朝鮮学校無償化除外問題にみる遠隔地ナショナリズムのゆくえ (橋下市長と高校生の対話から)

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橋下市長と朝鮮学校高校生との対話

 

橋下大阪市長が在日コリアンの高校生とtwitter上でやりとりした内容が話題になっている。

ことの始まりはその高校生との次のようなやりとりだ。

これに対して高校生は、金日成の写真があるのは、戦後の貧しかった時期に金日成によって寄付金が日本に送られ、これに恩があるために掲示していると答えた。

この回答は朝鮮学校の生徒や関係者の考えるところの一般的なもの。ただし、自分はその関係者などから口頭などでは聞いたことはあったが、ネットで読むのは初めてだった。かなり率直な意見だったと思う。

ところが、やはり今の日本のネット環境は異常なところにある。案の定、差別的な言辞をこの高校生は第三者から寄せられたようだ。これに対して、橋下市長は励ました。

 

このあと、橋下市長は明らさまな高校生に寄せられる差別的言辞を寄せる一人にきつく注意をした。

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これを読んだ時、高校生もあっぱれだと思ったし、橋下市長も誠実に対応したと自分は感心した。

もちろん自分は橋下市長とは意見が違う。だが、高校生の質問にキチンとまじめに回答し、そのうえで誹謗中傷に負けることがないように励まし、かつその一人を痛罵した。高校生とのやりとりも、それなりに貴重なものとだったと思う。

ところが、その後にやはりこのアカウントは削除されてしまった。そのため、この高校生の率直な意見が読めなくなっている。本当にこのネット社会の酷さに毎度のことながら呆れるばかりである。

さて、この後にあった反応が問題である。このやりとりについて、悪いのは橋下市長だということになっているらしい。高校生をヘイトスピーチのターゲットにしたのは市長…ということらしい。そもそも最初にこの質問をしたのは高校生なのだから、それに応じて真摯に対応したのがいけないということではなかろう。そうすると、ヘイトスピーチがくるだろうことを予測してこの高校生を相手にするべきではなかったということになる。

自分は全くそうは思わない。むしろそれを二人とも覚悟のうえでやりとりしていたのだから、特に高校生はあっぱれだと思う。常々、この朝鮮学校の補助金支給や無償化除外問題については、心に響くのにはあまりにも観念的な法律用語や権利を言い募る声ばかりが前面に出ていて、それがむしろマイナスになっているのではないかと思っていたのでなおさらだ。

 

朝鮮学校をめぐる「声」が聞こえない

必要なのはそこが本当に必要な人間たちの肉声だ。それだけが、反対と賛成両者のいたずらなナショナリズムの摩擦を和らげることができるのではないか。朝鮮学校補助金問題で、自分は当事者の学校関係者の話を何度か聞いたことがある。そこには「権利」や「平等」という観念的な用語はあまり出なかった。ただ、自分たちの教育はどのようになっていて、それがどのように地域で必要とされているか、指摘されたことについてどのように対応しているかを切々と教えてくれた。自分は正直これには心を揺るがされた。

「金日成は恩人だからです」という言葉は幼稚であろうし、むしろ橋下の条件に対して真向からぶつかるものだろう。しかしあれを読んだものはどう思うだろうか。むしろ肉声に近い声に耳を傾けるように読めたのではないだろうか。

金日成は朝鮮総連支持者の高齢者には確かに人気がある。ほとんどアイドルといってもいいようなものである。それはそうだろう。戦後の厳しい時期、彼らに民族としての誇りを与え、同胞として認めてくれたのは唯一この人だけだったからだ。

当時は韓国は李承晩という反共主義者でガリガリの反日路線の指導者がいた。彼は日本に残った同胞に対して冷淡であった。さらに当時は韓国はアジアの最貧民国に近い苦境であり、むしろソビエトと中国を後ろ盾にして計画経済が順調に進んでいた北朝鮮の方が経済的に成功していたのである。朝鮮学校の初期、くだんの高校生がいうとおり、金日成からの寄付ということで多額の資金援助があり、そして現在ある全国の朝鮮学校がつくられたのである。

この頃の朝鮮学校は比較的純粋に民族教育を行う学校だったという。異国にはなれて孤立する同胞に言葉と歴史を教えることの重要性は、民族としての自立心や独立心を養うには必須のものだったろう。もちろん社会主義的な教育もあったはずではあるが。やがて、これが様相を変えるのが60年代である。

そんな自分たちのコミュニティをつくりあげた偉大な人であるから、盲目的な崇拝も集めたというわけである。

もろちんこれは北朝鮮を支持する人達についての話で、逆に韓国を支持する人達は仇敵ということになる。そうして「その寄付金の出どころは結局、日本の在日から集められた寄付ではないか」とも皮肉を言われるわけだ。

ただ、自分はそのような盲目的な崇拝というのを、なにか一概に否定する気にはなれない。その肉声のパワーである。時としてこれは理屈を軽々と超えてしまうことがある。

 

橋下市長の4項目条件

 

さて、橋下市長の話に戻る。

橋下市長(大阪府知事時代)は、2010年に朝鮮学校の補助金について以下の4要件を満たせば支給するとした。

その条件とは以下のとおりである。

(1)学習指導要領に準じた教育の実施
(2)朝鮮総連と一線を画す
(3)財務情報の公開
(4)金正日総書記らの肖像画を教室から外す

これについて、まずはひとつ前提としたいのは、当時の橋下知事はそもそも国よって進められていた就学支援金の不支給の措置を妥当なものとはいえないと批判していたことだ。つまり、単に北朝鮮との関係が悪くなったからといってそのような措置をどの学校や生徒に適用するのはおかしいし、もしその学校が北朝鮮と関係がなければ、むしろ支給するべきという考え方を示していることだ。

 

 

だが、高校無償化除外や補助金支給対象から除外は、条件があろうとなかろうと違法であるとして、全国で損害賠償を認める行政裁判が起きている。なお大阪では大阪朝鮮学園が2013年に提訴している。

橋下氏の方針は、国の一貫性のない方針に対してキチンとしたルールをつくり、朝鮮総連との関係を断ち切ることを条件に支給するとした意味で、ある意味その当時の国の方針よりは軟化したものといえる。

 

これに対してこれに反対の声は民族教育権と法の下の平等を求めるものである。国際条約としては人種差別撤廃条約、国際人権規約や子どもの権利条約等がその反対のバックグラウンドになっている。確かにそのとおりで、国の方針もおかしければ、在留外国人にも慣用される憲法14条の法の下の平等にも反する可能性が高い。

 

朝鮮学校のイメージ

 

橋下市長が名指ししている、この朝鮮総連は民族団体としての側面をもちながら、同時に数多くの北朝鮮のための非公然活動を行ってきた。拉致問題は言うまでもなく、その他も戦後から定期的にその非公然活動を表面下させてきた。スパイ、工作員、そのような時代がかった話が定期的に出てくるのがこの団体である。残念ながらこれは事実である。

もちろん自分は朝鮮総連の民族コミュニティを戦後維持させ、様々に同胞の生活を支えてきた朝鮮総連をその部分では欠かすことのできない存在だったと思っている。今でもこの総連コミュニティは、朝鮮学校による教育と集団化を中心にして強い力をもっている。

青~chong~ [DVD] その朝鮮学校は、この北朝鮮の在外公民としての教育をする場所とされている。よって教育内容もそれに準じて整備されている。ただし、この濃度は時代につれて薄まりつつあるのは間違いないだろう。朝鮮学校の教育内容やその内部の実際について、自分は様々な人に話を聞き、かつ書籍などの情報も得てきた。だが、その中は極めて牧歌的なさして日本の学校と変わらぬ風景である。この雰囲気感はテキストでは伝わりにくいかもしれないので、自分の好きな映画を一本あげておく。李 相日の監督デビュー作『青 chong』。いつぞや、自分は横浜朝鮮学校が定期的に開催している学校見学会に参加したときがある。この映画の舞台となった横浜の三ツ沢の高台に上って、その自分の好きな映画で出てくる同じ風景に感動したことを憶えている。遠くにみなとみらいのランドマークが見える。主人公たちはここで青空につつまれて青春をぼんやりと、しかし力強く生きていた。

 もちろん当たり前の話だが日本の学校とは違うところの方が多い。教育はハングルと日本語で行われ、歴史は日本のものではなく北朝鮮の歴史である。学校の壁には、ハングルで書かれた書道の半紙が並び、自由研究かと思しき模造紙のレポートには、孫基禎(1936年のベルリン五輪のマラソン金メダル選手)の写真が年表に並べられて貼られている。そして教室には金日成の「御真影」が高々と掲示されているわけだ。その見学会では韓国人の大学生がいた。聞いてみると横浜国大の留学生とのこと。どのような教育が行われているか興味があって来たとのことだった。彼らにとっても北朝鮮の学校というのが珍しいわけだ。教科書もすべて見せてもらった。もちろんハングルだから自分には読むことは出来ないのだが、それらはいたって日本の学校の教科書と変わらなかった。

 

朝鮮学校を巡る遠隔地ナショナリズムと三者関係モデル

 

さて、朝鮮学校の補助金を巡る事態というのは、典型的な遠隔地ナショナリズムを巡る摩擦である。

本 国から離れた別の国で、本国を志向するナショナリズムを遠隔地ナショナリズムという。昨今ではウクライナの帰属権を巡るロシア人住民の独立運動がこの遠隔 地ナショナリズムの新しいところだ。朝鮮学校は誰もが承知のとおり朝鮮総連、つまり北朝鮮の在外公民のための組織の傘下団体だ。それがいかなる名目があろうと、北朝鮮のために活動しているのは当たり前の話である。その活動は、たいへん残念なことに北朝鮮指導体制から直接受け入れているものだ。朝鮮総連の幹部は北朝鮮の国会議員を兼務している。また議員ではなくても本国の様々な役職を兼務している場合もある。今さら北朝鮮の内情や、昨今では国連からの勧告を受けている人権問題を書き連ねるつもりもない。これを意思決定するものと一体の関係なのは言うまでもない。

遠隔地で本国を志向するナショナリズムは、その在留国での摩擦がつきものともいえる。

『日本型排外主義』の著者は、日本における昨今の排外主義的な風潮の成立を次のように説明している。

1.90年代に出現した歴史修正主義がまずは「マスターフレーム」である。

2.ネットへの接触とともに、その右派的マスターフレームに触れて、そこから排外主義フレームへ流れた。

3.そのため、もともとは「外国人問題」に不満やストレスがあったのではなく、嫌韓・嫌北朝鮮・嫌中から排外主義へ流れていった。ようするに彼らの「不満」には根拠がない。

4.なので、例えば『在日特権』にしろ在日コリアンを批判するフレームは、先に嫌韓・嫌北朝鮮・嫌中があって、そこから「発見」(捏造)されたものといえる。

5.つまり国家への対抗意識が、国内の在留外国人に転嫁されて向けられている。(ブルーベイカーの民族問題の三者関係モデル)

6.これを断ち切るには、①マイノリティの祖国(韓国・北朝鮮)に対する敵意と②マイノリティ(在日コリアン)を結び付ける③民族国家(日本)という三者関係を、うまく②と③の二者関係の問題としていくべきである

7.例えば地方行政で在日外国人問題というのは、比較的進歩的であった。これは国家レベルの話にはならず、対人間という枠組で問題が現れるためである。そのため、問題の解決にあたって国家が参照されてないため、解決が比較的容易だった。

8.ただし、これらの二者関係はサイドストーリーにすぎない。

9.排外主義を生み出した要素は、右派論談の言説がすでに用意していたもので、そこにインターネットという技術要件が加わったにすぎない。そこで生み出された「三者関係」をなんとかしないかぎり繰り返しおこりえる話である。

『日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学― 』(樋口直人)について

 

「三者関係モデル」というのを朝鮮学校問題を考えるうえで当てはめると次のようになる。

①マイノリティの祖国(北朝鮮) 
②マイノリティ(朝鮮総連-朝鮮学校)
③居住国(日本)

北朝鮮①と日本③の関係が悪くなると、どうしても②にしわ寄せがやってくる。このような関係性を三者関係モデルというわけだ。上記のとおり、この連鎖をストップするには、マイノリティの祖国と居住国の関係がよくなることがもっとも重要だが、当面の解決方法として『日本型排外主義』の筆者は、マイノリティの祖国を介在させないで、居住国との二者で対峙した関係を進める方法があるとしている。

この筆者は、在日コリアンの権利運動がどちらかという地方行政レベルから始まって、そこを中心に展開されたことを指摘している。どういうことかというと、地方行政であれば国家を介在させてないで様々な交渉ができるからだ。つまり三者関係モデルに巻き込まれなくてすむわけだ。

これに自分は付け加えて、地方であればフェイス トゥ フェイスな人間関係が出来上がっていて、政治問題というより人間関係が密接にこれらの権利運動を媒介していったのではないかとも思う。

 

現実主義的な橋下4項目

 

ここで橋下市長の主張について検討する。

橋下市長の4項目の条件について、その後の朝鮮学校と大阪府の交渉内容を公表されたものだけで判断すると、2012年段階ではあと少しで支給というところまで行ったようである。問題とされたのは、朝鮮総連のHPに朝鮮学校は総連の傘下である旨の記載があったことと、教室ではなく職員室に金日成の肖像があったことである。この報道からすると、財務内容の公開や学習指導要領の順守は条件として呑んだ模様だ。だが結果としてこれがはねられてしまい、その後法廷闘争に突入する。

橋下の主張はようするに朝鮮総連と関係を切れということだ。ただし、これに自分はトリックを感じる。仮に金日成の肖像を外し、学校役員から総連幹部を外したとしても、誰がどうみてもその学校は朝鮮総連の関係団体だ。だが、確かに資金の関係が整理できれば、法的には関係がないということにもなる。ちょうど創価学会と公明党の関係みたいなものだ。もちろん創価学会と公明党は憲法20条の政教分離の原則をクリアしている合法的な関係である。

ブルーベイカーの三者関係モデルを鑑みながら、橋下の「4項目の条件」を改めて考えると、実は表面上において三者関係モデルから、二者関係モデルにして周りからの理解を得るためにそれなりにいい方法なのではないかと考える。

もろちん違憲の可能性はあるのだが、現実解決策として非常にありえるものではないか。だが、現在、朝鮮学校無償化除外反対運動は、もちろんこれを突っぱねている。「法の下の平等」が違憲であるという一点突破を目指しているようだ。

 

「法の下の平等一点突破主義」の陥穽

 

残念ながら北朝鮮と日本の関係が好転する展望は今のところない。そうするとしわ寄せが国内マイノリティ(朝鮮学校)にむけられる。もちろんこれは大変よくないことだ。特に右派ナショナリズム傾向が強い国の動向はたぶん軟化することはないだろう。

さらに問題なのは、一般的な日本人にとって北朝鮮と朝鮮総連のイメージは現在最悪なことだ。特に拉致問題はもう10年以上も尾を引きつづけている。拉致問題で朝鮮総連が関わってきたことは広く日本において知られている。さらには毎日のように北朝鮮の人権問題や指導者の軍事的な発言が繰り返し流れている。先に映画『ジ・インタビュー』を巡るソニーのハッキングで、アメリカの国防総省は名指しこそ避けたが、朝鮮総連の関与を疑うコメントを出してもいた。それなりに確証があるのだろう。これがまたミサイルが日本海に飛ぶことになれば、事態はさらに悪化する。これの繰り返しである。

— 北朝鮮の人権問題について、歴史的な国連・総会決議が採択された。これに対し、国連安全保障理事会は北朝鮮の 事態を国際刑事裁判所(以下ICC)に付託することで応えるべきだ、と本日ヒューマン・ライツ・ウォッチは述べた。2014年11月18日に国連総会の第 3委員会(人権)は、国連調査委員会が今年発表した、北朝鮮の人道に対する罪の詳細に関する報告書への支持を表明。同時に同報告書について討議し、ICC への事態の付託を討議するよう、安保理に促した。(中略)

今年2月に発表された国連調査委による報告書は、北朝鮮における大規模な人道に対する罪を調査・検証するもので、意図的飢餓や強制労働、処刑、拷問、強かん、幼児殺害などの罪が列挙されている。その犯罪の大半は、北朝鮮の政治犯収容所制度の下で起きたものだ。全400ページにもなる報告書は、こうした人道 に対する罪の大部分が「国家最高指導層の決定した政策」に従い行われてきたと結論づけている。

北朝鮮:国連が人道に対する罪を非難

 

「国家最高指導層の決定した政策」であると国連が非難しているが、その権力の源泉は金日成崇拝の世襲制政治だ。それは日本の有権者は誰しも知っている。

だから、朝鮮学校無償化除外問題で、まず法の下の平等一点突破論理は基本的に一般からは支持されないと強く思う。

なぜなら三者モデルを抜け出していないからだ。

法の下の平等と、無償化除外反対運動の人達はいう。これは正しい。人権侵害という。そのとおりだろう。どこの国の子供でも教育を受ける権利はあり、侵害してはいけない。それは外国人にも共通する。当たり前の話だ。

ところが、その学校は事実上朝鮮総連という公安監視対象の団体であり、過去にテロまがいの行為や人権侵害を日本国内で行い、それは彼らの同胞の方々にまで及んでいる。

無償化除外反対運動の人達は国連の人権規約に反すると主張する。これはそのとおりだろう。しかしそこで行われるのが、実態は民族教育でもなんでもなく国家教育であったらどうだろう。そしてその国家は国連に国際刑事裁判所に付託されることまで検討されている国なのである。橋下市長は言った。「断ち切るほうが子供のためである。子供のことを思っての施策である」それは残念ながら日本の有権者の心にフィットするものだ。朝鮮学校支持者の内部の論理から離れて見れば、人の人権奪っといて、どのつら下げて人権を主張するのかとあてこすりする人も出てくる。しかも多数だ。むしろ世論はそちらに明らかに流れている。

仮に法の下の平等一点突破により、違憲判決が出たとしてもその禍根は残るだろう。そうすると根本問題は解決しない。

以上は、自分の意見ではないことを念のため言っておく。自分は法の下一点突破が本来の姿であると強く思っている。だが、現在の遠隔地ナショナリズムと三者関係モデルの摩擦を考えると、果たしてこの一点突破が正しい選択なのか極めて懐疑的だ。

 

朝鮮学校改革は同胞の要望

 

ところで朝鮮学校の行き過ぎた政治教育や個人崇拝に異議を唱えた人はたくさんいる。それはもちろん朝鮮学校を支えてきた彼らの同胞からである。現場レベルでもその方向に進みたがっているということも、様々な角度から聞いている。拉致問題発覚以降、この傾向は特に顕著であるとも。

民族系学校の圧倒的数を占める朝鮮総連の教育に対して、最近在日同胞から様々な不満が噴出している。その不満は一言でいって、この教育が、金正日独裁政権の利益を代弁する教育であり、同胞社会の要求を反映した自主的民主民族教育ではないというところにある。
こうした不満と少子化、世代交代などによって、全盛時4万人を擁していた朝鮮学校の学生数は、現在1万2000人前後にまで落ち込んでおり、減少傾向 は、今もなお続いている。特にそれは2002年9月17日の金正日国防委員長による「日本人拉致謝罪」以降加速化した。教育体系の頂点をなす朝鮮大学校の 学生数は、運営維持限界の1000人を割り込み、来年度入学希望者数は200人を切るのではないかといわれている。また各地方では廃校となる学校が増え、 統廃合を余儀なくされている。
これまで10万人を越える卒業生を輩出し、独自のネットワークを構築してきたこの教育体系が、なぜここまで危機的状況に陥ったのであろうか。それは一言で言って、この教育が「公民教育化」(引用者注:北朝鮮の国民教育)し、汎民族的教育とならなかったところにある。

『朝鮮総連 その虚像と実像』

朝鮮学校の教育がいわゆる「民族教育」ではなく、「首領による唯一領導」を目指す国家教育だったということだ。

確かに在日同胞の歴史を紐解いてみると、自主的「民族教育」を実施した時期はあった。それは解放直後、日本全国に設置された「国語講習所」やそれの発展と しての「民族学校」で行われた。この時の学校数は600数十に及び、学生数は6万余人にも達した。この教育は公民教育ではなかった。これは在日同胞自らが 民族自主精神を同胞の中に広め、新しい民主主義民族国家建設の担い手を育てることを目的とした自主的民族教育である。

在日同胞が帰国志向から日本定住志向へと変化していた1970年代、朝鮮総連は同胞の思いとは逆に共和国公民教育を強化させていった。こうした中で、多くの在日同胞は子女の教育を日本学校にシフトすることとなる。

この動きは朝鮮総連幹部の中にも広がった。これに危機感を募らせた朝鮮総連中央は「幹部の子女は朝鮮高校卒業まで日本学校に送るな」とする統制を敷き、そ れを破った幹部に対しては、左遷、首切りなどの圧力を加えた。また、日本の中学、高校に進学しようとする一般同胞子女には、進学に必要な書類を出そうとし なかった。

在日同胞が求めていた民族教育は、言語、歴史、文化など、民族的アイデンティティーの確立に必要な教育と、日本に適応する教育であったにも関らず、朝鮮総 連の教育は、金日成・金正日に忠実な人間を作り出し、自己の勢力拡大に利用しようとした教育であったため、その対立は拡大の一路をたどった。

朝鮮総連―その虚像と実像 (中公新書ラクレ)
「民族教育」をめぐる総連中央と同胞の対立は1967年の金日成絶対化教育以降くすぶりつづけていたが、金正日国防委員長の登場によって決定 的となった。彼の登場以後、金日成主義教育が中心となり、民族的素養や特に異国に住むマイノリティーとして身につけなければならない人権と民主主義の普遍 的価値観に基づく人間教育がおろそかにされた。

教科書は金日成一色となり、歴史的偉人や世界の文学は一掃された。それが極限に達した1967年から1970年代前半はもちろん、金正日国防委員長が金日 成主義を打ち出した1970年代以降も露骨に続いた。その結果、教育に対する同胞の我慢は限界に達することとなる。

今から数年前、一部の専従活動家と教育関係幹部は、有力商工人と共に朝鮮総連の民族教育を日本の実情に合わせて改革しようとする動きを表面化させ、朝鮮総 連中央に具体的改善案を提示した。この動きは、体制内改革という制約性を含んでいたが総連中央に大きなショックを与えた。当時朝鮮総連中央は、その提案に 応じるかのごとく装い、改革グループを1人1人個別に工作し、結局うやむやにしたのである。

「ウリハッキョ(我々の学校)、私はこの呼び名がとても好きだ。・・・まさに子供をはじめハラボジ、ハルモニ、オモニ、アボジ、1世、2世、3世の 老若男女を問わずみんなが愛情と親しみを込めてこう呼ぶ。(中略)このウリハッキョの存続の危機を優う一同胞として今、声をあげずにいられない」

朝鮮大学校を卒業し西東京朝鮮第1初中級学校に2人の子供を送る朴ヒャングさんも「北朝鮮は、我々が考えてきた姿とは異なるのだということがわかった。そ こは労働者の楽園ではない。私たちは真実でないものを子供に教えることはできない」(ワシントンポスト10月10日付)と述べ、現在の総連の教育を厳しく 批判している。

こうした同胞の自主的民族教育を求める圧力に抗し切れなくなった朝鮮総連は「同胞の学校か金正日の学校か」という問いに対してついに本音を吐いた。「我々の学校は金正日将軍様の学校」だと。

『朝鮮総連 その虚像と実像』

以上は今から10年前の元朝鮮学校の教員の告発である。実際に、今は少しずつ変化がしているとはいえ、基本部分は変わってないというのがこの筆者の見解だ。同時に、この筆者は朝鮮学校の無償化問題について次のようにも語っている。

 

朝鮮高級学校無償化問題の結論を急ぐ必要はない。この際朝鮮学校を徹底的に研究し、日本にとっても在日朝鮮人の未来にとってもプラスになる朝鮮学校を作り上げていくべきだ。(中略)

教育の機会均等が、「子供たちの学ぶ権利」を前提にしている以上、そこで健全な教育が行われているかどうか、また教育を自由に選択できる権利が保障されているかどうかも当然重要なチェックポイントとなる。「子供たちの学ぶ権利」が守られている教育施設であってこそ、はじめて公的資金(税金)を預かる資格が生まれるからだ。

この「子供たちの学ぶ権利」で最も重要なのは、人権と民主主義に基づく「人間として健全な精神を学ぶ権利」である。し かし朝鮮学校ではこのことが保障されていない。それは「金日成・金正日崇拝教育」が絶対的に最優先されることが原因である。そのための必須教科目が「現代 朝鮮歴史」であり「首領絶対化思想」」を注入する「社会」である。極端な言い方をすればヒトラーの「わが闘争」が必須科目となっているようなものだ。そし て学校内に組織された政治団体(全生徒に加盟が義務化づけられている)である「在日本朝鮮青年同盟」は、朝鮮総連の指導のもとにこの教育を課外でも強力に 推し進めている。

こうした教育に異を唱える教員や総連の幹部は露骨な人権侵害を受け、ことごとく追放された。それが朝鮮学校の没落原因の一つとなっている。最盛時4万人以上いた生徒と学生は、今7000人弱にまで落ち込んだ。

朝鮮総連は「朝鮮高級学校除外」を「教育の場に政治問題を持ち込む不当な主張」と叫んでいるが、朝鮮総連こそが北朝鮮の指示に従い朝鮮学校に政治を持ち込んでいる元凶なのだ。多くの在日朝鮮人は、金日成や金正日を崇拝する教育ではなく、朝鮮学校で民族的アイデンティティをはぐくむ真の民族教育が行われることを心から願っている。

「朝鮮高級学校無償化問題の結論を急ぐな」 コリア国際研究所所長 朴斗鎮

私は深く同意する。むしろこれをきっかけに、三者モデルを脱し、そしてより良い民族教育に立ち戻るチャンスなのではないかとも思う。そして、この視点が法の下の平等一点突破を目指す人たちの人権運動には決定的に欠けているのだ。

 

むしろ、朝鮮学校が生まれ変わるチャンスなのではないか

 

自分は公共の福祉をはじめとする社会的なコンセサンスが必要な事項に議論は必要不可欠だと思っている。それが民主主義である。だが、一部の人は、これらの議論自体が「ヘイトスピーチ」を招くものという。それでは議論がなしに社会的な合意ができるのかというとそれは間違いだ。さらにはこれまでつづってきたようなことさえ「差別加担」であるという人もいる。何をかいわんやである。

ヘイトスピーチ反対派の人は皆知っている。言論の自由は無制限ではないと。同じように教育の権利も無制限ではない。昨今、幸福の科学の大学認可申請が却下された。その『霊言』をはじめとする内容が教育として認められないという判断だ。これはもっともな判断だと思う。内容を問わず、法の下の平等一点突破の人権運動はこれらも権利侵害だというのだろうか。さらには在特会やネオナチのような集団が学校法人を申請したら、それは教育の自由ということで看過するのだろうか。私は抗議し行政処置を求める。教育の自由と法の下の平等があるにも関わらず。言論の自由がなんであっても許されるということではないのと同じく。

今回の朝鮮学校の無償化問題について、自分はそれでも無条件に支給するべきだという原則をもっている。しかし、それが日本社会に禍根を残す可能性があり、かつ、現在の三者モデルを解決する絶好のチャンスという理解のもと、必ずしも現在の法の下の平等一点突破の人権運動には賛成できないことになる。

余計なお世話と、マジョリティの「支配者」が責任もなしに言う戯言で言論暴力だという、被害者意識に固まった人もいるだろう。耳の痛いことに、「当時者」でなければわからない話と心を閉ざす人もいるだろう。日本の有権者とマイノリティの「非対称性」で議論として成り立たないという人もいるだろう。

自分は朝鮮半島の統一はさして遠い未来のことではないと思っている。北の体制は必ず崩壊する。果たして現行の教育が良いものなのか、そして無償化問題の議論がどういうターニングポイントになっていたか、その時に知ることになっても遅いのである。遠隔地ナショナリズムの罠をその時に知っても取り返しはつかない。

子供をつかって遠隔地ナショナリズムの思想闘争を繰り広げているのは誰か、もう一度と問い直す必要はないだろうか。

 

コメント

  1. […] えば遠隔地ナショナリズムと三者関係モデルの摩擦を生み出しやすい性質を持ちます。これについては「朝鮮学校無償化除外問題にみる遠隔地ナショナリズムのゆくえ」をご覧ください。 […]

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