明治政府により、国民国家に統合された沖縄と琉球人がどのように取り扱われていたかを、ちょっとまとめておこうかと思います。
「日本」が明治維新をはさんで、夷敵(外国・・特に西欧列強)の脅威を感じながら、近代中央集権的国家を作っていく過程で、まず最初に植民地化するのが蝦夷地(江戸期までは中央政府からは外国として位置づけられていた)で、「日本」はこれを「北海道」と勝手に名前をつけます(1869年)。
次に植民地化するのが、琉球です(琉球処分:1871年~79年)。ここにも勝手に「沖縄県」という名前をつけました(1879年)。
北海道と沖縄を「国内植民地」と呼ぶ人もいますが、「国内」というのは結果論です。沖縄には琉球王国という主権国家があったのだから、これは「外国を侵略した」わけです。北海道には、そのような中央集権的な「国家」のようなものはなかった(この事情は、台湾でもどこでも先住民は<中央集権国家>という概念はもたないですね)けれど、少なくとも江戸中期までは蝦夷地を外国扱いしていたと思われます。「日本」が、勝手に北海道も沖縄も侵略して「国内だ」と決めたわけです。それも、朝鮮や台湾を植民地化するのと、20年~30年くらいの差があるだけですから、同じ歴史の流れの中で侵略と植民地化が起きています。
琉球は1600年代に薩摩藩の侵攻を受けるものの、その後も王国として存在し続け、ペリーが浦賀に来航した翌年にはアメリカと独自に通商条約を結んでいます。これは、江戸幕府の体制の中に琉球は入っておらず、つまり日本に服属はしていたものの「別の国」という意味ととらえてよいでしょう。
薩摩藩は、中国(清)にも服属関係にあった琉球を経由し密貿易に近いようなこともしています。これは江戸幕府も薩摩藩も琉球を日本の一部とは考えていない証拠となります。一方で、琉球と違い薩摩藩の直轄地となっていた奄美群島は、ほぼ奴隷制度といってもよい支配体制に支えられたサトウキビ「プランテーション」栽培をさせられていたのと対照的です。なお、このサトウキビプランテーションは、幕末の薩摩藩の経済的な原動力となりました。
こうして日本国の一部となった琉球ですが、その後がさらに問題になります。
明治から戦前までの日本政府と国民の大多数は,琉球の歴史と文化を知らず,教えず,理解しようとせず,差別し,蔑視し,弾圧してきた。とりわけ,天皇制による皇民化教育【こうみんかきょういく】の徹底をはかる政府にとって,アイヌ民族および琉球民族の同化と皇民化は重要な課題であった。それは,植民地朝鮮や台湾における同化,皇民化教育の試金石でもあった。
日本政府は,まず教育を通して琉球語を弾圧して撲滅しようとした。有名な<方言札【ほうげんふだ】〉や<方言論争>(1940)は,その代表的事例である。また,琉球芸能の芝居や組踊のセリフさえ日本語でやるように命令(1940)。さらに学校教育で琉球の偉人や歴史を教えることに反対し(1906),琉球史の研究者も迫害した(1914)。琉球史の研究や教育を行なうと,天皇とは異なる琉球国王が登場したりして国民意識の形成の妨げになるというのが,主な理由だった。
琉球人は日本本土や海外移民先で<リキジン>と呼ばれて差別された。1920年前後の関西の工場では<朝鮮人,琉球人お断り>という看板が登場した。圧倒的多数の日本国民が琉球の歴史や文化を教えられず,知らなかったためである。
ようするに、中国政府がチベットやウイグルでやっていることやトルコで少数民族にやっているような、国民国家にありがちな同化教育ですね。こうして同質性を強要しようとする反面、今度はその非同質なところを市民社会は差異として見つけ出していきます。
大正中期の1910~20年代、第一次世界大戦後の「ソテツ地獄」と呼ばれる経済の長期低迷で貧困に陥った沖縄から、海外や本土に移民や出稼ぎに行く人が急増。中でも紡績を中心に工業化が急速だった大阪は定期航路もあり、出稼ぎも集中しました。
港に近い大正区には材木製造所や製鉄工場が次々と立ち並び、船から降りた県人は港で荷降ろし作業、工場間で材木のおがくず、鉄くずを売って歩いたり、女性は紡績女工として働いていました。
家を持たない沖縄の人たちは、埋め立て地だった同区一角の湿地帯に、拾ってきた材木を持ち寄ってバラック住宅を建てます。県人は「クブングワァー(くぼ地)」と呼んでいましたが、周囲の人達は「沖縄スラム」と蔑んだのです。
当時、大正区以外では、依然として「朝鮮人、琉球人、シナ人お断り」の看板が貼られており、「なんかしたらすぐ琉球人といい後ろ指さされる。」というほど差別されました。沖縄の誇りである唄や踊りは、今では脚光を浴びていますが、当時は布団をかぶって弾いたり、ごく身内が集まった時に密かに踊っていたということです。<参考文献:沖縄タイムス「復帰30年・オキナワまいんど02」記事、他>
差別されるのは致し方なかったという見解すらあります。
戦前においては、朝鮮人も琉球人も立場はほとんど同じであった。
下宿や借家には「朝鮮人お断り」と同様「琉球人お断り」と書かれるのが当たり前だった。
朝鮮人は生野区に住みつき、琉球人は大正区に住みついた。
なぜ、当時の大阪人は琉球人を嫌ったか?
「言葉がわからない」というのもあったが、一番のトラブルは「琉球人は時間を守らない」「琉球人は私的所有の観念が未発達」というのが大きかったようだ。
朝9時、と決めても、朝9時に来ない。
時間を、時間単位・分単位で管理するのが非常に苦手であった。
自分の所有と他人の所有の区分がルーズな面もあった。
本人に悪気は無いのだが、他人のモノを勝手に使ってトラブルを起こすことがあったようだ。
「時間」にしても「所有」にしても、近代の概念であり、前近代人であった琉球人はその辺が理解できなかった。
逆に、有色人種で一番の近代である日本の、さらに一番市場経済が発達していた大阪の人間は、時間と所有に対して近代的感覚を持っていたため、時間と所有にルーズな琉球人が馬鹿にしか見えなかったわけだ。
大正10年(1921年)頃、本土には約7万人の沖縄出身の出稼ぎ者がいた。
ちなみにこれは当時の沖縄人口の実に13%にあたる、極めて大きな人数である。
しかし、彼らはなかなか日本社会にとけこもうとしなかった。
彼らは「とけこめなかった」のではなく「とけこもうとしなかった」のである
「沖縄県史(新聞編)」には「大阪において本県出身の青年労働者が酒に溺れ欠勤が多く月給より日当を求め、沖縄県民への信用を傷つけている」「他府県出身者と交流しようともせず、終業後、公園に県出身男女が集まって泡盛をもちより、沖縄方言で放歌高吟し、一種の独特の集団を形成していた」とある。おそらくこれは本当の事であろう。
当時の関係者の話を総合すると沖縄県出身者には次のような欠点があった。
1. 言葉が不十分で意思疎通が出来なかった。
2. 忍耐力や向上心が不足していた。
3. 礼儀作法が不十分であった。
4. 酒に溺れ、県人のみで小集団を作る癖があった。
5. 時間や契約を遵守する意思が薄弱であった。大正12年(1923年)、関東大震災で被災した沖縄県出身労働者救済のため神山政良牧師(沖縄県出身、オックスフォード大卒)は京浜地方を訪れた。その時の情況をこう述べている。
「鶴見とか川崎に労働者達が住んでいるという話はわかっていたが連絡が無かった行って彼らの居る所を探していたんだが誰も知らない。色々説明したところ『ああ琉球人の集落ですか』といって道順を教えてくれたのだが、行ってみてびっくししたよ。小さなところでしかも、表でなしに皆、裏に住まっていてグループをなして昼から三味線をやっているんだ。あれはどうも誤解をうけるのは無理ないと思ったね」(「沖縄現代史への証言」より)
そして、その当時の沖縄人出稼ぎ労働者の少なくない人数が凶悪犯や安易な窃盗など犯罪に走ることになり、あまりの犯罪の多さに本土には「琉球人お断り」「沖縄出身者お断り」看板を掲げる店もでた。
「反ジュゴンの家」
もちろん現在はこんなことはありません。
むしろこうした琉球の人に対する蔑視がなくなった現在は、「差別」に逃げるのはおかしいという意見すらあります。
また差別をうける側なのに新たな差別を作り出したことを省みるべきだという意見すらあります。
たとえば、「元琉球新報社長太田朝敷はアイヌ人や台湾人に対して「野蛮人種」や「台湾の鬼」という激しい言葉を吐いている」(反ジュゴンの家)という、差別されるものが差別するという悪循環を指摘する人や、戦後の沖縄社会において奄美出身者が差別されてきたということを指摘する人もいます。
佐野眞一の「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史」では、沖縄における奄美差別の実態について触れています。
1953(昭和28)年12月、奄美諸島は縄に先駆けて本土復帰を果たした。それから本格的な奄美差別がはじまった、と奥はいう。(・・・)問題は、彼らに対する沖縄人の露骨な差別と非人間的な扱いだった。この事実はほとんど知られていない。というより、沖縄の戦後史の暗部として、なかったことになっている。
いま沖縄には奄美出身者が5万人いるといわれていますが、自分から奄美出身者だと名乗る人は、めったにいません
かつて吉本隆明は、宗教としての天皇制の威力を無化するには、奈良朝以前の日本の歴史に鍵があると主張しました。島尾敏夫は南島の歴史に天皇制を裏返してみる視点をもとめました。国民国家がつくりあげた「日本民族」というフィクションを解体するには沖縄とアイヌの歴史が鍵にもなります。
国民国家に翻弄されながら、沖縄や奄美の南島は様々な運命をたどってきたわけです。
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