条大将が1941年日本の首相になった。彼こそ、私達の国が侵略されたときの日本の指導者である。
日本人のスローガンは「アジア人のためのアジア」であった。これらの国々が日本によって解放されたのち、さらなる発展のためお互い協力するべきであるというものだったらしい。一見すれば、日本の目的はよいが、しかし、実際に日本が望んでいたことは、経済的に支配する帝国を作り上げることだった。
◇日本の東南アジア侵攻
日本人はコタバル(マレーシア東北部)に上陸した。これによって日本のマラヤ(マレーシア)に対する攻撃が始まった。日本はすばやくマラヤを占領することが出来た。たった十週間のうちに日本はマラヤの支配者となったのである。(中略)
【日本の勝因】
(1)マラヤの軍隊が弱かった
(2)日本軍の規律が良かった
(3)シンガポールの防衛線が陸地に向いていなかった
(4)イギリスの戦艦2隻が簡単に沈められた
(5)現地の人々の協力現地の人々の多くは、日本のスローガンを信じた。日本は、自分たちが「アジア人のためのアジア」のために戦っているんだと言っていたのだ。これは、日本がヨーロッパ人を追い出してアジアの国々を解放するという意味である。多くのアジア人は日本を解放者だと思った。日本が進出してくることに地元住民の激しい反対はなかった。日本の進出のあとになって、やっと現地の住民は、日本が約束を守らないことに気づいた。その後になって、ようやく彼らは日本に抵抗し始めた。
◇日本によるマラヤ支配
日本は、マレー人の解放獲得の期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分の植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。(中略)
憲兵隊は一般の人々にとても恐れられた組織だった。
憲兵隊は、逮捕された人はだれでも罪があるとみなした。(中略)罪のない人を罪人だと自白させるため、さまざまな拷問が行われた。彼らは手や足の爪を抜いた。
日本占領時代は、マラヤの国民を怖がらせた暗い時代だった。国民のすべての生活様式は、日本人が自分たちの文化をマラヤに持ち込んだため混乱した。このことは、この地に持ち込まれた教育制度を通してみることが出来る。
すべての学校で日本語が教えられた。(中略)そこでは日本人の挨拶の仕方や日本の慣習、歌が教えられた。(中略)マレーシアの日本人は、仕事の時間を決めるのに日本時間を使用するよう主張した。これがどんなに混乱をもらたすことか想像できるだろう。(中略)
日本はすべての大きな企業を支配した(中略)
イギリスが私達の国を支配していたとき、私達は米をビルマやタイから輸入していた。日本支配時代には、米はあまり多く輸入されなかった。米不足の問題は深刻だった。(中略)日本人は米の配給制度をしいた。米はまず日本の官史や兵士、日本人に協力した現地住民に与えられた。そして余ったものが国民に与えられた。(中略)あまり栄養もなかった。まもなく多くの人々が脚気や結核、皮膚病などを患った。(中略)
日本は、役人に給与を与えるためのお金が必要だった。イギリス通貨が使用されなくなったために、日本は自分たちの通貨をつくらなければならなくなった。(中略)彼らはお金が必要となるたびに紙幣を印刷した。物価があがると、日本はさらに多くの紙幣を印刷した。
日本人自身、どれくらいの量の紙幣を印刷したかわからないようだ。(中略)経済状況はますます悪化した。このような状態をインフレーションと呼んでいる。
◇日本占領時代の生活
日本軍政部の態度は厳しく、乱暴だった。ことのことが国民生活の状況をさらに悪化させた。健康のためのサービスはないがしろにされた。ヨーロッパ人の医師と看護婦はすべて囚人キャンプに送られた。(中略)
日本はマラヤの国民を日本軍自身の目的を達成させるために利用した。例えば、彼らはタイとビルマの間に鉄道を建設しようとした。この計画は多くの労働者を必要とし、マレー人の労働者がそのために使われた。多くの普通の国民がトラックで運ばれ、強制的に鉄道建設のために働かされた。そのうちの多数の人は帰国できなかった。およそ10万人が、その鉄道建設のために犠牲となった。この計画は、まさに「死の鉄路」と呼ぶにふさわしい。
◇マラヤの各民族と日本
(1)中国人
日本がマラヤを占領したとき、彼らは中国人に対して、厳しく乱暴だった。彼らはすべての中国人は反日であると疑っていた。シンガポールを占領したのち、日本は数万人の中国人を殺した。
マラヤの他の地域の中国人もまた、同じようにひどく扱われた。疑いをもたれた人間はすべて捕まえられ、刑務所に入れられた。
イボー近くのアンパン村で起きた事件は、日本の残忍さを示す一例である。二人の日本の憲兵が中国人らに殺された。中国人の村長らは逮捕され、拷問にかけられた。罪があろうとなかろうと、すべての中国人は調査もなしに処刑された。村の住民は出ていくように命じられ、そのあと村は焼かれてしまった。
(2)インド人
日本はインドからもイギリス人を追い払いたかった。彼らはこのときこそ、インドのイギリス人を攻める絶好のチャンスだと思った。(中略)
日本はインドのイギリス人を攻めるため、私達の国のインド人の助けがほしかった。日本は、この国のインド人がイギリス支配から独立を勝ち取ろうとするインドの戦いを支持していることを知っていた。そこで日本は、この国のインド人に対しては比較的友好的な態度をとった。日本は、インド人がこの国でインド国民軍を組織することを助けた。(中略)
私達は、日本がこのように自分の利益のためにインド人の魂や感情を利用したことがわかった。インド人はしだいに日本を信用しなくなっていった。(中略)数千人のインド人は「死の鉄路」の建設のために強制的に働かされた。インド人は、独立の約束はウソであることに気がつきはじめた。反対に日本はインド人を奴隷化していった。
ついにはインド人も反日グループに参加し、日本人に対抗した。
(3)マレー人
日本はマレー人と友好関係を保っていた。マレー人はマラヤ最大の民族である。日本人は彼らからの支持と協力が必要であった。
日本は、マラヤの中国人がマレー人を嫌っていることを知っていた。もしマレー人の待遇を悪くすれば、マレー人が中国人と団結して日本に敵対してくるのではないかと日本は恐れた。(中略)日本はこの二つの民族の間の雰囲気をかきまわしたのである。
マレー人はしだいに日本の目的を疑い始めた。日本は、私達の国をイギリス支配から解放すると約束していた。しかし多くの人々は、比較してみると、イギリス支配のほうが日本の支配よりいいと思い始めたのである。
マレー人は日本支配の残念さを感じ始めた。必要物資や食料の不足が起こった。当時の生活状態は、日本人が約束した豊かさとは異なっていた。それでマレー人は失望し、そのうちの多くが反日運動に参加していった。
◇抗日運動
私達は、日本支配の残忍さや残酷さが多くの人の反日感情を呼び起こしたということを学んだ。敗北したイギリス軍は刑務所に入れられた。それで国民は、イギリスの助けなしで日本に対抗しなければならなくなった。(中略) 日本に敵対した最大組織は、反日マラヤ国民軍MPAJAだった。
(中略) 1943年この反日グループはジェッセルトンを占領し、多くの日本兵を殺した。しかしこの成功は束の間だった。日本軍は勢力を回復できた。彼らは仕返しをしたが、そのすべての行動は非常に凶悪なものだった。数千人が拷問を受け、殺された。アルバート・クォックは日本が罪のない人を拷問にかけるのをやめるようにと、日本人に対して自首した。彼は斬首刑に処せられた。
◇マラヤ民族主義者
私達はマラヤにおいて、1930年代にマラヤ民族主義が形成されたことを学んだ。(中略)多くの指導者がイギリスに逮捕された。日本がマラヤを占領したあと、KMM(※マラヤ青年統一組織)の指導者は釈放された。日本はKMMは反英だから危険な存在ではないと信じた。(中略)
KMMの指導者らは、表面上、日本人と協力しているように見せたが、実際には日本人に盛んに敵対した。(中略)1942年6月、日本側はKMMを非合法とした。
1945年以前に、日本はすでに、同盟国ドイツが連合国の攻撃を防衛できなったため、戦争に負けるだろうと感じ始めていた。日本側はマラヤ民族主義者の指導者に対する方針を変更して、マラヤとインドネシアに独立を与えることに合意した。このような方法を用いることで、日本側は、イギリス復帰にマレー人が反対して、日本の見方につくことを期待した。
◇日本支配の終わり
日本が降伏して三週間後にイギリスが戻ってくるまで、民族対立が私達の国でおきた。日本は、各民族に対して異なる政策をとっていたため、国民に悪い影響をもらたした。(中略) イギリスが戻ってきてから(中略) まもなく状態は平常に回復した。
しかし、すべてがもとに戻ったわけではない。日本支配の結果、国民の考え方が変わった。20世紀初めからマレーシアを統治してきたイギリスは、日本の手からマレーシア国民を守れなかった。イギリスは日本人に負け、ばかにされた。マレーシア国民の目には、イギリスの権威はその弱さゆえに、地に落ちた。
マレーシア国民の間のナショナリズムの感情は、日本支配が終わってから、より激しくなった。国民の政治意識が喚起され、多くの政治運動が繰り広げられ始めた。そしてついに12年後に、私達の国の独立が達成されるのである。
一読してのご感想はいかがだったでしょうか。
わたしは、あれれ全部バレている・・・というようなものでした(笑)
以下、いくつか補足しておきましょう。
したたかな闘争 -東南アジア諸国は日本軍政をどう思っていたか
このマレーシアの教科書の翻訳は、シリーズになっている『アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編 』から抜粋させていただいております。
東南アジア編では、フィリピンのように直接戦火に晒されて被害の大きかったところから、インドネシアのようにほとんど連合軍からの攻撃を受けなかったところもあります。その他、シンガポール、ブルネイ、ミャンマー、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア。
これらの国々の教科書に共通しているのは、確かに太平洋戦争の日本軍の侵攻によって、支配していた欧米各国からの支配を脱することが出来たが、日本軍の軍政の方が酷く、苛烈な統治をしていたというものです。
日本軍の残酷さ、特に地方での女性に対する邪悪な扱いは、多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍は、フィリピン市民に対して残酷さをいっそう加えるようになった。多くのフィリピン人は、有罪無罪を問わずとらえられ、サンティアゴ砦や、日本軍が接収し刑務所とした他の施設に送られた。家に戻ることができたものにしても、不自由な体となっていた。
東南アジア諸国のなかで、フィリピン人が一番激しく、長く戦ったので、フィリピンが戦争によってもっとも破壊された。フィリピン人全体で111万1938人が戦死した。この中には、戦場や日本の捕虜収容所で死亡した兵士たち、また日本軍によって虐殺された市民(男性・子供・女性たち)が含まれている。
フィリピン高等学校用歴史教科書『フィリピン国の歴史』(1981版)
当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。(中略) その実態はどうだったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並外れた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は日本の戦争のために搾り取られた。(中略) この結果、民衆の間では食料がたいへん不足してきた。飢餓の危機がいたるところで発生した。栄養失調で腹ばかりふくれた、多くの人々が死んでいった。道端や店先など方々で、しばしば死体が目撃された。
インドネシア中学校用歴史教科書『社会科学分野・歴史家第五分冊』
マレーシアと並んで東南アジアの「親日」国家とされるインドネシアでさえこんな感じです。さらに次のようにも書かれています。
◇日本の占領政策は民族主義闘争に利用された
インドネシア民族に対する日本の圧制は、実に非人間的なものであった。自然資源と労働力の搾取は、徹底的に行われた。民衆は、我が国の歴史に例のない苦難を体験した。(中略)
民族主義者たちは、表立っては日本軍政府と対立はしなかった。それは非常に危険であり、闘争を有利にしなかったからである。日本軍は、抵抗するものは誰であろうと、遠慮せずに殺した。(中略)
闘争は、状況と条件に適合したものでなければならない。このような理由によって、日本植民地時代には、民族主義者たちは協力戦術をとったのである。彼らは日本軍政府に協力するようにし、日本軍政府によって組織された団体のなかで役割を引き受けた。このような戦術をとることによって、民族主義者の指導者たちは、民衆を守ることができ、日本政府の政策を民族主義闘争のために利用したのである。
したたかですね。
彼らのなかの親日とされる人たちが、「日本のために我が国は解放された」と発言する時があります。これらは以上のことを含みおいて理解するべきです。
台湾の親日の本当のところ
世界で一番「親日」と言っていい台湾でさえ、歴史教育はシビアです。
台湾の中学校の教科書である『認識台湾』は、その全編の1/3を日本統治時代が占めていて、その中では日本の統治行政が肯定的に取り扱われている一方で、差別や弾圧などの事件を客観的に取り扱っています。特に皇民化教育については手厳しく批判していますね。
時折、台湾が韓国や中国の「反日」と違い、いかに「親日」であり、日本の戦前の統治を肯定的にとらえているかと自画自賛する保守派の論調を見かけます。よって、日本の統治時代や戦争をいまだに批判しているのは韓国や中国だけなのだ、ということですね。だがこれは見てきたとおり嘘です。
10年にわたり台湾に在住しづけているジャーナリスト酒井亨はこのように苦言を呈してます。
保守派の主張は台湾在住者から言わせれば、それこそ一面的で、台湾人の「親日」を自分たちに都合よく解釈し、「幻想としての台湾人」を作り上げているとしか思えない。
実際の台湾人は、戦前の日本統治に対して強い批判や不満を持っている。もう一度経験したいかといわれればほぼ100%の高齢者が否定するだろう。いまの若者たちならば、即座に「今の日本が良い。戦前の日本ならまっぴらごめんだ」という返事が返ってくる。
『「親日」台湾の幻想』酒井亨
つまり、好意的な部分だけを「つまみ食い」している、というわけです。
これはアジア各国の「親日」国でも共通の話ではないでしょうかね。
日本軍が解放したと現地では歓迎されていた・・・のウソ
最後に、マレーシアの教科書にある華僑の虐殺についても触れておきましょう。
日本軍は中国戦線での経験から、マレーシアの華僑を中国系というだけで片っ端から逮捕したり殺したりの虐待をしていたようです。
これポイントなんですが、マレー攻略に参加した25軍の隷下の近衛師団・第五師団・第十八師団、これ全部中国戦線から転戦してきた部隊なんですね。第十八師団などは悪名高い南京攻略戦に参加しています。
シンガポール攻略でも同じようなことをしていて、シンガポール華僑粛清事件として知られています。このため関係者はイギリス軍に終戦後裁かれ、そのうち何人かは死刑になっております。
なお、この華僑虐殺について、とあるマレーシアの国会議員が、
『日本軍はマレー人を一人も殺していません』と私は答えてやりました。 日本軍が殺したのは、戦闘で戦った英軍や、その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。そして日本の将兵も血を流しました。
・・・といったという話がネットでは、だからマレーシアでの虐殺はなかったという話として、また曲解されているようです。
これまで見てきたとおり、日本軍はマレー人と華僑のもともとの仲の悪さを利用して、華僑のみを虐待したわけです。で、中国人は皆「抗日ゲリラ」として扱い、虐殺してしまったわけです。ですので、この話自体は間違ってません。だって中国系は女も子供もなんら政治活動をしてない人も皆「ゲリラ」なんですから。
そんなわけで華僑のマレー人(中国系マレー人)虐殺はなかったということには全くなりません。これはシンガポールと全く同じですね。
まあ、なんにしても戦争中の自画自賛話については、警戒しないとガセネタ掴まされて恥をかくことになります。太平洋戦争で日本が実はアジアの国々を解放したと現地では歓迎されていたというこの手の歴史観はほとんどウソか、また一部を切り取って誇張した情報と言ってよいと思います。もちろん本当のこともあるでしょうが、その裏にはこのような苛烈な日本統治がセットになっているということを忘れてはいけません。
本当に気をつけましょう。
なお、この手のニッポン自画自賛本の中では、キチンと現地取材をしている比較的マジメな本である『アジア親日の履歴書 』には、歯がゆくなるような「日本が尊敬されている」情報が満載なわけですが、この本ですらマレーシアの項目ではこんな風に書いてあります。
マレーシアと日本の現在の二国関係は、マハティール元首相が提唱したルック・イースト政策による頻繁で密接な交流により良好であるといえるだろう。しかしその関係には、戦中の歴史が地雷のように潜んでいる。
マレーシアは、マレー系・中国系・インド系の民族で構成される多民族国家である。(中略) 戦時中の日本はこの民族ごとに対応を変えた政策をとってきた。中国系の住民には巨額の献金を割り当てて大金を支払わせたり、粛清したのだった。粛清というと言葉でごまかしているようだが、実際には単なる虐殺だった。では、マレー系やインド系の住民が優遇されたのかといえば、そうとも限らない。泰緬鉄道の強制労働に駆り出されたり、軍隊からの物資徴収ということで食料や自転車などを略奪された過去がある人は多いのだ。こうした過去は、戦時体験として代々語り継がれている。
結論を申し添えておきましょう。
マレーシアの人たちが「親日」なのは、台湾の人達と同じく、現在の平和で文化的に優れた日本が好きなのです。
欧州の植民地から独立するきっかけになったのは日本の統治だったのは事実ですが、だからといってもしまた日本軍の軍政下にもどりたいかと聞かれれば、まっぴらごめんというところでしょう。彼らはその時代を警戒するために脈々と語り継いでいます。
そして、それは中国や韓国も同じことで、地政学的に近接した両国は政治のレベルで対立していますが、文化的には日本のことが大好きです。都合のよいところを抜き出して、ここは反日ここは親日とやっても、遠近感失った現実しか見えてきません。
そんなわけで、みなさんご注意あれ。
追記:この教科書を入手するため、実際にマレーシア・クアラルンプール郊外の公立学校にお邪魔させていただきました。結局、本屋さん紹介されましたけど。