改憲が挫折し続けてきた理由 -憲法改正と「超自我」 :柄谷行人『ネーションと美学』

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定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学

集団的自衛権の解釈変更の閣議決定がなされた。

世論もこの「解釈改憲」について厳しい評価を打ち出している。

閣議決定に先立つ毎日新聞の世論調査では、集団的自衛権の行使に「賛成」32%、「反対」58%。
日経新聞の調査では、「賛成」34%、「反対」50%。
最新の調査で、閣議決定当日の7月2日の共同通信の調査では、「賛成」34・6%、「反対」54・4%。

もっともこの3つの調査の数字に先立つ5月の読売と産経の調査では、7割が条件付きで容認するとの意向を示しており、必ずしも世論の風向きの予断は許さない状況だ。

さて、この安倍政権による憲法改正(解釈改憲含む)の動きは繰り返されてきた。安倍晋三の悲願といってもいいことであろう。しかし実態はこうである。

 


1953年に自由党鳩山派による憲法改正が公約となり、さらには翌々年に日本民主党(鳩山・岸)によるサイドの公約化。しかし選挙で敗北し、以降、選挙公約とすることはなく、一方で自衛隊はなし崩し的に存在を徐々に認められることになる。

そのため、「解釈改憲」が現在問題となっているとはいえ、そもそも自衛隊が解釈改憲によって存立しているということは、現在の解釈改憲論議のいわばアキレス腱といえるだろう。

だが、それでも、どうしてこのように平和憲法の問題になると、大きな世論の反対に立ち会うのであろう。これについて、柄谷行人が2005年に面白いことを書いている。憲法九条が日本人の「超自我」とし機能しているというのが彼の主張だ。

 

日本では、勝者によって描かれた歴史を見直せという主張が絶えず噴出している。しかし、むしろ不思議なのはそのような主張がどうしても勝てないということなのである。戦後日本の憲法、特に戦争放棄を掲げた第九条が占領軍によって押し付けられたことは明らかである。だが、そうなら、なぜそれを改定しなかったのだろうか。先ず、この憲法を強制したアメリカ自体、中国での革命と朝鮮戦争という切迫した状態のなかで、日本に再軍備を要求してきたのである。ところが、日本政府はそれを拒否した。それは安全保障をアメリカに任せて日本は経済再建に専念しようという宰相吉田茂の高等な戦略があったから、ではない。憲法第九条の改訂が国民の圧倒的多数によって拒否されることが明瞭だったからである。その結果、日本政府は(防衛のみに限定されると称して)自衛隊を作り、事実上なし崩しに憲法の解釈を変えてきたが、いまだ選挙において、憲法改正を公然と主張することはできない。激しい拒否に会うことが明白だからだ。

一方、平和憲法が左翼のプロパガンダのせいだといわれるが、これも的外れである。マルクス主義者が軍備放棄の政策をとることはありそうもない。たとえば、共産党は戦後日本をアメリカに植民地的に従属しているとみなし、民族独立の軍事闘争を主張した。一般的にいって、戦後左翼はブルジョア国家の軍には反対したが、人民軍は肯定したのである。。それは新左翼派の多くにおいても同じであった。総体的に、戦後左翼は第九条を保持したというより、それを利用しようとしただけである。それさえいっておけば、選挙において一定程度保守派に対抗できたからである。したがって、第九条が存続してきたのは、左翼のイデオロギーが支配的だったからではない。その逆に、目本の左翼もまた、第九条を支える「何ものか」に支配されてきたのである。

その「何ものか」は、いうまでもなく、国民(ネーション)にある。しかし、それは彼らの「意識」にあるとはいえない。つまり、合理的な説得や反省によって動くようなものではない。それこそ、無意識であるような「超自我」なのである。

 

自我論集 (ちくま学芸文庫) 「超自我」とはなにか。フロイト派精神分析学のこの用語を説明するのは難しいのだが、かいつまんで説明すると、人間のもつ本能的な衝動(エス)を抑制して、自分の思考(自我)の上に君臨しながら、それが適切なものか監視したりする存在である。

それは外部から与えられた規範や倫理などからもたらされるが、はじめてそれが無意識の「超自我」になるのではなく、内面化されてはじめてそれだけの役割を果たすことができる。たとえば「罪悪感」というのも超自我の機能がつくりあげたもののひとつである。道徳性や人間がはらむ攻撃衝動を和らげているのもこの超自我が機能しているということである。

フロイトがこの超自我の働きを理論化したのは、もちろん精神科医としての多くの臨床からである。彼が着目したのは精神の病が、超自我の禁止と本能的な衝動(たとえば性衝動)との間で、自我が不安定になっているところから発するというものだった。

日本人が平和憲法を理屈を超えて信奉し続けているのは、これが超自我として、もともとあった日本人の破壊衝動(戦争)を無意識のうちに禁止しているというのが柄谷行人のざっくりとした主張である。

閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 (文春文庫)この主張でポイントとなるのは、冷戦時代から続く左翼的な反戦理論や、占領軍から続く押し付けが日本人の平和憲法擁護の背景ではないというところである。

江藤淳は、戦後の憲法がアメリカ占領軍によって押しつけられたというような見方では、なぜそれがかくも深く国民の心を規定するかを説明できないと考えた。そこで、彼はその秘密を、占領軍の周到かつ隠微な「徹底的な検閲」に見出そうとしたのである。

 

実際にGHQによる検閲は戦後サンフランシスコ講和条約まで、新聞やメディアの統制や文学や映画といった芸術の分野まで徹底的に行われた。ここでは植民地支配は否定され、民主主義的な国家に生まれ変わる日本の方向性を伝えたり、描かれたりすることが奨励された。男女平等や自由といった民主主義の基本概念とともに、戦前にはタブーであった接吻までもが映画のなかで描かれることになる。

天皇と接吻―アメリカ占領下の日本映画検閲 ところが一方で、原爆の被害や戦争の爪痕を描くことは禁止されている。また政治的に問題となりそうな朝鮮人の存在も徹底的にメディア以外からは取り除かれた。終戦後、日本映画は大隆盛期を迎えることになるが、1951年のサンフランシスコ講和条約まで朝鮮人の姿は文芸の世界からは消えている。

※このことは別に書いた黒澤明脚本の予定だった谷口千吉監督『暁の脱走』にて、途中で黒澤明が脚本をおりてしまった話でも書いた。

江藤淳はあたかもフロイトの理論を適用するかのように、このような「検閲」を通じて日本人の無意識を統制してきたことが、日本人の意識をつくりあげたものとしている。つまり日本人は精神病者と同じく、エスと超自我にはさまれて不安定になった自我をもっているということである。日本が本当に自分を取り戻して「健康」になるためには、超自我の働きを止めねばならないという主張だ。

だが、このような「検閲」が本当に日本人の平和憲法遵守するという超自我を形成した理由なのだろうか。柄谷行人は否定する。

 

彼が、日本人はこのような抑圧から解放されたとき病から癒えるという、ロマン主義的な見方をするのも無理はない。しかし、江藤淳がいうのとは逆に、占領車による検閲があったことは当時もよく知られていた。たとえば、広島・長崎における原爆に関する報道が極度に制限されていた事実は有名であった。また、江藤淳か指摘する検閲の事例はたかだか検閲宮の愚かさと気まぐれを示すだけで、「周到かつ隠微な」検閲などといえたものではなかった。

このような政治的操作によっては、日本国民に「反復強迫」的なものをもたらすことはできない。日本国民の中に生じた「超自我」は、外(アメリカ)から来たように見えて、実はそうではなかった。それは、日本国民の「内」から、つまり、ネーション自体が存分に発揮した攻撃欲動の結果として生じたのだ。

つまり日本人が行った戦争の行為(攻撃欲動=エス)の結果そのものが、超自我に転化したという見立てである。

フロイトは次のようにいう。

 自我の内部に戻った攻撃欲動は、超自我の形で自我の他の部分と対立している自我の内部に取り入れられ、こんどは「良心」になって、本当なら自我白身が自分とは縁のない他人にたいして示したかったであろうのと同じ厳格さでもって、自分白身の自我にたいするのである。厳格な超自我とこれに隷属する普通の自我との緊張関係-‐‐これがいわゆる罪の意識であり、これは自己懲罰の欲求として現われる。すなわち文化は、個々人の内部に潜む危険な攻撃欲動を押えつけるために、個々人を弱め、武装解除し、その心の中の法廷に―征服された都市が占領軍に監視されるように-‐看視させるという方法を使うのだ。(フロイト『文化への不満』)

 

フロイト著作集 6 自我論・不安本能論
攻撃欲動を禁止する超自我の役割は、日本では様々なところで見出される。教育や文化や規範、様々なところに君臨し、そして監視を続けている。それに反抗するものたちもいる。

19世紀に民族性や宗教性を謳歌するロマン主義に対してフロイトは批判的であった。このロマン主義はドイツにおいてナショナリズムとして形をあらわにする。無意識(エス)のなかの生の衝動そしてある時には死の衝動さえにも、崇高さやロマンを見出すこと。そこに立ち現われた概念、すなわち民族を尊ぶ思想がナショナリズムにたどり着く。

だがフロイトは言う。

「無意識は死をしらない」

無意識の中では、生の謳歌は死と一直線につなかっており、自己保存の本能は破壊衝動と表裏一体の関係である。そのようなものを解放させていくのが果たしていいことなのか。

そして日本は失敗をした。数百万もの死者と荒廃した大地が残され、そして日本は占領されることになる。

フロイトはここで、まるで占領単に支配された日本の状況を語っているようにみえる。占領軍、武装解除、そして、法廷(東京裁判)。しかし、フロイトの考えでは、「占領軍」とはアメリカではなく、総動員体制の下に戦った日本国民の攻撃欲動そのものなのである。日本国民が「罪悪感」をもつとしたら、それはアメリカの策略のためではなく、日本の侵略の犠牲になったアジア諸国民が非難するからでもない。もちろん、「罪悪感」は、そのような「外」なしにはありえないとしても、「内」から来るものなしには持続(反復強迫)しないのである。したがって、この「罪悪感」はもはや攻撃性(加害)の量や質によって加減されたり、弁償によって解消されたりするものではない。それはもはや反省意識としてではなく、超自我としてあるのだから。そして、これは「文化」であって、病ではない。

<戦前>の思考 (講談社学術文庫) 柄谷行人のこの主張は、イラク戦争直後の2003年の「死とナショナリズム」(『ネーションと美学』所収)で語られているが、それを遡る1991年(湾岸戦争直後)にも別の場でも似たことを語っている。(「自主憲法について」-『戦前の思考』所収)

そこでは、戦後の憲法がアメリカから強制的されたもので、自主的につくられたものではないからつくりなおすべきだという考えに対して、そもそも明治憲法も海外の影響を受けずに「自主的=内発的」につくられた制度はないとしている。

そのうえで、明治のキリスト教徒である内村鑑三が、実は内発的=自主的にキリスト教徒になったのではない例をあげながら、そもそも人間の内面というものは外発的に強制されることで出来上がるもの(フロイトのいう「去勢」の概念)ではないかとする。

実は「自己」(主体)は、強制と抵抗のなかで形成されるのです。それは、精神分析でいうと、「去勢」ということです。去勢が自己を作ります。(中略)日本人に「自己」がないということは、外発的な強制が、この島国になかったからです。適当に外的なものを「自主的に」取捨選択することができた。(中略)戦後憲法九条にかんして、それはアメリカ占領軍によって強制されたものだということは確実です。だからある者たちは、これで日本人は「去勢」されたというのです。したがって、一人前に(男らしく)なるためには、われわれは自発的に憲法をつくりなおさねばならない、と。しかし、精神分析的にいえば「男らしさ」こそ「去勢」の産物なのです。

そして、その外発的にもたらされたものが、フロイト的に内発的なものとして「主体的」に守られているものになった仕組みを次のように述べます。

憲法九条は、アメリカの占領軍によって強制された。この場合、日本の軍事的復活を抑えるという目的だけでなく、そこにカント以来の理念が入っていたことを否定できません。草案を作った人たち(すべてでないとしても)が自国の憲法にそう書き込みたかったものを、日本の憲法に書き込んだのです。これは日本人に対する強制です。日本人はそのような憲法が発布されるとは夢にも思わなかった。日本人が「自発的」に憲法を作っていたら、九条がないのみならず、多くの点で、明治憲法とあまり変わらないものとなったでしょう。ツ連を理想化していた社会主義者も、憲法九条のような途轍もないものを考えるわけがありません。それより日本に「赤軍」を作ろうとしたでしょう。

しかし、まさに当時の日本の権力にとって「強制」でしかなかったこの条項は、その後、日本が独立し簡単に変えることができたにもかかわらず、変えられませんでした。それは、大多数の国民の間にあの戦争体験が生きていたからです。しかし、死者たちは語りません。この条項が語るのです。それは死者や生き残った日本人の「意志」を超えています。もしそうでなければ、何度もいうように、こんな条項はとうに廃棄されているはずです。

余は如何にして基督信徒となりし乎 (岩波文庫 青 119-2)
これは外的強制によるものです。そして、強制した当のアメリカ国家は、まもなく当初の戦略を改めて日本に改憲を要求してきたのですが、日本人はそれに従いませんでした。そのため、当時の政権はあいまいなかたちで自衛隊をつくったわけです。ここで、内村(鑑三)のケースを考えてみて下さい。彼に入信を強制した先輩たちが棄教して、内村のところにあらわれ、あれはまちがっていた、君もやめたほうがいい、そんな非現実的な信仰などやめろ、といいにきたとしたら。彼らにそんな権利があるでしょうか。彼らは、自分が内村を作ったと思うかも知れないが、内村の信仰は、もはや先輩たちには何の関係もないのです。(中略) この九条は、あとから日本人によって「内発的」に選ばれたものです。「あとから」ということが、大切です。「最初から」であれば、それはとうに放棄されています。私か主体的とか自発的という言葉を信用しないのは、このためです。

 

そして、外発的なものが超自我としてあとから内面化したケースは、明治憲法に見ることもできます。

それなら、明治憲法はどうであったか。幕末において、まずアメリカの黒船の脅し(強制)によって、徳川幕府は不平等条約を結んで開国します。他の人々が気づく前に日本はすでに条約を結んでいたのです。それに対して、尊皇攘夷の運動が起こります。しかし、この攘夷運動の人たちは、途中で意見を変え開国派にまわるのです。これはまさに転向です。国粋主義者から見れば許しがたい転向です。さらに、幕府から見ても、それは裏切りです。なぜなら、幕府はたんに開国のポーズで切り抜けるつもりでいたのに、この新たな開国派は本気で開国、西洋化を考えていたからです。

こうした夜明け前 (第2部 上) (新潮文庫)出てきた開国派が明治の権力となったのですが、彼らのどこに「自発性」があったでしょうか。結局、彼らはアメリカ海車の強制による開国と条約、すでになされていた「去勢」を、「あとから」積極的に受け入れたのですから。戦後の国民が自己欺瞞的であるというならば、そのようにいう人たちが理想化する明治維新の志士たちを見なければならない。彼らこそ「去勢」されたのです。事実、島崎藤村の『夜明け前』では、こうした転向者に絶望して、発狂してしまう国学派の男が書かれています。(中略)

要するに、明治憲法が自発的で、戦後憲法が自発的でないなどというのはバカげています。明治憲法は、べつに「国民」によって作られたものではありません。憲法もないような野蛮国では、対外的にやっていけない、不平等条約も変えられない、といった外的強制、というより「皮相上滑り」の模倣という動機から作られたのです。

 

『ネーションと美学』は2005年にほぼ発売と同時に読んだと記憶している。この年、小泉政権は衆議院選挙で圧勝し、自民党新憲法起草委員会は新憲法の草案をつくりあげ、翌年に第一次安倍政権が成立。

正直なところ、右傾化が歯止めが利かず進んでいるようにみえたその世相の只中で、なんという呑気なことを言っているのだろうとしか思えなかった。ただし、強く記憶に残った。

しかし、次の年2007年、安倍政権は改憲を争点にあげて参議院選挙に突入して惨敗。

それからさらに7年たった現在、第二次安倍政権は解釈改憲の手続きにより、集団的自衛権の閣議決定がなされたところで、その支持率は急低下しつつある。

おそらく、この閣議決定に基づいた法制化の段階でさらに追い込まれていくのではないか。

再び柄谷行人の「読み」を思い返している現在である。

 

【参考】優しい左派リベラルのための「憲法改正」のすすめ -心情倫理を抱きしめて

 

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