『狂熱のシーズン -ヴェローナFCを追いかけて』 決定的サポーター・ノンフィンクション本

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狂熱のシーズン―ヴェローナFCを追いかけて
エラス・ヴェローナFCが、セリエAに復帰した。

2002年に降格してから12年ぶり。一時はセリエCまで降格。その間にセリエCは「レガ・プロ・プリマ・ディヴィジオーネ」と名前を改めている。そのディビジョンにも4年。長いイタリア下部リーグのドサ回りを経て戻ってきたセリエAの初戦、なんとACミランに大金星をあげている。

同じ地域には、どちらかというとインテリジェンスを感じるクラブマネジメントをしているキェーボ・ヴェローナがあるが、歴史は断然にヴェローナFCのほうが長い。しかし、2002年にキエーボが昇格してくると、一年だけともにセリエAで戦うが、入れ替わるようにして降格。以来、ヴェローナダービーは開催されていない。今年が12年ぶりのダービーマッチだ。
そのヴェローナFCは、熱狂的なサポーターで知られている。しかし、それはどちらといえば悪名を轟かしているという方が正しい。地方都市から発せられる強烈な自意識と熱狂。差別主義者もそこには一団となっている。

このクラブのサポーターグループ「ブリガータ・ジャロブルー」の遠征バスに乗り込むため、サポーターがたむろする場末のバーでおずおずとバスに申し込んだイギリス人の小説家がいた。

「ようやく本物の旅行記を書くんだ」

この小説家は、今年のヴェローナFCの試合はすべての遠征にもついていこうと決心している。なるほどサポーターは旅人である。ただし、その旅の目的地は風光明媚な景色はなく、乾いた高速道路を深夜にひた走り、パーキングエリアでメシを食うだけ。たどり着いてみれば、そこは微笑みなどでは迎えてくれない。アウェイのスタジアムのコンコースのコンクリートにシートを広げて座って、ゲートが開くのを待つ。

それでも勝てばいいだろう。負ければその旅はなんの収穫もない。試合が終わればまたバスに乗って帰るだけ。狭いバスのシートに背中を傷めつけられながら、何時間も過ごさなければならない。地獄とはこのようなものなのか。筆者はいう「思うに、おそらく地獄とは究極のアウェイゲーム。どこか地獄のスタジアムの谷のなかで、警官と敵のファンの姿をした悪魔たちに責め苛まされながら、決して始まらない試合を永遠に待つ」

セリエAの当時の試合数は34試合。本書『ヴェローナFCを追いかけて』は、日本語版は翻訳されていない章があるのでわからないようになっているが、この英語のオリジナルも34章。しかし、この34という数字は試合というより、ダンテの『地獄編』に対応しているかのようだ。『地獄編』には34の歌がある。苦しみの谷をめぐる巡礼の僧徒、サポーターは本来そういう存在である。

サポーター本の決定版は間違いなくこの一冊。

アメリカ人が書いた『フーリガン戦記』などバラエティ番組の再現ドラマのように思えるほど格と気品が違う。

単なる野卑な差別主義者の集団とテレビカメラに取り巻かれたスタジアムの中に、筆者は神話素を次々と発見していく。商売人がためつすがめつするスタジアムに、幻想を共有するもののみが視ることができる壮麗な形而上学がつくられる。カーブになるたびに酒瓶が転がる遠征バスの中で、英雄が屹立する。例えばこんなふうに。

「サッカースタジアムは、巨大な建造物の中で裏表が逆になっている数少ない場所のひとつである。楕円形の競技場は世界を排除し、その神秘を秘伝を授けられたものたちにしか明かさない。テレビでさえそれを犯すことは出来ない。捉え始めることさえ出来ない。」

「ファンは選手たちに、自分たちが唯一持つ極めて肯定的なもの、つまり『一体感』を与えなければならない。(中略)結局のところ、試合が起動するためには、ここにいる荒れ狂う若者たちを必要とすること(中略)興奮の注入、あふれ出すリビドーと歪んだ市民意識としての誇りの大量注入が必要なのだ」

「ブリガーデは讃える、選手でなく、監督でなく、オーナーでなく、ただカラーだけを」

「選手と監督は来ては去る。だけど、俺たちは永遠、永遠だ!」

「サッカーが単なる美学的体験ならば、ボクはこれを楽しみ、賞賛することもできただろう。しかし、出来なかった。」

「夢を見続けろ」

「サッカーはコトバと暴力の間の曖昧な中間地点を提供する。」

「エラスはひとつの信仰だ。決して、何故と問いかけてはならない。」

「エラス、ラ・ノストラ・ウーニカ・フェーデ 俺たちのただひとつの信仰。」

「無秩序。サッカーとは、サッカーがそうでないなにか-何か純粋のもの-になることを絶えず求めている文化的雑種である。
ファンたちは、サッカーが信仰であることを望み、それが異なる体験の領域への逃亡という狂気を提供することを望む。しかし、儀式を保証する神なしでは、完全にそうはなれない。一方で神殿とその所有者たちは、狂信者の熱を冷まそうとする。試合の核心はビジネスと知っており、それがビジネス以上のものになるのを好まない。テレビの放映権と現金のための、武器をもたない徒歩の青年たちのあいだの闘争。」

「群集はエラスを信じる。だが、信じていない。夢を見ることはできる。だが、天国に行くことを本気で期待しているわけではない。」

「サッカーでは、いずれにしても空間は完全な領域ではなく、儀式は健康的な戸外のエンターテインメントというありそうもないアリバイを常に必要とする。だから、暴力は繰り返しおこり、おそらくは避けられない。」

「栄光をもたらした探求、過去の偉大なる幻想-軍事的な武勲、芸術的努力-は実際には過ちだった。なぜならばすべてなんの価値もないからだ。遊戯の試合以上の価値はない。僕らがもっとも賞賛するもの、それは誤って意味を与えられたものから生まれる。別の言い方をすれば、全てに意味があるのと同じように、サッカーにだって意味はある。だから、サッカーを支持しよう!ほかにはなにもない。この解釈では、僕らの国技は現代のデカダンスに咲く熱帯の花だ。」

「イタリアでエラス、ヨーロッパでエラス、世界中でエラス、永遠にジャロブルー。この輝かしい嘘を胸に、僕らはスタジアムへと出発する。」

「ファンたちは自分の声を聞くためにくる。声の戦いに参加したい。選手は僕らの代表かも知れない。だが、本当の戦いは、2つの街の間でおこなわれる。戦争のパロディのなかで、一個のボールが村と村のあいだをいったりきたりする。これがサッカーの起源ではなかったのではないか?」

「日曜日、俺たちはもう一度クルヴァスッドの神話的な階段を昇るだろう!覚えておけ、俺たちはフィールドの13人目14人目、15人目の男にならなければならない。歌え、ブテイ、歌うんだ!クルヴァの大砲に耳を傾けよう!永遠に、そしてエラス・ヴェローナただひとつ!」

 

今から10年前に繰り返し繰り返し読んだこの本を忘れたくても忘れようがない。傑作中の傑作。

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