ルポ : 百田尚樹講演会中止騒動の真相 …「言論の自由」をめぐる論争から私たちは何を学ぶか

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一橋大学の学園祭「KODAIRA祭」で予定されていた百田尚樹氏の講演会が中止になった騒動が議論を呼んでいる。

サンケイ新聞の報道によると、以下のとおりの事態のようだ。

百田氏によると、昨年12月ごろに学生側から講演の依頼があり、それを受諾。ところが、「今年2月ごろから、一部の団体からの講演中止要請が繰り返し実行委に寄せられていたと聞いた」(百田氏)という。

その結果、実行委は今月2日、ツイッターなどで講演の中止を発表。中止の理由について実行委は公式サイトで、「講演会を安全に実施するため、厳重な警備体制を用意していた。しかし、あまりにも大きくなりすぎ、いくつもの企画が犠牲になった。『新入生の歓迎』という本来の理念に沿うものでなくなってしまった」などと説明している

百田尚樹氏講演中止問題

この報道をよく読んでみると、百田氏の言い分がそのまま掲載されているだけで、残りはネット上の一橋大学のこの百田尚樹講演会の主催者であるKODAIRA祭実行委員会の公式発表をソースとしているだけなのだが、この中止騒動の顛末、本当にこのとおりなのだろうか。

百田氏は、このあと、「百田尚樹独占手記、講演会中止騒動の全内幕」と題して、自ら書き下ろして内情を伝えているが、そこでは、「プロの活動家」による「言論の自由」を阻害する「言論弾圧」があったかのような書きぶりである。

百田氏といえば、タレントのやしきたかじんさんを書いたノンフィクション『殉愛』で、未亡人の言い分を書いたことにより、やしきたかじんさんの晩年の「全内幕」が、あまりにも一方的で、虚飾とデタラメなのではないかと、やしきたかじんさんの近親者や親しい人たちから強く批判を受けている人でもある。なお、これについてやしきたかじんさんの長女は裁判に訴え出て、同著の発行元は330万円の支払いを命じられ敗訴している。(現在、二審も敗訴して上告中)

やしきたかじんさんの歌の歌詞を提供している作詞家の及川眠子氏は、旧知のやしき氏をめぐるこの一件について「なぜウラも取らずに、1人の人間を犯罪者だと決めつける? ノンフィクション作家を名乗るのであれば、きちんと本人に取材すべき。あの本にはそういった『正当性』がまったくない」と厳しく批判していることも付け加えておこう。

そこで、この講演会中止騒動に関わる一橋大学の関係各位に取材を試みて、この講演会中止騒動の全貌についてまとめてみることにした。

結論はこの反対運動は、もともと差別に敏感であった一橋大学が、大学の自治の中で議論し、その結果としてこの講演会が中止になったということである。順を追って見ていきたい。

 

 

中止に至る経緯 …学内3つの反対運動

 

まず、この反対運動がどのような経緯で始まったのかから始めたい。

今年の2月くらいから、百田尚樹講演会の企画の話が学内で浮上し、それに対して学内からそれはどうなのかという声があがり始めた。

この反対運動は主に3つの方向から起きた。ひとつは一橋大学を拠点においた若手研究者・NGOスタッフ・学生の研究団体である「反レイシズム情報センター(ARIC)」(以下、「ARIC」)。そして、学内の院生などを中心として、この問題を差別問題にかかわるものとして集まった「講演会中止を求める一橋生有志の会」。もうひとつは各学部の教員である。

後に、この百田尚樹講演会が実際に開かれた場合、その抗議集会などを行うことを目的に集まった「キャンパス内の差別を考える会」もこの反対運動に加わるが、中止にいたる経緯では、この3つの反対運動が特に学内では進められた。

百田氏はあたかもARICという「プロの活動家」が百田氏の反対運動を行ったかのようにとらえているようだが、これは話が違う。この3つの反対運動は、それぞれ個別に動いており、例えば、学部や学科の教員の集まりでは実際にこの問題が討議されたり、反対を呼びかけていたりしたそうだ。

この中の「講演会中止を求める一橋生有志の会」(以下、「有志の会」)は院生や教員などの連合体で、実はもっとも強硬な反対姿勢を打ち出していたのは百田氏が指摘するARICではなく、この学生と教員の会だ。

 

 

百田尚樹氏講演会の中止が必ずしも求められていたわけではない

 

それぞれの主張の違いをまとめておこう。

もともと、ARICは学内にキャンパス内の反差別規定を求める活動をしており、今回のイベントも、学園祭実行委員会が学園祭の反差別規定をつくり、それに沿って「差別発言をしない」という確約を取れればOKであるとの主張だった。つまり、このARICはいわば百田氏がルールを守れば問題なしとの見解だったのである。

もうひとつの団体「有志の会」は条件なしで百田尚樹講演会が差別的な発言をしたり、その思想を流布する恐れがあるとして反対。同時に学内での反差別規定をつくるべきだという主張である。

ここでひとつ付け加えておくと、どちらかというと、「有志の会」は、この講演会を許可した学校の責任を追及する方向性が強く、このへんは実は長年引きずってきた、学生自治の問題が絡んでくる。

どうやらこれに触れるとかなり複雑な学内の問題に入り込んでしまうようので、ざっと事実だけを書いておくと、学校はこの百田尚樹講演会の問題について、学生が企画・運営したものに介入しないというスタンスをとっているのだが、実はかつて学校は学生が企画した学祭イベントのタレントか何かにクレームをつけて中止に追い込んだことがあり、不介入というのはダブルスタンダードではないかというのが「有志の会」の主張である。そして、こちらも学内における、様々なハラスメント行為としての差別についての規定をつくるべきというのがその主張の根幹である。

それでは、なぜここまで一橋大学の学生や教員は差別問題に敏感なのか。これには理由がある。

 

 

一橋大学で百田尚樹氏が批判される理由 …国内有数の外国人留学生受け入れ大学

 

実は一橋大学は日本有数の外国人留学生の受け入れ大学なのである。

その数、2015年度のデータでは732人。全生徒のうちの11%が外国人、大学院にいたっては24%が外国人となる。

 

一橋大学広報誌「HQ vol.48 秋号」より

 

クラスでも学食でもキャンパス内を歩けば、行きかう人の10人に1人は外国人で、もちろん友人や同僚やクラスの仲間にも外国人が多数いるグローバルな環境の一橋大学の学生や教員が、かつて、全くなんの証拠もないのに、とある犯罪の犯人を「在日外国人ではないか」と決めつけた差別発言の当事者である百田尚樹に嫌悪感を示すのは至って当たり前のことではないのだろうか。

さらにこれが院生となるとさらに国際化が進み、1/4は外国人となるのだから、院生がこの運動の中心になっているところもわかる話である。なお、反レイシズムの取り組みが進む欧州であれば百田氏の「犯罪者=外国人」という発言は訴追されても当たり前の発言でもある。

これについては、一橋大学の学部協議会(通常の大学では「自治会」にあたる組織)がとった緊急アンケートが、それを裏付けている。これによると院生ではなく、一橋大学の学部生の55%はこの講演会を「適切ではない」と判断していることがわかる。

 

KODAIRA祭の百田尚樹講演会アンケート結果報告」より

この反対運動は結局は学校側が仲介する形式で、反対派と学園祭実行委員会の話しあいに持ち込まれた。それは二回行われている。

そこに中立の立場でオブザーバーとして同席していた人のひとりは、筆者の取材に答えて、最初は言論の自由という原則もあり中止運動に距離をおいていたが、出席していた反対派の留学生のアジア人が、いかに日本で差別にあっているかということを涙ながらに訴えているのを聞き考えを改めた、と語っている。在日アジア人=犯罪者という偏見やレッテルは、百田氏のみならず日本社会に蔓延しており、将来はエリートとして自分の国に戻るであろう外国人留学生に、このような傷を与えているわけなのだ。

 

 

「言論弾圧」はあったのか …産経新聞報道に困惑する人たち

 

その反対派と学園祭実行委員会との話し合いはどのような顛末になったのか。
これについては、一橋大学の学内紙である「一橋新聞(いっきょうしんぶん)」が簡潔にレポートしているので、まずはそちらを参照されたい。

一橋新聞「百田尚樹氏講演会中止」

 

こちらでも、ARICと「有志の会」、さらに教員という3つの方向から反対運動が行われてきて、最後まで学園祭実行委員会と打開案を協議していたのがARICというのがわかる。つまり、ARICの圧力に負けて講演会が中止に追い込まれたというのは、かなり偏った事実で、とても「全内幕」とは言えないというのがわかる。

ARICと学園祭実行委員会は、学園祭に反差別ルールを制定するということで、二回の話し合い(5/12・5/22)で決定した。

なお、百田後援会の無条件中止を求める「有志の会」は、この話し合いの第二回目には呼ばれず、結局、学園祭実行委員会はARICの案に乗ったということである。

一橋新聞の担当者は、筆者の取材に答えて、この話し合いでは「差別のないKODAIRA祭をつくろうという意見では、学園祭実行委員会と反対派と全員意見は一致していた」と語っている。

ところが、このあと一転する。

まずは、学園祭実行委員会の代表はこの話し合いで決まった内容を持ち帰ったが、この反差別ルールの制定について学園祭実行委員会側で同意が得られなかったとして、同意を撤回。その後、追いかけるようにして、インターネット上で中止を発表した(6/2)。

この中止に至る判断は結局なんだったのか。それについては、筆者が取材した学園祭実行委員会側は「学校の外部からの意見などが原因ではない」と断言している。

一部報道やネット上の真偽不明な情報によると、「一部の政治家」や「左翼団体」が圧力を加えたという話が流布しているのだが、これについても否定している。

また一橋大学の広報も筆者の取材に、「そのような話は聞いていない」と答え、またサンケイ新聞の百田氏の「ノイローゼになった学生や、泣き出す女子大生もいたようだ」との発言も「実際に具体的な圧力があれば学校側も対処に乗り出すが、今のところ聞いていない。(百田氏のコメントには)正直、困惑している」との回答だった。

なお、学園祭実行委員会には複数の方にお話しを聞いたが、この報道に関しては、「そんな話は聞いていない」「大げさすぎ」という声が複数寄せられた。

 

 

大学自治のなかの決断

 

しかし、取材に協力してくれた反対派やその他の関係者からは、やはり電話やメールなどでの外部からの批判はあり、それにナーバスになっていたのは事実ではないかという声も寄せられている。

一橋大学の学園祭は二つある。ひとつが秋の「本祭」である「一橋祭」、もうひとつが今回のKODAIRA祭だ。もともと小平にキャンパスがあったころの名残りであるこの初夏の学園祭は、伝統的に学部の1-2年生が企画運営することになっているそうだ。つまり、今回の百田尚樹講演会の担当者や学園祭実行委員会は、20歳そこらの若者なのである。さすがに、批判の声に平然としていろというのは無理だろう。

しかし、どうやらその外部の声よりも、むしろ厳しい形になったのは、学内の反対運動だったのである。

なぜなら、もともと学園祭は学校の自治の中で行われることが前提となっていて、そもそも外部のみならず教職員でさえ踏み込めないというのが、この学園祭をはじめとする学生の活動のポリシーなのだ。一橋大学のみならず、学生の自治をめぐる戦いはもう半世紀も今でも続いている。

よって、彼らにとって、学外から聞こえてくる反対の声にしろ、さらには「言論弾圧」だと言う講演会賛成派や、言論の自由の原則論から学生を支持する声すらも、それは自治の論理からすれば、聞き流される種類のものだということになる。

「三者構成自治」という言葉を、この取材を進めるなかで何度も聞いてきた。

この聞きなれない言葉は、一橋大学の中で長年議論されてきた、学校の運営は、学生・教員・職員(経営)という三者がつくるものであるという論理である。そうすると、この枠外のもの以外は自治を阻害することがあるということになる。今回の外部からの反対意見にしろ、賛成意見にしろ、それらは一括して彼らの理屈からいえば論外ということになる。

学園祭実行委員会にとって、その論理から言えば、同じ学生や教員や学校からの意見以外は、理屈的には「ご意見拝聴しました」という程度にしかならない。実際、実行委員会側が強く「外部からの意見が判断材料ではない」というのはこれが理由である。

 

 

決定的だった警備問題 …「プロ活動家による恫喝」(百田氏)はあったのか?

 

さらに決定的だったのは、警備の問題である。

百田氏の先の「全内幕」によれば、反対派と実行委員会側との話し合いの中で、「われわれと別の団体の男が講演会で暴れるかもしれないと言っている。負傷者が出たらどうするんだ?」という恫喝めいたセリフがあったというが、この席に同席していた中立派も含む複数の関係者はこのへんの事情を、たしかにそういう話題は出たが、恫喝するようなものではなかったと証言している。

「この席で、むしろ議論にあがっていたのは、百田氏の講演をきっかけにヘイトクライムが起きるのではないかということで、それは百田氏支持の右側の人たちの暴発を恐れてのことでした。もちろん反対派の反対運動も起きるだろうということは話に出ましたが、警備は右左問わずにおこるだろう事態に備えてという意味でした」

(オブザーバーの一人の証言)

ARICの代表の梁氏も、ヘイトクライムを誘発するような発言をしている人の講演会なので、マイノリティに何がおきるかわからないので警備をしたほうがよいという話だったと筆者に語っている。

そこで、実行委員会はこれに同意して、学校側の協力を得て警備体制を準備したが、そのうちに学園祭が行われる西キャンパスエリアを封鎖し、荷物検査までするという話にまでなってしまったようだ。もともと学園祭は道路を挟んだ東キャンパスが会場だが、西キャンパスでもいくつかのイベントは行われることになっていた。ところが、自由な校風の一橋大学は、この西キャンパスに近所の親と子供たちなども入るのを自由にしているようなところだった。さらには学園祭とは関係がない生徒や教職員まで締め出して荷物検査するということになってしまったため、これまでの学内の反対運動とあわせみて、結局は中止を決断したということらしい。

これが「プロ活動家」による「圧力」の末の「言論弾圧」かどうかは、この経緯を読んだ人ならばおのずとわかるだろう。

これが結論である。

 

言論の自由は無制限ではない/言論の自由には対抗言論の自由も含まれる

 

「言論の自由」を阻害する・・・という意見が、この中止騒動には多数寄せられた。

これは普段、見るに堪えないようなヘイトスピーチまがいの発言をする人たちだけではなく、どちらかというとリベラル色のある保守的スタンスの文化人からも聞こえてきた。

しかし、本当にそうなのだろうか。最後にこれを検証して本稿をしめたい。

例えばヴォルテールの「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」やG.オーウェルの「(言論の)自由というのは何を置いても、みんなの聞きたくないことを語る権利ということなのだ。」の金言を持ち出す人がいる。

言論の自由は何にもまして重要なことだ。そしてそれは守っていかねばならない・・・当たり前のことだろう。

しかし、それをもってすべてが事足れりという議論がいかに甘いか。法的な議論という意味では浅はかで、残念ながら無知という他ないことになる。

 

(1)言論の自由は無制限ではない

一例をあげるだけでよい。

例えば、言論の自由の名のもとに、あなたの私生活やプライバシー、性癖や女性の趣向や家族や血脈を公然と書いて、さらには容姿や趣味嗜好、過去の赤裸々なエピソードを批判して、さらには百田尚樹氏がそうしたように、証拠もないのに「犯罪者」扱いしても、あなたは問題ないか。もちろん問題だろう。あなたは全力でその言論を取りやめるように抗議するに違いない。

「言論、表現の自由は絶対的なものではなく、他の名誉、信用、プライバシー等の法益を侵害しないかぎりにおいてその自由が保障されているものである」

これはプライバシー権についてのメルクマールとなった日本の判例のひとつ(「宴のあと」裁判)だ。表現の自由がすべてにおいて絶対ではないというのは、これ以外にもケースがありますが、ここでは一番わかりやすい例をあげておく。

一般的にいって、どんな人権であっても、それが他人の人権を踏みにじることを無制限に認められているわけではない。

もちろん、それが公権力によって恣意的に制限されるのであれば、それこそ「弾圧」である。

(百田尚樹氏は、自民党の議員との会合の中で「沖縄の2つの新聞は潰さないといけない」と発言したことが問題になったが、これを本当に政府が動けばこれこそまさに「言論弾圧」であろう。安倍総理が自らこれを「大変遺憾である」とし、この自民党議員の会合の主催筋はこの発言について謝罪している。)

しかし、それ以外にも、人権(言論の自由)と人権(個々人の権利)がぶつかり合うような場面では、結果として社会を健全なものとしていくために、「公共の福祉」という概念で言論は制限されてしかるべきとされている。

これについて、ARICの代表の梁は「交通ルールのようなもの」と筆者に説明してくれた。誰もが自分の自由を行使すると、ぶつかりあう場面が出てくる、それを整理してルールをつくれば、結局全員のメリットになる、と。それが「公共の福祉」という概念だ。

外国人とみれば犯罪者であると断言するような百田氏の発言や、あからさまに在日韓国人・朝鮮人に対する蔑視や差別発言をつづける百田氏を、自分たちに対する偏見を育て、様々な生活シーンでの差別を煽るものとみなして、そのような発言をしないことを求めるのは、これだけの外国人留学生がいる一橋大学であるなら当たり前の話であろう。彼らも含めて大学なのだから。

そのために反対派の主張は学内や学祭に関して、差別を含めたハラスメント防止のためのルールをつくろうというもので、それを遵守するならば百田尚樹氏講演会もよいという判断だったのだ。

 

(2)抗議する自由も言論の自由

言論の自由には対抗言論も含まれる。これも当たり前の話である。

あたかも百田氏は、抗議の声があがったからそれが言論の自由を阻害するということになるというが、そうすると、普段朝日新聞や沖縄の新聞を批判する百田氏は、新聞社の言論の自由を阻害することになるのではないだろうか。

「言論の自由は重要だ」というようなことを若手の政治評論家の方が語っているのも見たが、その方は、数年前に行われたフジテレビに対する韓流ドラマなどの放送中止を求めるデモのルポタージュで名をあげた方だ。そのとおりであれば、通称「フジデモ」は言論の自由を妨害することになるのではないだろうか。

こういった例を出すとキリがない。犯罪を助長するから、政治的に偏向しているから、もっと私的な話でいえば、嫌いだから・・・そのような合理・不合理問わず、あるものが行う言論活動に抗議するのはそれこそ言論の自由である。

もちろんそれが、右翼団体の街宣車が大音量で押しかけるようなものや、具体的に業務を妨害行動することを目的とするものならばダメだろう。それが公共の福祉の理論でもある。だが、通常に行われるようなものであれば、それはそれで認められなければならない。

中止を求めるのも言論の自由、それを判断してどうするか決めるのも自由。それが「言論の自由」なのである。

(3)何を学んだのか

今回の百田尚樹講演会中止にいたる決定をしたのは、主催者であるKODAIRA祭実行委員会である。そして、彼らは見事に学生たる筋を通したといえる。

それは外部の意見を遮断して、自治の原則を貫きとおしたところである。そのうえでの判断であるから、私はこれ以上何も言うことがない。

しかも、その判断に至るまで、それが傍からみれば混乱したものだし、一部の方が述べているように社会人なら許されないドタキャンのようなものであるかもしれない。しかし、反対運動との折衝も含めて、その意見を聞きながら、結局は別の理由との兼ね合いで判断したが、中止を決断した。

これで彼らは学んだはずである。

また、この件に触れた人々もまた学んだであろう。

ひとつは「言論の自由」という難題が社会的にどのように波紋を呼んでいくことか。
もうひとつは、差別発言をした人がどのように社会的に取り扱われることになるか。

ちょうど、学問の自由や言論の自由に関して、アメリカで非常に参考になる事例があったので、これを紹介して終わりにしたい。

言論の自由は無制限ではないということを再度確認されたい。

 

ハーバード大、10人の入学許可撤回 FBで差別的発言

米国きっての名門大学、ハーバード大が交流サイト「フェイスブック」でのやりとりを理由に、今秋入学予定だった生徒少なくとも10人の入学許可を取り消した。同大の学生新聞ハーバード・クリムゾンが報じた。サイト上で性的な内容を含む画像をやりとりしたり、人種差別的な発言をしたりしていたという。

同紙によると、同大への入学が決まった生徒らがフェイスブック上でメンバーを限定したグループを結成。100人ほどが参加し、性的な画像のやりとりのほか、ナチス・ドイツによる第2次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)や人種をめぐり不適切な発言をしていたという。

同紙によると、同大学生課は「内定者の一部が不快なメッセージをやりとりしていたと知り、失望している」との電子メールを入学内定者に送った。大学側は同紙の取材に対し、「個別の入学許可についてコメントしない」としている。

 

 


 

本稿のために、一橋大学の関係者に多数の証言をいただいた。広報課、反対派の各位、そしてKODAIRA祭の実行委員会の複数の方々から、学園祭直前ながらお話を伺えたことを感謝したい。

なお、ここまで講演会の担当者にはメールで質問を投げているが、おそらく学園祭準備の多忙なのだろう。ご返信はまだいただいていない。もし返信があれば追ってご紹介したい。

一橋大学のKODAIRA祭の華やかな成功をお祈りします。

 

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