欧州きっての「左翼」のサッカークラブ、ザンクトパウリとは -ハンブルグの海賊の「政治とサッカー」

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独ブンデスリーガの二部のザンクトパウリというチームが注目を集めている。

理由は二つ。ひとつはJリーグを飛び越えてイングランド・アーセナルからプロ経験を始めた注目の選手、宮市亮選手が所属していることから。もうひとつの理由は、このクラブチームのチームのエンブレムが海賊のようなドクロであること。

このクラブチームについては、日本でもいくつか解説されることがあるのだが、それがどうも「パンクスが熱狂的なサポーター」であるとか「反体制を売りにしたチーム」などということが書かれていて、どうにも歯がゆい。

サッカーと愛国このクラブチームはそんなものではなく、欧州きっての左翼リベラルやアナーキストの勢力がゴール裏を占拠した、「オルタナティブ」のチームなのだ。このへん、どうにも日本のサッカーメディアは突っ込みが甘い。政治的な背景に興味がないということなのだろうが、このへんがわからないとドクロも単なるファッションと捉えかねられないと思う。

そこで、先日刊行された拙著『サッカーと愛国』から、切りだして少し解説してみたい。

政治とサッカーを取り扱った本であるが、その中で、やはりザンクトパウリは外せない存在である。うわすべりのファッション性にだけ注目していると、こういう大事なカルチャーの文脈を見失う。それはそれで残念なことである。なので、以下、試しに読んでもらいたい。
 

ビートルズが大人になった街、ハンブルグ

FCザンクトパウリのホーム、ミラントーア・シュタディオンは、ハンブルグの歓楽街レーパーバーンから、歩いてほんの10分程度。日本で言えば、歌舞伎町や新宿二丁目のあたりからほど近い新宿御苑あたりにスタジアムがあるのを想像してもらうとちょうどよいだろう。世界中から集まった船員や移民、同性愛者や水商売の人たちが生息する、ある意味カオスのような歓楽街を目の前にしながら、ザンクトパウリは1909年に創設してからずっと、港の造船労働者たちにサポートされてきた。

 

 

ハンブルグの港にはあらゆる国からの船乗りが集った。船から降りた荒くれ者の船員たちが求めるものは今も昔も同じである。一時の快楽を求めて街に出る。目的は酒と女。そのための歓楽街となったのが、レーパーバーン地区。船員たちはここを「世界でもっとも罪深い1マイル」と呼んだ。それは現在でも変わらない。ストリップクラブや売春宿が立ち並ぶこの通りは、日本で言えば歌舞伎町のような猥雑と喧噪にあふれている。

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レーパーバーンのストリップ

1960年代初頭、安ギャラで雇われた不法入国のイギリス人の若者たちが、この風俗街のパブで一晩中酔っ払い相手にロカビリーを演奏していた。これがのちのビートルズである。客は荒くれ者の港湾労働者と船員たちと同性愛者やクスリの売人や水商売の女たち。

「育ったのはリヴァプールだが大人になったのはハンブルクだ」 ジョン・レノンはこう語ったというが、そこで大人になるためにどんな通過儀礼を経験していったのか、おおよその想像はつく。

 

このレーパーバーン地区の喧騒から少しだけ離れたところにハンブルク歴史博物館がある。そこの目玉の展示物のひとつが、14世紀に北海を荒らして恐れるものがなかった海賊の頭領、クラウス・シュテルテベーカーの頭蓋骨だ。処刑場があったところから発掘されたその頭蓋骨には太い釘が頂点から貫かれている。ガラスの中の頭蓋骨が誰のものか、実際は怪しいらしい。だが、それはディズニーランドの海賊アトラクションのものと違ってホンモノだ。当時のハンザ同盟の軍隊に掃討され、あげくに捕縛され斬首された海賊のものなのは間違いなかろう。

 

 

ハンブルグの海賊たちの左翼運動

1980年代、港町であったハンブルクでは、これまで港の産業を担っていた労働者が、コンテナ輸送や飛行機輸送の発達により職を失いはじめていた。これは世界中の港町で共通の出来事だ。例えば海外文化が海から入ってくる時代に光り輝いていた港町・横浜が急速に衰退しはじめたのもその頃。ハンブルクも例外ではなかった。そうしてこの貿易都市に不況の風が吹きはじめるのとほぼ時を同じくして、歓楽街はさらに別の理由で打撃を受けることになる。エイズである。ただでさえ不況のなか、セックスタウンでもあったこの街から人は遠のいていき、同性愛者や売春婦もいる場所がなくなっていった。夜な夜な赤や青のネオンサインがミックスした紫色の光に照らされ、華やかでもあり陰鬱でもある喧噪が続いていたはずの通りから、少しずつ人は減っていった。毒々しいネオンの灯りが消えていき、ショーやストリップのポスターが風雨に晒されるだけになっていった。レーパーバーンの通りには撤退した店が目立つようになり、その働き手が住んでいたアパートは空き家だらけになった。

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ハンブルグのストリートを占拠するアナーキストたち

不況による解雇や賃金問題でストライキを繰り返していた労働者や反体制のアナーキストは、逆にその時代に勢いを増した。彼らはレーパーバーンに並ぶ空き家に住みつき、取り壊されたビルの空き地に港のコンテナを持ち込み、そこに勝手に住みだした。欧州では、資本家に対抗して彼らの不動産を占拠してしまう「スクウォッティング」という社会的な運動がその時代にはじまっていた。やがてハンブルクの当局がこれを排除にかかり、これにスクウォッター(不法占拠者)はデモやピケで応酬した。この対抗運動の中心は左派の政治的なグループだったが、それを支援するアーティストやミュージシャン、同性愛者の権利団体や移民のコミュニティも呼応していた。これらは、ただでさえ左派を目の敵にする右翼のスキンヘッズやネオナチの恰好の敵となった。警察によるデモやピケの排除を阻止したものの、今度は夜になるとスクウォッターたちを右翼が襲撃した。

しかし長い闘いの末、スクウォッターの権利が少しずつ認められるようになった。日本の常識だと、他人の建物や土地に無断で住みつく、いわばホームレスになんの権利があるのかと、理解しがたいところもあるのだが、イギリスなどでは貧困層への対応として一定の権利が認められている。ちなみに、ニューヨークのアーティストの拠点となっているソーホー地区も、もともとは不況で使われなくなった倉庫を不法占拠した芸術家たちが作り出したエリアだ。ネオナチや右翼の襲撃は続いていたが、これに対抗する勢力も結集し、緩やかなネットワークとなっていった。

こうして、レーパーバーンには無政府的なコミュニティができあがっていった。そして、そのエリアにはドクロの旗が高々と翻っていた。

 

ドクロのエンブレムができるまで

 

「ハーフェン通りを知っているかい? 俺はそこに24 年間住んでいたんだ。そこでもドクロの旗を使っていた。ハーフェン通りはエルベ川沿いにあるから、まるで海の前に立っているような感覚になった。それで海賊になったような気分でドクロの旗を掲げていた」

(「ドクロマガジン」「ドイツハンブルクのドクロ旋風」井賀孝)より

そう語るのはスクウォッターのひとりで、通称「ドクトル・マブゼ」で知られる無職の男。

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ドクトル・マブゼ(DVD”St. Pauli Chronic & Grosse Momente”より)

雑草に交じってマリファナが自家栽培された空き地に、コンテナハウスが無遠慮に置かれている。そこに住むマブゼは、ある日、スタジアムにほど近いところにやってきた移動遊園地で売られていたドクロの海賊旗を持ち帰り、スタジアムに持ち込んだ。これがFCザンクトパウリの黒地に骸骨のシンボルマークのはじまりだ。

このマブゼをはじめとするハンブルクのスクウォッティングの海賊たちは、近くにあるサッカースタジアムに週末に集まるようになっていた。最初はサッカー好きの連中が集まり、そして最初はそれほどサッカーに興味がなかったスクウォッターまでもが仲間と呑むためにスタジアムに足を運ぶようになっていった。アナーキストや自称パンクミュージシャンや風変わりなアーティスト、同性愛者、ドイツに住むトルコ人やアジア人などの少数民族も次第に加わり勢力を少しずつ増していって、いつの間にかゴール裏はそれらの人たちで埋め尽くされるようになった。マブゼの持ち込んだドクロの旗は、そうしたサポーターによって一旒ずつ増やされ、さらにはアーティストたちが呼応するようにドクロをテーマにしたコレオグラフィを描いたり、アートなTシャツを作りはじめた。当時は弱小クラブであり、それゆえにサポーターと強い連帯で結ばれていたクラブは、このエンブレムを公式なものとして取り入れた。ザンクトパウリのマーケティング・マネージャーはそうしたサポーターのひとりであった。ザンクトパウリを現在知られるようなオルタネイティブでカルトなクラブとして売り出したのは、この人である。

ヒップホップやレゲエは、電柱の変圧器から電線を延長してきて盗んだ電源でサウンドシステムを大音量で流したブロック・パーティーからはじまった。そしてこれがやがて商品化されていった。ザンクトパウリの骸骨もそのようなものだ。そしてそれが今では「神話」となり商品化されていく。マブゼがミラントーア・シュタディオンに最初に持ち込んだ、移動遊園地の縁日で買ったドクロの旗は、今では世界中に「商品」として流通している。彼自身はいまだマリファナを栽培しながらコンテナに住むスクウォッターなのにもかかわらず。

 

ネオナチに乗っ取られたスタジアムを奪い返せ

ドイツは1980年代からネオナチ運動や排外主義が跋扈しはじめた。イングランドからサッカーを学んだドイツは、イングランドの排外主義の潮流もそのまま取り入れた。そのうちネオナチがサッカースタジアムに現れてサポーターを組織化しはじめたのである。これは現在まで脈々とブンデスリーガの淀んだ歴史を形成している。が、このことは日本ではほとんど語られていない。そして、それらに対抗する運動の情報もほとんど皆無だ。どこの国でも忌まわしいことには誰もが口を閉ざすものだ。

イングランドでは、1970年代後半に、移民排斥を唱える白人優越主義の右派政党が、その運動の勧誘の場所のひとつとしてサッカースタジアムを選んで、それが実際にある程度の効果を得ていた。これに影響を受けたドイツのネオナチがドイツのサッカースタジアムに現れてサポーターを組織化しはじめたのである。1983年の欧州選手権の予選、スタジアムで彼らは、「すべてのドイツ人の名において、すべてのドイツのサッカーファンに」と題した次のようなビラをサッカーファンにむけて配布している。

一九八三年十月二十六日、ドイツ民族には悪臭のするトルコのならず者との戦いが差し迫っている。それは、サッカーのドイツ・ナショナルチームがトルコのげすやろうとベルリンでヨーロッパ選手権予選のポイントをめぐる対戦なのだ……この試合の背景には、とくにドイツ人の自国における職場をめぐる戦いがあるのだ……だから外人よ出て行け!……われわれが解放されるのは暴力によってのみである。われわれは始めなければならないのだ!

『ネオナチと極右運動―ドイツからの報告―』フランツィスカ・フンツエーダーより

カメラに向けてナチス式敬礼をするハンザ・ロストックのサポーター

カメラに向けてナチス式敬礼をするハンザ・ロストックのサポーター

当時の共産圏である東ドイツでも、サッカースタジアムからユダヤ人排斥のヤジが聞かれたことが記録されている。これらがドイツ統一後の東西のネオナチの合流の先駆けとなっていく。

この潮流は、現在まで脈々と続き、ブンデスリーガの華やかな成功の陰で、淀んだダークサイドのドイツサポーター史となっている。FCザンクトパウリのホーム、ハンブルクにあるもうひとつのクラブチーム、ハンブルガーSVもそうした右派傾向の強いチームである。またハンブルガーSV以上にザンクトパウリと因縁があるのはFCハンザ・ロストック。ここも右派で知られるチームだ。数年前にロストックのホームゲームであった、ザンクトパウリのサポーターとの大規模な衝突は、レイシズムやホモフォビアに対する攻撃が原因だ。

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ロストックの極右のスキンヘッズサポーター

1992年、トルコ人や難民を攻撃するネオナチがドイツのスタジアムで勢力を増してきたのに対抗して、ザンクトパウリはレイシズムに対してNOを訴える活動を開始した。中心にはレーパーバーンでネオナチやスキンヘッズと闘ってきたサポーターたちがいた。選手はユニフォームに「外国人は友だちだ」のスローガンを入れて週末の試合を戦った。

 

 

ザンクトパウリのサポーターと「政治」

反ナチスのフラッグが翻るザンクトパウリのゴール裏

反ナチスのフラッグが翻るザンクトパウリのゴール裏

サポーターはネオナチのフーリガンとアウェーの街頭でも闘い続けた。2006年には、ケムニッツFCの差別主義者のサポーターが「ジーク・ハイル!」「ザンクトパウリからアウシュビッツ行きの地下鉄をつくってやってるぜ」と歌いながら、レーパーバーンのトルコ人の店を襲っている。これにも彼らは対抗した。この闘いは必ずしも合法的とは限らない。警察はザンクトパウリのサポーターにとって永年の敵。しかし、警察に頼らなくとも、ネオナチや右派のフーリガンとのストリートの闘いに彼らは慣れていた。こうして、ザンクトパウリはネオナチ・ムーブメントへの対抗運動の象徴となった。

人種も性別も意味をなさないオルタネイティブなクラブザンクトパウリのコールリーダーのひとりはアジア人だ。韓国系ドイツ人で、韓国に帰ればKリーグの水原三星ブルーウィングスのサポーターでもあるらしい。ドイツでアジア人がコールリーダーなどというのはにわかに信じがたい話である。国籍がコミュニティのなかで意味をなさないマルチ・カルチュラルなクラブならではの話である。ドクロのシンボルはマッチョなイメージがあるが、女人禁制の海賊船とは違いスタジアムに女性が多いのも特筆すべきことだ。フェミニズムの運動家が早くからレーパーバーンの売春婦の権利運動擁護のために、ザンクトパウリのコミュニティの一角を占めていたからだ。

サッカーの世界では同性愛者のカミングアウトというのは極めて珍しい。ところが、このクラブの先代の会長は「女装もする」とカミングアウトした同性愛者である。ちなみに本職はショーパプを数件経営するアーティストだ

現在では、クラブは公平性を保つために、スタジアムのなかに直接政治が持ち込まれることに必ずしもいい顔をしていない。だが、その一方でザンクトパウリは欧州でいち早く人種差別や性差別の禁止を規約に取り入れたクラブである。もちろんサポーターがこれを働きかけた。

サポーターは、スタジアムの名前を変更させたこともある。一時期ザンクトパウリのホームはミラントーアとは違う名前になっていた。その名前はザンクトパウリのかつての会長からとられていたのだが、その会長がナチスの協力者であることが発覚し、サポーターは抗議運動を組織し、その末に今の名前に戻された。

ザンクトパウリのように、階級、人種、ジェンダー、セクシュアリティ、貧困、そうした現代のラディカルな問題にサポーターがオルタネイティブに関わってきたことは、実のところ珍しい話ではない。

スタジアムはどす黒く染まった悪意に満ちた排外的なケースばかりではない。サッカーはスタジアムで敵と味方をつくる。その線引きが時としてスタジアムの外にまで拡大されていく。その闘いが偏狭で排他的なものになるか、それとも開かれた自由を希求するものになるのか、その差は紙一重である。

サッカーと愛国 そうして、サポーターが政治化していく例は枚挙にいとまがない。「サッカースタジアムに政治を持ち込むな」という指摘は確かに正論である。だが、サッカーの強い磁力がそれを許さない。

拙著、『サッカーと愛国』では、サッカーと政治がなぜ切っても切り離せない関係にあるのか、世界中のスタジアムの迷宮に入りこんでレポートとするもの。もちろん、それは日本国内も例外ではない。なぜ、サッカーは政治巻き込まれていくのか。人種や民族や国家というフィクションの絆を強めていくように視えて、また反転するようにそれを無効化していく作用があるのか。舞台は、新大久保からソウルへ、そしてイスタンブール、カイロ、広州、ハンブルグ、そして世界中のスタジアムである。

 

追記:明日、7/19(火)『サッカーと愛国』発刊記念のイベントやります。よかったらどうぞ。

 

 

 

 

 

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