「しばき隊」とはなんだったのか
先日、某セキュリティソフト会社の管理職の人が、ネット上の難民を揶揄したマンガに賛同する人達の情報をリストアップしネットに公開したところ、逆にその素性がバレてしまい「炎上」するということがあった。セキュリティ会社の社員が、「個人情報」をネットに公開するなどということはいかがなものか、ということらしい。
それからほどなく、今度は、この「個人情報」をネットに公開したことを批判する弁護士に対して、某地方新聞社の管理職の方が、twitter上で弁護士に対して「暴言」を書いたということで問題となり、これも「炎上」した。
この二つの「炎上」を起こした人達については様々な批判があった。社会的地位にも恵まれた50代ということが共通点として目立つことだが、それよりも、この二人が、反差別を旗印にし、これまで賛否両論・ 毀誉褒貶を受けてきた「しぱき隊」であるということで注目を集めた部分が多い。
整理するために、最初に書いておいたほうが良いと思う。この二人とも実際のしばき隊のメンバーではない。
しばき隊というのは、2013年2月に結成され、同年の9月に解散した。その後にこれの後継として、包括的な運動を行う「反レイシズム行動集団C.R.A.C.」(Counter-Racist Action Collective 以下「クラック」)が立ち上がった。現在あるのは、このクラックだけである。
ところが、現在では、反レイシズムの「直接行動」の立場をとる人たちをまとめて「しばき隊」と呼んでいる人が多いわけである。「しばき隊」がすでに存在しないということは、少し調べればわかることであるのにも関わらず、ネットに溢れる真偽確かならぬ情報をまとめていくだけのサイトだとこうなる。よって「しばき隊」という総称を使っているサイトやライター諸氏は、事実ではなくネットの有象無象の情報を検証なしにつなぎ合わせているだけと考えてよい。注意が必要だ。
では、この「しばき隊」と総称されるものについても不確かな話かといえばそうでもない。しばき隊のわずか半年程度の活動で、21世紀の日本における「反レイシズム急進派」といえる流れが出来上がったのは確かなことで、そのフォロワーと直接行動をさして、今はもう存在しない「しばき隊」の名前を使って説明しているわけである。
実際に、反レイシズム急進派といえる人達のやっていることに褒められたものではないものも多数あるため、これは正義が暴走している状態に過ぎないのではないかという批判も、先の炎上もふくめて、正直もっともなところもある。
さらには、この同じメンバーと思しき人達により、国会前の安保法制の反対デモの主催者であるSEALDsの周辺にいて、暴言ともとれる政府批判をしているという。
では、このしばき隊とはなんだったのか、そしてそれが無きあとも、いまだ「しばき隊」と総称されるこのムーブメントはどこまで続いていくのか。その展望のようなものをまとめていきたい。彼らは何を目指していたのか、または目指しているのか。そして、その行く末はどうなるのか。
ダーティー・ハリーの「自警主義(ヴィジランティズム)」
映画『ダーティー・ハリー』(1971)をご存知でない方もいるだろう。
サンフランシスコ市警の型破りな刑事の物語で、後に映画監督としても活躍したクリント・イーストウッドの代表作である。映画は大ヒットしたために、後に続編が立て続けに撮られることになったが、第一作のストーリーは次のようなものだ。
サンフランシスコでは、連続無差別殺人が起きていた。汚れ仕事専門の刑事ハリー・キャラハンがこの事件を担当する。ハリーは、象も殺せるという44口径のスミス&ウェッソンのマグナム銃をもっている。悪に対しては断固として立ち向かうという思想と、その頑固なマッチョイズムを、このマグナム銃は象徴している。
連続殺人鬼スコルピオは女性や、カトリックの司祭(アメリカではカトリックはマイノリティの宗教である)、黒人(これまたマイノリティ)の殺害を重ねていき、今度は少女を誘拐する。すべて社会的な「マイノリティ=弱者」である。
やがて強引な手法で犯人を追い詰めたハリー刑事は、少女を救うために一刻を争う事態に、この犯人を痛めつけて自白させた。「オレには権利がある。弁護士を呼べ」と連続殺人鬼スコルピオは叫ぶが、ハリーは意に介さず、銃で撃たれた足を踏みにじり、少女の居場所を聞き出す。これが自白の強要とされて不法行為となり、犯人は釈放される。少女は死体となって発見されたのにも関わらず。
ハリーを呼び出した検事は、犯人に弁護士を呼ぶまで黙秘できる権利があることを説くが、ハリーは納得しない。容疑者にも人権があることをアメリカの法律は強く強調している。それを無視したハリーの行為は不法だというのである。
やがて自由になった犯人は、今度は少年少女のスクールバスをバスジャックする。謹慎処分になっていたハリーは無許可のまま単独でこの犯人を追い、そして最後には犯人を射殺する。ハリーは、警察バッジを死んだ犯人が浮かぶ沼に投げ捨てる。
この映画は公開当時、賛否両論となった。特に犯罪者の権利を主張するリベラル派へのあてつけは、彼らを苛立たせるのは十分だった。
正義は恣意的な解釈してはならない。法の下で裁かれるべきで、そこに個人の勝手なふるまいが許されてはいけない。犯罪者なら、何をやってもいいというわけではない。正義はいともたやすく暴走する。そのほうが危険だ。それが彼らの主張だった。
この映画の底にはアメリカの「自警主義(ヴィジランティズム)」があると指摘するのは映画評論家の町山智浩だ。
法律は人間がつくったものである以上、万能ではない。警官や裁判官でもそうだ。そんなとき自警主義が浮上する。
法の許しを得ずに正義を執行する個人を自警(ヴィジランテ)と呼ぶ。
裁判官が不足した開拓時代の西部では(中略)自警主義が横行した。スコルピオのように法が裁けぬ悪を裁くため、西部開拓時代からタイムスリップしてきた自警がハリーなのである。
<映画の味方>がわかる本
自警主義とは、個人や集団の権利の侵害などが想定される場面で、組織化された集団の実力行使によって犯罪や権利侵害から守ることである。ダーティー・ハリーの自警主義は、映画のスクリーンの中では痛快なものであるし、憎らしい殺人鬼が法を盾に逃げ延びるのを防いで、弱者の復讐を果たしたかのようなハリーの振る舞いに観客は喝采を送る。
もちろん現代は西部開拓時代ではない。むしろ高度に発達した法と政府に個々人の権利は保証されている。しかし、法の下の「自由」は奇妙な矛盾を生み出す。
それを解決するには、個人が立ち上がるしかない。泣き寝入りするのではなく立ち向かうことだ。
だが、この論理はギリギリのものである。「正義」が個人や共同体の恣意的な判断に委ねられては社会が混乱する。世界はどれだけ「正義」の名のもとに残酷で悲惨な行為を繰り返してきたことか。説明しなくてもわかる話だ。だから、アメリカのリベラルな映画評論家はこの「ダーティー・ハリー」を「ファシストのファンタジー」と断言する。
ジョン・ロックの昔から、正当な統治は合意に基づかなければならないのは民主主義の基本概念だ。それが欠けたままで「他者の政治権力に従うことは誰にもありえない」(『統治二論』ジョン・ロック) のである。国家と法はこうしてつくられたというというわけである。おそらくこれが正論であろう。
ダーティー・ハリーは、こうした法の外に出た自分のポジションを当然理解していた。だから、ラストシーンで警察バッジを捨てたのである。それは法に対する不満であるとともに、最終的なところで、自分の行為が本来であれば許されないものであることを知っていたからである。そして、観客はそのギリギリの選択を支持した。
それは彼がアウトローとしての生き方を選択し、孤独と栄光から背を向けた自己犠牲の精神をもっていたからである。彼は正義を振りかざした代償に自分自身が滅びることをも引き受けたのである。ハリー・キャラハン刑事は、だからバッジを投げ捨てたのである。
映画は大ヒットし、これ以降、ダーティー・ハリーは70年代アメリカの正義のアウトローとなった。そして続編が次々と撮られていく。この続編については、後ほど書いていこう。
このへんで映画の中の1970年代のサンフランシスコから、現実の2013年の日本にいったん戻ることにする。
法に守られた「悪」
しばき隊が出来たのは、新大久保で在日韓国人・朝鮮人をターゲットにした排外主義的なデモが始まった時だ。いや、デモだけではない。新大久保の裏通りを練り歩いて聞くに堪えないような暴言を、何の罪もない人達に浴びせいたのもこの時だ。それだけではない、暴力や嫌がらせを日常社会に持ち込んで、それをネットにアップすることを繰り返していった。
「在日特権を許さない会」、通称「在特会」が仕掛けたこの「保守による行動」は波紋を呼んだ。これまでにも、授業中の朝鮮学校に押しかけてジェノサイド扇動を行ったりしていた。これらは多くのフォロワーを生みつつあった。
彼らはデモや街宣で、そしてストリートで直接言う。「在日韓国人・朝鮮人を殺せ」「レイプしろ」と。
しかし「殺せ!」と扇動していてもそれが特定の個人でない限り法律には触れない。「言論の自由」だからだ。これが日本の法の現状なのである。したがってこれを止める手段は日本の法律上はない。
このような在特会をはじめとする排外主義者の行動は、すべて警察は止めることはなかった。つまり法の枠外であるからだ。
在特会については、2010年頃からネットでは「拡散」する彼らの「運動」が注目を浴び始めていた。良識あるものは、これに眉をひそめたが、それ以上にその過激な活動は、90年代からの歴史修正主義的な動きの地殻変動を背景として支持者を増やしていった。最初に注目を浴びたのは、フィリピン人の中学生の女子が通学する学校へのデモであった。不法移民の子供が学校にいるのはけしからんということだ。仮にその主張に一部の理があるとしても、自分では意思決定できない子供に対して、しかも学校にデモをするなどというのは常軌を逸している。だが、これも「言論の自由」によって日本では自由にできる。
本来、良識ある人達ならば、彼らのやり方に批判は当然あるだろう。だが、彼らに集まったのは批判ではなく、むしろネットでの称賛であった。この活動により、在特会は一挙に知名度をあげ、そして信じられないことに支持者が急増した。
やがて、このデモや街宣活動は、同じように授業中の在日コリアンの学校や集住地区に拡大された。だが、法はこれに全く対処することができない。
ネット上では、これらをなんとかしなければならないという機運が始まりつつあった。もともと2000年代初頭から、在日コリアンに対する差別的な言辞は拡大しつつあり、その中から「在日特権」というデマゴギーも拡大しつつあった。ナチス時代のユダヤ人排斥にそっくりな陰謀論の跋扈は、早くからありえない話とされていたが、それでもデマは広がっていった。ナチスがユダヤ人に最初に組織的な排斥運動を行った日のことを「水晶の夜」という。街々のユダヤ人の商店が、深夜に片っ端からナチス支持者に襲われた日のことだ。ユダヤ商店のショーウインドウのガラスは粉々に砕け散って深夜の路上に散乱した。この日が、本格的なホロコーストへの始まりだった。在特会の活動はこれを想起せざるをえないものだった。
ここに野間易通が登場する。
野間易通としばき隊の登場
民主主義国家では、法の枠外にあるものは、それは放置しておくしかないというのは間違いだ。これには行政や法の力に頼らずに、しかもそれを逸脱しない限りにおいて、直接行動をするしかない。このような原理において、現状の法制下でできる限りのことをやろう・・・こう考えたのが、当時は官邸前の反原発運動の中心人物の1人であった。
野間の狙いは最初の時点ではピンポイントだった。
彼らが行うデモは、いかに差別的で醜悪であったとしても、それを現行の法律では止めようがない。そのため、デモの範疇に入らないヘイト行為を如何にやめさせるかに絞っていた。具体的には、在特会とフォロワーが「お散歩」と呼んでいた、集住地域やデモの枠外の徘徊して差別言辞や扇動を止めることにあった。
おそらくデモやヘイトクライムすべてを止めることは出来ないにしろ、少なくとも「水晶の夜」のような事態をデモの騒乱の中で止めなければならない。
野間氏は慎重な男だった。デモはやり過ごす(彼の言葉で。スルーするという)。 古くからカウンターを続ける彼は、合法的なデモを抗議で止めることはできないことを知っていた。だから、デモ本体ではなく、その後の非合法な「お散歩」を阻止するという。そのために結成されたのが「しばき隊」であった。
後からカウンターに加わった人は、デモ隊を包囲し、中指を立てて抗議している人のことを「しばき隊」だと思っているようだが、そうではない。しばき隊は、本来、物陰から現れ、敵に痛撃を加え、さっと身を隠す「ゲリラ部隊」だったのだ。
『ヘイト・スピーチに抗する人びと』 神原元
野間の呼びかけに応じて集まってきた人は様々だった。すでに、在特会のこれまでの所業は一部の日本のアンダーグラウンドの政治思想シーンに詳しい人達には知れ渡っていたし、その差別的な言動は多くの人に衝撃を与えていた。しかも、相手はフィリピン人の中学生であったり、朝鮮学校の小学生、対抗できないことを知っている日教組の事務所であったり、まさに弱者に対するやりたい放題だったのだ。これに義憤に駆られていた人もいた。
野間がしばき隊に受け入れたのは、左派もいたしリベラルもいたし、さらには民族派の右派がいた。反原発運動のなかで、いわゆる「ワン・イシュー」で右翼とともに行動をしていた経験から来たものだと思う。最初の頃には、どちらかというと腕っぷしが強そうな人間のみをピックアップしていたふしもある。彼らに直接対峙して、その行為を止めるわけだから、それは賢明な選択だったと思う。だが、ここで暴力的な手段はギリギリでとられなかった。罵声は浴びせてもいいが非暴力で行くというのは、野間が最初から考えていた方法だった。これはいつもギリギリのところまで行っていた。
ここには本当に面白い人物たちが集まっていた。基本的には3.11の官邸前の反原発運動のメンバーが中核となっていた。よって、このリソースはそこから生じたものだといっていいだろう。彼らはもともとは東日本大震災まではほとんど「ノンポリ」だった人達だ。そこに右派民族派やアウトローの共産党員や学者やミュージシャンや法曹の人間が入り乱れていた。特に民族派の右派の存在感は抜きんでいた。だからこの時点で、しばき隊は決して「左翼」ではない。そのような人達の魅力的な人間像を書きたいとも思うのだが、果てしなく長くなりそうなので、ここでは割愛する。これについては、チャンスがあれば別にまとめて書きたいと思う。
ただ、不思議なことに新左翼も00年代系のアウトノミア系の人達はほとんどいなかった。これは野間がもともとこれらの人達と反原発運動のなかで対立していたことから始まっていたが、それよりも、この反差別直接行動が、これらの種類の人達の方法論とずれていたからといえるだろう。この事情はかつて書いたが、こちらもまだ書ききれない。これも別稿としよう。
また、これまでこのような差別的なものに立ち向かうのは当事者であるという当たり前の考え方もとらなかった。反差別運動は民族運動とイコールで結びつけられると、それが民族主義に結びつく。野間がクレーバーだったのは、そのような民族主義の流入を慎重に断ってきた。具体的にいえば、しばき隊の多数は日本人であったことだ。もちろん中には在日韓国人・朝鮮人の出自もいたが、そこには韓国や北朝鮮サイドの立場からのいわゆる「反日」というのが持ち込まれることはなかった。
野間は逆説的に、この運動はマイノリティのための運動ではないと言い切っていた。これはあくまでも人権を守ることによって日本社会が良くなるという市民運動の延長にあるということを強調した。これはもちろん、「俺たちは弱者を守っている」という見下ろしたような「正義」に対する照れや、パターナリズムの忌避というものがあったのだろう。
この当時、このような日本社会を肯定しながら、それでも急進的かつ行動主義的に差別に対峙する政治的な思想はほぼなかったともいえるかも知れない。このような野間の反レイシズム運動の基本テーゼは、大きな反響を呼ぶことになる。
長くなってしまいそうだ。駆け足でいこう。
「新大久保の戦い」としばき隊の功罪
しばき隊がこの「お散歩」を阻止したのは、実はそんなに多くない。最初にこれを察知されて、しばき隊に取り囲まれてからすぐに彼らは慎重になったからだ。だが、この後もデモの帰りに在特会とフォロワーがやってくるのを捕捉しては罵声を浴びせていた。デモの前後に街の要所に索敵の要因を置き、これを一人ずつ取り囲み、罵声をもって退散させていた。これが暴力沙汰になる寸前になることもあれば、その在特会フォロワーを呑みにつれだして、そこで語り合うということすらもあったのだ。
私は今でも野間のやったことは非常にクレーバーだったと思う。かつ、非常に勇気あるだけではなく、メルクマーク的に画期的な方法とも考える。
しばき隊が画期的だったのは、これまで怖い存在で立ち向かうすべがないと思われていた「排外主義の右翼集団」のイメージを根底から覆したところだった。。彼らはいかにしばき隊が暴力的かということで、彼らが「襲撃された」という動画をユーチューブにアップするのだが、そこに映し出されているのは、あれだけ差別的な殺戮や暴力を扇動していた集団も、しばき隊がやってくるととたんに警察の助けを呼ぶ姿だった。これは、これまで声をあげることもできなかった人達に勇気を与えることになった。
「排外主義者の右翼」(厳密にいうと彼らは右翼ですらないのだが) と直接的に渡り合うということは、当時だと考えられないことだったのだ。「右翼」というのは、つなぎの戦闘服に身を包んだほとんど暴力団と同類と普通の人は考える。ところが、実際は違っていた。彼らはもともとネットの住人だったのだからムリもないだろう。とてもでないが、腕っぷしという観点からすれば全く戦力にはならないような人達が、この「右翼」の大半だったのだ。
しばき隊の本当の功績は、この在特会とそのフォロワーと直接対峙することを選んだことである。それにより、今まで街頭で彼らに抗議することができなかった良識ある非暴力の穏健派の人達を大挙として、これに対峙させるきっかけをつくったことである。これにより抗議の声で彼らのデモはほとんど正常に行うことが出来なくなっていった。
どこの集団にも属さない人達がそれに輪をかけて、在特会とフォロワーたちのデモになると「カウンター」に集まるようになっていった。おそらく最盛期には、多くて300人程度のデモに対して、その数倍1千人を超えるくらいのカウンターが集まっていった。デモによって、ある意味騒乱状態になった新大久保には、機動隊の護送車が何十台も並んで、機動隊は数百名が配置されるようになった。
マスコミもこれを報じ始めた。これまで、在特会やフォロワーの活動は一部に認知されてはいたが、これを報道することは少なかった。ひとつには、メディアがこれを報じると逆にデモ側の主張を拡散してしまうということもあるのだろうが、おおよそはこのデモとそれに付帯する差別扇動に今一つ問題意識を持てなかったのだろう。だが、すでにそういう段階は超えているということを、デモに対する抗議活動が行われているという切り口で報道しだしたのだ。これによって多くの人達がいかにこの差別主義の集団が酷いことをやっているかということを理解することが出来たと思う。「ヘイトスピーチ」という言葉が、世間に広がりだしたのもここからである。そして社会的に「在特会」とはなんなのか、という注視があつまり、やがてそれに批判が集まるようになっていった。保守的な人達からも彼らへの非難が集まった。新大久保が週ごとにデモと、それに反対する「カウンター」によって騒乱状態になっていったなかで、国会では安倍首相がこれらのデモについての質問に「一部の国、民族を排除する言動があるのは極めて残念なことだ」と答弁した。
野間が投じた一石が、大きなうねりとなって日本社会に影響を及ぼし始めたのだ。
在特会の敗北と憎悪の行く末 「C.R.A.C」(クラック) へ
しかし、この流れはしばき隊がきっかけをつくったものであるが、実際にこの流れを決定づけたのは、多くの差別に対して抗議の声をあげ、新大久保の路上以外でも在特会やそのフォロワーに対する批判を行ってきた良識ある一般の人達の力が大きかったはずだ。黒澤明の『七人の侍』のラストシーンにならえば、「我々が勝ったのではない、農民が勝ったんだ」 というところだろう。
(映画的な余談だが、クリント・イーストウッドの映画デビュー作の『荒野の用心棒』は黒澤明の『用心棒』のリメイクであり、その『用心棒』も『七人の侍』も「自警主義」の物語である)
法からも行政からも守られない弱い者のために立ち上がった自警団というのが、最初のしばき隊のコンセプトだと書いた。
憎悪をもとにした力には、こちらも憎悪で返答する。まさにダーティー・ハリーの思想である。
だが、これはすぐに在特会としばき隊は「どっちもどっち」という視点で批判されることになる。確かに、法の許される範囲で相手を打ちのめすために罵詈雑言をつくすという意味では似たようなものだったからだ。
仮にそれが差別的な思想をもつ人間であったとしても、路上で集団で取り囲んで罵声を浴びせるなどということは暴力に過ぎない・・・憎悪に憎悪をぶつけているだけで、単に正義が暴走しているだけである・・・これが当時のしばき隊に対しての批判である。自分はもっともなことだと思う。だが、それがもっともだということは、当のしばき隊が一番知っていることである。野間は完全に確信犯であった。
「憎悪の連鎖は何も生み出さない」と書かれたカウンター側の横断幕に、野間は言った。これは俺たちの思想ではない、と。
だから野間の方法に対して批判的なものもいた。
しばき隊のように差別主義者を取り囲んで罵声を浴びせるというのではなく、あくまでも平和的にデモに反対していこうという流れもできてきた。彼らは「仲良くしようぜ」というプラカードをネット印刷でプリントしてデモに対峙した。また、デモが始まる前に街でチラシを配布して、そのデモの意味とそれに対する批判を周知する人達も出てきた。これらは野間の思想を半分受け入れ、半分はそれは違うのではないか、またはそれだけではダメなのではないか、という考えから出てきた人達である。
このうねりそのものが様々な拡散の仕方をしていった。
この包囲網により、在特会が新大久保で勢いを失い、さらにはこの街から様々な事情で撤退せざるを得なくなった。憎悪によって求心力を得ることが必要な在特会は、数々の裁判での敗訴、大阪市の橋下市長との怒鳴りあいの「対話」などによって、再び大きく報じられようになった。が、もうその頃には一時期の勢いは完全になくなっていた。
そして、前述のしばき隊のコンセプトをさらに過激にしたといえる集団のひとつ「男組」と何度もトラブルをおこし、双方の逮捕されることが何度もおき、そして最後には在特会とフォロワーによる集団暴行事件があり、これにより在特会の会長は追い詰められ、そして会を離れざるをえなくなった。
しばき隊の活動は最初から最後まで賛否両論であった。だが、在特会を反社会的な勢力として認知させ、その運動の跋扈を止めたきっかけが、この野間としばき隊にあることは誰もが認めることであろう。そして、ダーティー・ハリーのように、ここで彼らはバッジを捨てるべきだった。
「新大久保の戦い」が、いったんは在特会とそのフォロワーの撤収により、しばき隊はそのできる限り少人数でギリギリの非暴力で差別的デモの参加者に対する圧力とその周辺のヘイトクライムを阻止するという任務が必要なくなっていった。
そこで、しばき隊を解散し、これまでの少数主義でゲリラ的に展開するというスタイルから、より広く人々を結集して、反レイシズムの運動にしていくという集団に衣替えすることになった。これが「C.R.A.C.」(クラック)である。言論やカルチャーを通じて、この反差別の運動を推進するということだ。
在特会は勢いを失ったが、まだ差別は根絶されているわけではない。ネットから出てきた在特会を現実社会の路上からネットに押し戻したというのが本当のところで、まだ戦いは終わっていないということだ。実際そうだろう。
しかし、そこには憎悪には憎悪で対抗するというポリシーが依然として残っていた。
野間のクラックのみならず、野間に影響を受けたフォロワーの反差別急進派では、野間がやり始めた「罵倒」が一般化していた。これに眉を顰め、中には公然とそのやり方を批判する人もいた。
これでは、どっちがヘイトスピーチかわからないというわけである。
ところが、野間はこれを退けた。理屈はこれは言葉の定義として「ヘイトスピーチ」ではない。ヘイトスピーチというのは、人種・民族のような逃れられない属性に対して誹謗中傷をすることである。レイシストに対する「罵倒」は、それに当たらないというわけである。確かに言葉の定義としてはもっともである。
「ヘイトスピーチ」という言葉を誰が最初に、在特会の差別活動を指し示すために使ったのかは定かではない。
ただし、欧米では特に普通に差別発言を当たり前に指し示す言葉である。あわせて「ヘイトクライム」という言葉もある。こちらは差別的動機から出てきた犯罪のことを指す。
在特会を罵るやり方があまりにも下劣で品がないということで「ヘイトスピーチ」だという理解もある。これは言葉の定義として間違っている。
ちょうど、呑みの場で知り合いの女のコにちょっかいを出して、それが「セクハラ」だといわれるのと似ている。セクシャルハラスメントとは、雇用関係などによる組織の中で、その地位などを濫用して性的な嫌がらせをすることである。だから、職場などでの組織の中での性的な嫌がらせ行為以外は「セクハラ」ではない。それは単なるハレンチ行為とかわいせつな行為ということである。
もちろん、職場の部下同僚でなければ、呑みの場のハレンチ行為が許されるという話でもない。
これは「ヘイトスピーチ」を巡る定義の議論にも当てはまる。
だが、仮にそれがヘイトスピーチではなくとも、品のない「罵詈雑言」であることには変わらない。それを聞いたときに、第三者がどのように思うかはヘイトスピーチの言葉の定義とは全く別の話だ。自分自身もクチは悪いほうであるし、普段からバカだのアホだの人に対して言っている人間でも、これが政治的な話となるとこれまた別である。
「怒りのマーケティング」とダーティー・ハリー症候群
だが、これを「怒りのマーケティング」と呼ぶものもいた。怒りはエネルギーである。これを遡及させていくとより大きな「大衆運動」になるという意見である。古典的な「大衆運動」理論だが、果たしてこれが正解なのかどうかわからない。自分はたいへん懐疑的である。結局社会運動というのは、一般市民の支持を得なければいかようにもならない。一般の人達が、例え「レイシスト」だからといって、罵詈雑言にどのような反応があるのだろうか。ネットでは罵詈雑言が飛び交っているが、これがリアルの社会に出てくると、やはり人は引くだろう。
小学校では、人を罵るような言葉は使ってはいけませんと先生が教えている。自分はクチの悪いタイプであるため、全く人のことは言えないのだが、これが社会運動となると敵を増やしてしまうマイナス面はやはり考えなければならない。これは、数多くの野間から距離を置くカウンターの人達が批判していたことだ。
だが、憎悪には憎悪で対抗することによって求心力を得るというやり方も確かにあるのだ。それを「怒りのマーケティング」と呼んでいた。憎悪には憎悪で対抗する、それ以外に止めることはできないというポリシーが、しばき隊の自警主義の核心にあったからだ。クラックは、これをそっくり引き継ぎ、さらにはフォロワーはこれを無批判に継承した。
「ダーティー・ハリー症候群」(Dirty Harry syndrome)という言葉がある。正義を追及するあまりに、その行使に見境いがつかなくなり、時として暴走してしまう精神状態を指す。
別に映画を持ち出さなくてもよい。古今東西「正義」の名のもとにどれだけの「悪」が行われてきたことか。正義は簡単に悪に転じる。それが悪に転じることがなく、おおよその正義の範疇にあったとしても、それは人々の支持を失うこともある。ダーティー・ハリーがあれだけ熱狂的な支持を受けたのか。それは最後にバッジを投げ捨てて、自分で自分の責任をとったからだ。正義を為すものは、その正義の代償を払わなければ人々に支持されることはない。
映画『ダーティー・ハリー』は、その後に続編が次々とつくられた。だが、正直、ほとんどが駄作と切り捨ててしまって良い出来である。
パート2では、ダーティー・ハリーに影響をうけた「正義の警察官達」が現れる。法の及ばない悪党は殺していく・・・ほとんどハリー刑事と変わらない倫理観の持ち主たちは最後にハリーに悪党扱いされて殺される。パート3では、今度は「人民のため」という正義をあげる過激派との戦いだ。
第一作で正義の暴走という批評を受けたことからだろうか、今度はその「正義」に対峙するハリー刑事となる。だが、よくよく考えてみると、「正義」を処罰するのは、ハリー・キャラハンのキャラクターにのみ甘えた、「だいたいの正義」である。ようするにやっていることは変わらない。だが、ハリー刑事は今度は自らの責任をとりバッジを捨て去ることはない。
本稿は、映画批評でもないので割愛するが、それ以降の作品はほとんど自分自身の役柄のモノマネでもしているかのようなクリント・イーストウッドの醜態が展開されるだけだ。
現在のクラックとそのフォロワーは、ダーティー・ハリー症候群に冒された、つまらない続編にすぎない。
在特会をほとんど壊滅させた戦いの「追撃戦」はその方法ではダメなのだ。だが、彼らは「怒りのマーケティング」を続ける。たぶん、これは日本社会では受け入れられないだろう。私達は、怒りが思想に転嫁したとき、その思想が怒りの対象そのものよりも遥かに危険な存在になるということを、まざまざと見せつけられたことがあるのだ。
クラックの追撃戦 -「3・11後の叛乱 反原連・しばき隊・シールズ」の実態
この追撃戦が、野間易通界隈と「憎悪のマーケティング」が続くなら、うまくいかないだろうという理由はもうひとつある。
この集団が事実上、野間易通の個人集団になっていたところだ。しばき隊の小回りが利く少人数の集団というコンセプトにそれはフィットしていたかもしれない。だが、ここから先、特定の集団ではなく世論を動かすということであれば全く別の話である。
実際、この集団の意思決定は現在に至るまで一人で行われている。そういう意味で民主的でもなんでもない家父長制の零細企業のような体裁が実情である。それは新大久保の戦いでは、それなりにうまくコントロールされていた。だが、そういう話ではもうないだろう。
戦線も広げすぎている。
「あざらし隊」という人達がいる。国会前の反安保法制のデモで出てきた人達である。あれは完全にしばき隊の流れを組むクラックである。
ここから個人的な話も混じる。当初、自分はしばき隊にもいたし、クラックにも所属していた。それなりに主要なメンバーの1人だったと思う。ところが、ある日突然、その頃に盛り上がりの兆しを見せていた国会前の特定秘密保護法案へのデモにクラックとして参加するという話が、TWITTERでクラックのアカウントから当たり前のように出てきた。自分は驚いた。クラックの名称は「反レイシズム行動集団」(Counter-Racist Action Collective)であるように、反差別を行う運動体ではなかったのか。
野間の独断である。自分は組織が個人商店としての体裁で、嫌ならやめればいいというようなノリになっていることを理解していたため、野間の判断力をそれなりに尊重していて、それまでの大抵の決定は尊重していたつもりである。だが、こればかりは話は違う。そもそも自分は特定秘密保護法案に条件付で賛成の立場であったし、それよりも、反レイシズムで集めた集団を、全く違う政治活動をすることに理屈的におかしいと思ったからだ。
基地の街で生まれたわたしは、安全保障に関する議論と世論がいつもかけ離れていることを人より知っているつもりだったこともある。物心ついたときから、「反戦」をあげる見知らぬ無表情な人達がデモをするのを見てきていたし、それが社会から必ずしも理解されていないということも知っていた。「左翼がまた騒いでいる」・・・これが自分や基地の街の人間の大方の反応なのではないかとも思う。だからといって、左派的な反戦論や安全保障論に必ずしも反対しているわけではない。問題は、そのスタイルが不毛であり、世論と隔絶し、むしろそこからかい離する原因となっているのではないかということを、子供の頃から懐疑させられていたのだ。ただし、これは個人的な考えの話だ。どちらかというと、反レイシズムのリソースを使って、全く別のイシューを持ち出すことに納得いかなかった。さらにこれが独断で行われていることにも。
これによってクラックを外れることになったわけだが、この後にしばき隊時代にいた右派が少しずつクラックを抜けていくことになった。様々な原因はあるのだが、やはりこれは、反レイシズムの「大衆蜂起」のリソースを、違うところに転用しようとした流れだと、後からなって薄々と理解できるようになった。もともと左派色が強いのは承知のうえだったが、ここまで露骨であると、自分もかえって狐につままれたような思いである。今のクラックは完全な左派といってよい。自分はこれが反レイシズム運動に直接的にプラスになるとはとても思えない。
もともと、野間自体がそうであるように、しばき隊の初期メンバーのコアは反原発で官邸前抗議に参加していた人だった。そこから反レイシズムに一部のリソースを引き連れ、さらに今度は国会前に・・・というのが、おそらく「3・11の衝撃から生じた新たな大衆運動」(笠井潔)の道筋になるのだろう。
3・11の衝撃から生じた新たな大衆運動は、みずから街頭で学び、次々と敷居を越えながら飛躍的に成長してきた。新たな運動の先導的部隊はダイレクトアクションの戦闘性という点でも、衰弱し無力化した新左翼セクトを実践的に凌駕している。
この笠井潔による論考は、ある意味では当たっているようにみえるが、自分には違和感の方が大きい。外からの見え方と内部にいたものの見え方の違いだろう。あとは、笠井にある脈々とした革命ロマンチシズム故に美化してしまっていることが鼻についてならないのだ。
笠井が言いたいことはおおよそこんなことだ。
3.11以後の社会運動というものは新しい。ポストモダンの時代に忌避されてきたマジメな政治運動を、デフレ不況時代の今に再構築しようとしている。それは新左翼とも切断されている。新しい社会運動は、「真理を独占し階級を善導する前衛党というグロテスクな観念が打ち砕かれ」た先に出てくるものであり、それがクラックやSEALDsだということだ。
この認識は、先に書いた「国会前の敗北主義」とアウトラインは同じものである。そのうえで、その内部にいた身からいわせると、感想はこうならざるをえない。買いかぶりすぎである。
正義の行使を自警主義的に行うことを、自分はダーティー・ハリー症候群と呼んできたが、それを左派の用語でいえばすなわち「前衛主義」である。社会変革はその理論をわかって行動する人達、すなわち「前衛」によって導かれるべきである、これが前衛主義のことだ。もう説明は繰り返さなくてもいいだろうが、情勢認識を付け加えると、笠井がいう「先導的なダイレクトアクション」は70年代の新左翼セクトと同じく世論は離れつつある。
ただ、ひとこと書いておくと、SEALDsについては自分はほとんど何も実態は知らない。ただし、彼らは「しばき隊」の功罪をよく理解したうえで、あの運動を巻き起こしたとは言えるだろう。よって、彼らは、しばき隊的なものからのアンチとして出てきたという側面もある。そういう意味で、彼らは若い人たちだからできる態度を示したといえるだろう。すなわち失敗から学んだのである。
SEALDsが、官邸前反原発→反レイシズム→国会前安全保障問題という流れに影響を受けて、ある程度パラレルに進んできたということは間違いがない。そのうえで、クラック(および反レイシズム急進派)とは別の歩みをしているというところだけは確かなところだろう。SEALDsは、表層的なファッション性などの部分に影響を受けながらも、クラックとは自立したスタンスでいる。彼らの「怒りのマーケティング」は、かなり洗練されてきているし、おそらく、反レイシズム運動の反省点は、かなり活かしたのではないか。
ただクラック界隈の人達が、今度は勝手連的にSEALDsを自警主義で取り囲んでいるのは、これまた問題でもある。
国会前の「狂信者」と前衛主義
わたしはSEALDsの若い皆さんに尊敬の念をもつ。「しばき隊」的なものを乗り越えて、新しい運動スタイルを編み出したことも高く評価する。だが、そのクレーバーな方法論と行動力とは別に、その政治的な主張は私個人とは必ずしも一致していない。そのために、実際のところ彼らには残念ながら「興味がない」ということになる。
だが、その「興味がない」ということに対して、左派に乗り入れてしまった、かつての仲間であった反レイシズム急進派界隈から罵声が飛んでくる。人間の思想というものはそれぞれ一致することはなく、その最大公約数でのみ世の中は動いていくということが彼らにはわからないのだろうか。左派の用語でいえば「党派性」である。残念ながら、ここにしばき隊にあったシングルイシューの社会運動のおおらかさは失われている。
・民主党の右派サイドの議員の演説におしかけて「レイシスト」呼ばわりする。彼はもともと民主党でも反差別のスタンスをとっていた人物だ。
・とある映画評論家には、意見を言うだけの「サブカル」だとレッテルを貼って、ネット上で攻撃する。だが、その評論家は、アフリカの民族差別を扱った有名な映画を日本で上映しようと活動していた人物で、しかも出自は在日コリアンである。
・反差別のスタンスを明確にするジャーナリストに国家前での反安保デモの総括が必要なのではないかというような意味を書かれただけで、いっせいにネットで攻撃する。私達は負けていない、だから総括は必要ではない、と。
・自分たちが関わる反差別パレードに機材を提供してくれている会社の社主に、多少誤解のある「しばき隊」批判をされただけで、もうあそこは使わない、と。
この類の話にキリはない。
今もSEALDsの若い人達を守るという自警主義をふりかざして、ケツ持ち風情でまわりにケンカを売ってまわり、彼らのやることに傷をつけているのである。
エリック・ホッファーは書いている。
どんな政治運動でも最初の段階ではアタマのおかしい狂信者がいて、それが突破口になる。だが狂信者は憎悪がエネルギーなため、実際的な活動家がその主導権を握って運動を更新しないと不幸な結末に帰着する。狂信者は決して目的を達成することが出来ない、と。
もともと穏健な運動をしていた「知識人」は故に、この「狂信者」に追放されることになる、とも書いている。クラック界隈の反レイシズム急進派は、こうして味方になるべき「知識人」を次々と敵にまわしている。これで何かを成就できると思っている前衛主義だからだ。
味方にしておくべき存在を、その「前衛」的な考えから敵にまわすのも頻発している。「サブカル」「オタク」「ポストモダン」「ヘサヨ」と相当に恣意的なラベリングで、自分たちの方法論に意見をするものを「敵」とするのは、しばき隊からの悪癖だ。こうやって次々と敵をつくり孤立していく。反レイシズム運動に賛同するものたちは、別にしばき隊やクラックや野間フォロワーだけではない。むしろ、直接的に批判はしなくとも、ひとつひとつ是々非々としたり、距離を置いている人のほうが多いだろう。
組織維持のために、敵をつくっていくというのはよくある話だ。これは野間個人のキャラクターに負う部分もあるだろう。だから、自分は必ずしもこの本人に対して突き詰めて批判するつもりにはなれない。むしろ、無批判にこれをマネてしまう「ダーティー・ハリー症候群」の患者に対して強く言いたいのだ。トリックスターは社会に波紋を呼ぶことができるが、これを本当に変えることはできないのだ、と。
おそらく、野間本人は最初からトリックスターでいるつもりであったろう。しばき隊の「成功」がその目論見を狂わせた。色気が出た、と言い直しても良いだろう。そうして現在、混乱する運動の自己肯定の中で、次々と「しばき隊」の駄作の続編がつくられているというところだろう。
そして、駄作なりにフォロワーは影響を受け続け、そしてダーティー・ハリーのモノマネが流行しているというところだ。
私はそんなつまらない映画も細かすぎて伝わらないモノマネも観たくないわけである。
追記:
クリント・イーストウッドは、21世紀になってから、まるで『ダーティー・ハリー』や彼が名を挙げたウエスタン映画を、あたかも総括するかのような映画を発表した。それが『グラン・トリノ』である。
『グラン・トリノ』は、やはり「正義」を巡る物語だった。そして、正義は自己犠牲とその滅びと引き換えにして初めて行使できるものだということを映画は語った。そうでなければ、それは単なるエゴなのだから。ダーティー・ハリーとクリント・イーストウッドの本来の潔癖さはここにある。