“イスラエルの攻撃に対応するために、われわれはサッカーで闘う” 「地図にない国からのシュート」書評

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「サッカーを政治の道具に使うな」といわれることがある。しかし、物事はそんなに単純なものなのだろうか。

「試合前の国家斉唱の際の、君が代の大合唱を取り上げ、ナショナリズムに結びつけ、健闘した日本代表を称える姿をプチ・ナショナリズムと語る人々が現れる一方で、批判もなく日本バンザイというような言葉を導き出す報道もいくつかあった。」(本書より)

サッカーとナショナリズムの関係はそもそも親密であるのだが、それが簡単に否定したり簡単に肯定できないのは、そもそもナショナリズムの難しさがあるからだ。

例えば、パレスチナのサッカー代表や教会関係者が語る言葉は例えば次のようなものである。

「70年代までは、ハイジャックやテロがパレスチナの存在を世界に訴えることだった。しかし、今はそんなことを考える人々は少数だ。イスラエルの攻撃に対応するために、われわれはサッカーで闘うのだ。」

「俺にとってサッカーをするというのは国民の義務なんだよ。国を代表して闘うということは、イスラエルの占領に対するインティファーダ(市民蜂起)の状況を説明するひとつの方法なのだ。」

「俺たちが勝つというのは、パレスチナの人々にとっても大切なんだ。俺たちの勝利が血にまみれた人々に笑顔を与えることが出来る。」

パレスチナ問題は、「民族」の集合離散と日々隣人や家族の死に直面する悲劇とともに、「国家とは何か」という現実的な問いかけを投げかける。

そして、通りいっぺんの「サッカーを政治の道具に使うな」という日本ならではの平和な倫理がものの見事に覆されることになる。

 

 

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