ろくでなし子、アムネスティ講演中止騒動はなぜ起きたのか -弁明書の「FAKE」について

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デコまん
ろくでなし子という方がいる。

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『デコまん』より

もともとは西原理恵子のブレイク以来乱立した類の、下ネタとホンネトークで笑いをとるコミック作家の方である。最初は、違うペンネームで活躍されていたようだが、そのうちにコミックの「芸風」もかわり、既婚ながら、mixiで知り合った男性と不倫するに至る体験を赤裸々に描いた作品を発表する頃に、この「ろくでなし子」というペンネームになったようだ。

この体験マンガの芸風は続き、今度は彼女が女性器の整形手術を受けるというものが評判になった。それ以来、反表現規制のフェミニストの方々と結びつき、そのうちに、いつの間にか、女性器を題材にする「芸術家」となっていたというのが簡単な彼女のプロフィールとなろう。(このへんの経緯は彼女の著書『デコまん』に詳しい)

このへんまでは、まあなんというか笑い話としてもいいのであるが、そのうちにこれが昂じて、女性器を模したボートを制作したり、その資金のクラウドファンディングに自身の女性器の3Dプリンターのデータを頒布したり、そのものズバリの造形物の販売まで行いはじめた。これが警察当局の目にとまり、ついには1度ばかりか2度の逮捕拘留を経験している。

ワイセツって何ですか? (「自称芸術家」と呼ばれた私)もともと、浮気や局部の整形などの体験記からメジャーになったこともあり、彼女のいわば「芸風」は、社会の常識やタブーにコミカルに侵犯していくというようなもので、そのあけっからからんとしたヘタウマ調の絵とともに、一部で受け入れられてきた。そしてここ数年は、その逮捕経験や法廷闘争を体験記にし、わいせつ物に対する禁忌や法的な制限に対して異議を唱える反表現規制派から支持を受け、いわば「表現の自由」の戦いの旗手のようにふるまうようにもなっていた。そして、その恐れる者の無いコミック作家としての姿勢は多くの支持者を得ることになった。

彼女の「活躍」はこれに留まらない。

反レイシズム活動をする団体に関係するメンバーを揶揄し、それが理由で一時期ネットでのバトル状態になったこともある。

この時はその揶揄自体はたわいもないものだったので、かえってそれに目くじらをたててネットで攻撃をする反レイシズム活動の団体の方に歩が悪かったようだ。自分もいくらなんでもこれは過剰な抗議であると思い、むしろこの方々に批判的であった。これはやはりネットでは同じように受け止められたらしく、結果的にろくでなし子は、反表現規制派のみならず、反レイシズム活動団体に反感をもつ一部の方々までをも、フォロワーにしつつある。

 

ろくでなし子の「炎上芸」の本質

伯爵夫人 ろくでなし子の作品について、これが「芸術」かといえば、なんともやりきれない思いを個人的に感じている。作品をどう受け取るかは人それぞれの自由であるとしかいいようがないとはいえ。しかし、アートの世界でその概念そのものを挑発するように発表された作品、例えばデュシャンの便器ウォーホールのキャンベル缶オノ・ヨーコのフルクサス時代のアートにしろ、もう少し何かがあったのではないか。芸術の価値判断基準が個人に委ねられているというならば、自分は自信をもって、ろくでなし子の作品はアートではないというだろう。少なくとも個人的に興味は全くない。現在は、蓮實重彦が平然と女性器名を書いた作品で三島賞をとる時代である。残念ながらタブー破りのスリルすらもない。

そもそも、ろくでなし子の「アート」というようなものにしろ、もともとはコミックの体験企画の延長線上のもので、そのバカバカしさや挑発性が主旨となっていて、いわば彼女のパフォーマンスの道具なのである。

そういう意味で、それらのパフォーマンスは、近所で怖いことで子供たちの間で有名な変わり者の爺さんの家に石を投げ込んで、怒って出てくるのを、仲間と一緒に楽しんでいるクソガキと同じなわけである。「言論の自由」とか「アート」とかは全部後付けの理屈だろう。いわば、一種の「炎上芸人」なわけである。

しかし、性器を模した「作品」が高尚であれ低俗であれ、それが逮捕拘留されるようなものかといえばどうかと思うため、筆者のまわりでろくでなし子の逮捕を不当として支援する友人や知人たちに、消極的ながら賛同までしていた。凡俗の私には理解できない芸術の価値については、ここでは関係がない。

また、その怖いものに石を投げて怒らせて喜ぶような姿勢も、近所の爺さんの権威性や抑圧性を暴き立てるトリックスターとして、時として貴重な存在なのではないかと思ってきた。事実、反レイシズム活動をする界隈をおちゃらけて挑発した時は、そのともすれば独善的になりがちな彼らの姿勢を一般に露わにすることとなった。

ここまではいい。

問題は、アムネスティインターナショナルにおけるろくでなし子の講演中止騒動である。

 

イベント中止騒動に至った原因はネットスラング

2016年9月、ろくでなし子は「表現の自由と人権をろくでなし子裁判から考える」というイベントに出演を予定していた。

ところが、このイベントにはろくでなし子に対する抗議が殺到し、主催者のアムネスティ・インターナショナルは、このイベントが安全に行われないとの判断から中止を決定した。

これに対して、ろくでなし子側は、ろくでなし子が「差別主義者」だという抗議があったため、このイベントが中止になったと推測し、それがくだんの反レイシズム団体などが行ったものとして以下の公開弁明書をアムネスティに発表した。

この中で、ろくでなし子は次のように書いている。

一部の “アンチろくでなし子” の人達が、私がアムネスティのイベントに参加することを阻止しようと、わたしの悪口や、「ろくでなし子はレイシストだ」などという有りもしないデマをアムネスティ日本支部のツイッターやフェイスブックに書き込んだ事によると思われます。私は、レイシストと呼ばれて看過できるものではありません。なぜなら、そのような差別的な発言やそう思われるような発言すら一切したことがないからです。調査していただければわかることです。

“Urgent inquiry about Amnesty Japan”

これは本当のことなのだろうか。

今回、実際にアムネスティに抗議した側の何人かにもあたってみた。ちなみに、これらはろくでなし子が目星をつける反レイシズム団体に所属してなかったり、また批判的であったりする人達だ。彼らがそろって口をそろえるのが、ろくでなし子が「差別用語」を使っていてる人権侵害をしているため、国際的人権団体であるをアムネスティ・インターナショナルにはふさわしくないという主旨の抗議をしたということだった。

では、何がその差別用語として問題になったのか。

それが「ファビョる」というネットスラングである。

 

「ファビョる」は差別用語か

火病(ファビョウ)というのは、韓国人・朝鮮人特有の精神疾患とされている言葉で、それを逆手にとって、「ファビョる」と言う言葉が2000年代初頭から韓国人・朝鮮人が民族的に劣っているという意味で彼らを揶揄する差別用語としてネットで使われていた。

このことはおおよそ日本で匿名掲示板カルチャーに触れていた当時のネット民のほとんどは承知のことであろう。現在では、ネットスラングとしてこの文脈から離れて使われることもある。

しかし、もちろんこの用語を韓国人・朝鮮人に対する差別用語として使っている人は現在も多数おり、かつ、それをどのような文脈であれ、読んで傷ついたり、立腹したりする人も当然いるだろう。

ろくでなし子は、この「ファビョる」といういう言葉をかなり執拗に使用し、かつ反レイシズムの立場からこれに注意を促す人がいれば、却って面白がって挑発的かつ執拗におちゃらけに使っていたことがあるのだ。

この言葉がはたして「差別語」にあたるのかどうかは自分は微妙だと思う。実際に自分ももはや一般用語として成立しているのだからいいのではないかと思っていたこともあるくらいだ。

だが、一方でこれに拒否反応を示す人もいる。おそらく、インターネットを常日頃使われているような在日コリアンの方々はほとんどがそうではないだろうか。そういう意味で、差別的な文脈が薄れてきたとしても、それがまだそちらで使われることも多いならば、自分は使うのを控える。それが嫌だという人がいるのに、表現上その言葉を使う必要性がないのであれば避けるのが賢明だろう。

もちろん、これを指して「言葉狩り」という人もいるだろう。このことは1970年代から90年代まで議論が繰り返されてきた。

しかし、仮にこれが差別用語であろうとなかろうと、この言葉に嫌な気分になったり傷ついたりする人がいるならば、その人達がその表現に抗議するのも自由だし、それを挑発的かつ遊びで使う人に人権意識がないとして、アムネスティ側にふさわしくない登壇者であると抗議するのもまた自由であろう。ろくでなし子が、女性器の「アート」を発表するのが表現の自由ならば、それを批判するのも表現の自由であるし、また抗議の声をあげるのも言論の自由である。

ただ、仮にろくでなし子が、この「ファビョる」という言葉に語感の面白さを見出して、それで得意気に使いつづけてきたというのならば、まだわかる。無知故に人を傷つけることがあっても、それをどこまで責めることができるかは微妙な問題だからだ。

 

差別語であると指摘されていたろくでなし子

ところが、ろくでなし子は、これを確信犯として使用してきた。この言葉を使うことに抗議が寄せられると却ってそれをこれみよがしに使うようになった。この時点で、彼女はこの言葉が差別語として疑われる表現だということをわかっていたからである。

このように先の弁明書で、ろくでなし子は「差別的な発言やそう思われるような発言すら一切したことがない」と言う。だが、これはウソだ。

イベントからさかのぼること半年前の今年の2月、インターネットのツイッター上で、ろくでなし子にこの言葉の差別性について注意した在日コリアンの方とこのような会話をしている。

 

 

ろくでなし子側にも言い分はあるようだ。

彼女は自分の祖母が韓国人・朝鮮人にありがちな名前であると、この言葉が差別語だと指摘されてから突然言い出した。そして自身がコリアン・クォーターであり、だから、その私が使うなら問題がない・・・という理屈で正当化してきたのである。しかし、コリアンとしてのアイデンティティをもたず、実際にこれまで日本社会で日本人として生活してきた人が、今さら差別用語の免罪に血筋をいわれても、本当にそれで傷つき怒っている人にはなんの説得力もないだろう。

そしてだからこそ、ろくでなし子はいったん謝罪した。

ところが、その謝罪も特に個人的に問いかけられた人にのみ行われ、その差別用語だと抗議する人達をおちょくるツイートもまだ消去されることもなく、ネット上に残されている

このため、この発言をもって「差別用語を使って懲りない」ということになり、アムネスティに人権侵害を行う人として告発が殺到したわけである。

 

抗議の声にむきあわなかった、ろくでなし子

おそらく、このことはアムネスティ・インターナショナル側も抗議の内容からして知ったのであろう。ただ抗議が殺到したから云々で中止にするほど、アムネスティは初心ではないし、それらに負けることなく活動するのが彼らのポリシーだからだ。中止の判断材料となったのは、この差別用語と疑わしい言葉を使うろくでなし子について吟味した結果であろう。ほぼ間違いないと思う。※文末に追記

言論や表現の自由があるならば、それをまた批判したり抗議したりすることもまた言論や表現の自由である。それを本人なり、イベントの主催者がどう受け止めるかもこれまた自由である。ろくでなし子が差別者として考えるならば、アムネスティの考えと相反するので中止の決定も当然であろう。

ただし、事前通告ない中止決定などは、さすがにアムネスティ側には責められても仕方ないところがある。そして、その事情を知らない人や差別用語を言うことすら表現の自由であるとする人など、ろくでなし子のフォロワーから、今度は中止決定に対して抗議が殺到した。

その中には、かえって悪質な追及などもあり、モンスタークレーマーもどきに担当者の女性を泣かしているメディアもあった。酷い話である。ろくでなし子の支持者は、圧力によってイベントが中止になったとしたが、その中止の抗議にも圧力があったことは厳然たる事実である。もろちん、悪質なクレーマーもどきのメディアの攻撃はともかく、それが言論として成立するならば、抗議も正当である。それを吟味して主催者たるアムネスティが判断すればよい話である。そして、ろくでなし子のイベントは予定どおりに行われることになった。

だが、そもそもは「差別用語」だと抗議する人がいても挑発して使い続け、その後もその用語を放置したことから始まったのが、この一連のアムネスティのろくでなし子イベント中止騒動である。ろくでなし子がツイッター上での真摯に謝罪したうえで、回答されているように「その言葉を使う事で傷つく人がいるなら気をつけます」ということであれば、その該当のツイートを削除するなりすべきではなかったか。今回のアムネスティイベントに抗議があったのは、このような措置を怠ったままであったからではないか。これがあれば、このような事態はおこらなかったのではないか。

そればかりか、かえってこの抗議の声を、言論圧殺であるとか集団で私を追い詰めるなどという表現を使って、真摯にこの声に向き合わなかった。これが、このイベント中止騒動の本当の原因なのではないか。

 

 

 

「あの公開弁明書は、ウソですよね?」

 

以上を鑑みて、筆者はろくでなし子に取材として面会を求めた。それはまず第一に次のようなことを言いたかったからだ。

あの公開弁明書は、ウソですよね?

「差別的な発言やそう思われるような発言すら一切したことがない」というのは事実と全く違いますし、あなたも自分自身でそれがウソなのはよくわかっているのではないですか。

そもそも取材はツイッター上で、自分の結婚式に来て直接クレームをつければいいと彼女が提案してきたからだ。自分は断った。祝いの場にわざわざ出かけて、参列者もいるなかで、新婦に意見するなどという無粋な趣味はない。ましてやそのような場では時間もとれないし、対話も成り立たないだろう。余興として彼女の笑いのネタにされてるのもかなわない。ましてや、この問題は自分にとって、いたって真摯に語りたいものである。もし自分の認識が間違っているならば、キチンと見解を聞いてそれを正したいし、このような明白なウソを書いているろくでなし子の意図も知りたかった。

一時はギャランティを要求したうえで、この取材に応じる気配を示してきていたが、その後、名前とG-mailのフリーメールアドレス以外には、住所も電話番号も何も記載されていない「代理人」と称する方から断りのメールがやってきた。

ろくでなし子は、くだんのアムネスティイベントが開催されることが再決定されたあとに、次のように述べている。

 

とりあえず開催が決まって良かったです。わたし自身、誤解を招くような言動があったからこそ、このような事態になったのではと反省する部分もあると考えています。その誤解を解くためにも、私を批判する人たちと丁寧に語り合う機会があれば良いとずっと考えていました。

Buzz Feed

これまで、ろくでなし子の差別問題に関するスタンスに批判してきた人は自分ひとりではない。かつ、直接対話を望んだ人も幾人かいるが、そのどれも実現していない。すべてろくでなし子は拒否している。あるのは、結婚式に来いだの、呑み会に来いだの、例の芸風で笑いのネタにしようとすることばかりである。

これもまた残念なことである。

 

なお筆者は直接対話の申し出を断られたため、あらためて質問書を書いて、くだんの代理人に送付し回答を求めたが返信は現在のところない。

質問書(PDF)

 

聞くところによると、ツイッターで、「勝手に送りつけられたアナタの感想に答える必要はない」と例の芸風で面白可笑しく取り上げているらしい。ネットのスラングには「謝ったら死ぬ病」というのもある。私はため息をつきながら、この言葉を思い浮かべるわけである。

 

このような事態になったのではと反省する部分もあると考えています。その誤解を解くためにも、私を批判する人たちと丁寧に語り合う機会があれば

 

それでも、このろくでなし子の言葉を信じつつ、私は返信を待っているところだ。いつの日にか、この問題に関する有意義でまじめな議論ができることを願っている。

 


【追記】
 アムネスティ側に「ろくでなし子を出演させるな」という強い圧力や妨害行為があり、執拗な電話や長時間の抗議にアムネスティが圧力に屈した・・・という、反レイシズムの観点から抗議する人の横暴ややりすぎをネット上で指摘する人がいるため、本件についてアムネスティ日本に確認したところ、以下のような回答を得た。

・ろくでなし子氏の出演に対する抗議や意見はSNSやメールや電話で多数あった
・その中に「ろくでなし子が差別発言をしている」という指摘があり、その他の諸事情を総合的に鑑みて、中止をいったん判断した
・電話などで抗議は多数あったが、物理的なイベントの妨害を示唆したり、執拗に長時間や繰り返しの電話などで業務が妨げられたということはない。一般的なレベルの抗議で、その声を踏まえての総合的な判断であった

 

 

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