日米開戦はコミンテルンの謀略? 『ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦』 -陰謀論の検証

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ハル・ノートを書いた男―日米開戦外交と「雪」作戦 (文春新書)

「日米開戦はソビエトが仕組んだ」という陰謀論

「日米開戦はソビエトの陰謀だった」という「真実」がネットでは散見される。

「ハルノート」などで試しに検索するとこの手の「陰謀史観」が、その手の人達の大好きな「真実」という言葉とセットになって出てくる。このコミンテルンの陰謀説というのは、戦中から戦後にかけて近衛文麿のような人まで唱えていたくらいだから、それなりに根拠ないものでもないのだが、それにしてもなんというか、この手の「真実」が好きな人が多いことに驚く。

本書は、ソ連が独ソ戦を有利に戦うために、日本とアメリカを戦わせたという「日米開戦ソ連謀略説」の根拠のひとつになっている、いわゆる「ハル・ノート」とそこからくる対日戦争がソ連の工作(「雪作戦」)によって成し得られたものではないのかという説を徹底的に検証したもの。注目すべきは、ソ連時代にこの工作を実際に担当したものへのインタビューが検証の中心となっているところ。まあ、これはこの「陰謀説」の決定打に違いない。

なお、このソ連工作も含めて、ハルノートに至る流れを追っていくことによって浮かび上がるのは、むしろ日本-アメリカ-ソ連の三者の思惑が、それぞれ違う方向にむいていたこと。そして、特に日本の外交政策の拙劣さ、そして太平洋戦争が「自衛戦争」だったという肯定論に対する疑念である。

 

前提知識:太平洋戦争に至るアメリカとの対立

 

先に整理しておこう。

開戦までの日本のアメリカのコンフリクトは、ずばり中国大陸をめぐってのもの。

第一次世界大戦後、露骨な植民地獲得のための軍国主義や、様々な形で民族自決主義が勃興してきた中、日本は中国大陸に露骨な侵略を行ってきていた。

もともと西部開拓のフロンティア主義が終わると、次の「西」へ太平洋であったアメリカは中国大陸の市場を狙っていた。
(もともとペリーが日本にやってきたのも、別に日本と貿易するためではなく、単に中国までの経由地として日本をみなしていただけなのも想起しましょう)

日露戦争に投資した男―ユダヤ人銀行家の日記 (新潮新書) そのため中国に足場を築きつつあったロシアを警戒し、日露戦争で最大の支援を行ったのはアメリカである。ところが、日本の国債を買って支援していた見返りに、満州鉄道の敷設の権利を取られると思っていたアメリカ人の銀行家の商談を、日本は蹴ってしまう。まずここがケチのつきはじめ。

【参考】
投資の対象だった日露戦争 / 「日露戦争に投資した男―ユダヤ人銀行家の日記」 田端則重

この頃、北米で日本人移民の排斥運動が始まりだしたのもわかりやすい影響です。

【参考】
『黄禍論と日本人 – 欧米は何を嘲笑し、恐れたのか』

黄禍論と日本人 - 欧米は何を嘲笑し、恐れたのか (中公新書)第一次世界大戦で、いわば火事場泥棒的に中国大陸のドイツ権益を獲得し、さらにできたばかりの国民政府に、完全なオールドスタイルの軍事力背景の内政干渉そのものの「対支21箇条要求」をしたために、これまでどちらかというと反英でどちらといえば親日的だった、民族主義が盛り上がる中国を一挙に逆なで、ここから現在まで100年にわたる中国との遺恨が発生。さらに門戸開放で経済的な利権を得ることを狙っていたアメリカもこれに警戒。
永年、仮想敵をドイツやイギリスやスペインとしてきたアメリカは、おそらくこのへんで仮想敵国の筆頭を日本に切り替えています。この「対支21箇条要求」が、坂の上の雲を目指していた日本が国際的に悪者となる転機となったのは間違いないでしょう。

さらに1929年の世界大恐慌を経て、満州事変(1931)や日中戦争(1936)を経て対立は決定的になり、第二次世界大戦で敗北したフランスの領土である南部仏印進駐で、ついにアメリカは戦争も辞さないという強硬な態度になります。

日中戦争の開始から、次々と対日禁輸政策をひいていき、南部仏印進駐でついにトラの尾を踏んだかたちになり、在米の日本資産の凍結、さらに、石油全面禁輸処置にでます。核という譲れないラインを踏み出してしまった、今の北朝鮮みたいなものですね。この石油全面禁輸処置が効いて、勝ち目がないことがわかっていた対米戦争に踏み切ったわけです。
この経緯から、ルーズベルトはドイツと戦争するために、国内世論を鑑みて、日本から宣戦布告させることを狙ったというのが「ルーズベルト陰謀説」で、さらにこれが真珠湾攻撃もルーズベルトは知っていたという俗説につながります。

その後にこのへんがまずは前提知識として抑えつつ、以上の「コミンテルン陰謀説」を「ルーズベルト陰謀説」も含めて、以下の本書の検証をまとめます。

 

ソ連の工作は日米戦争を目的とするものではなかった

 

・確かにソ連は、ドイツにアメリカを参戦させるための謀略を行っていたが、その内容は実は日米を戦わせることではなかった。

・ハルノートの試案作成に関わった人間は、確かにソ連の工作員と関係があったため、戦後の赤狩りの被害にあった。

・このソ連の工作員が最近になって証言が出てきた。だが、この接触の結果出てきたハルノートの原案は、その後に正式に日本に提出されたものとはだいぶ内容が違う。

・アメリカは当時は欧州での英独の戦争に強烈な危機感があり、そちらに参戦することが焦点で、その場合に、太平洋と大西洋で二正面作戦を避けたい意向だった(とソ連も思っていた)

・そのため、ソ連の工作員の考えも反映されたというハルノートの原案(1941年11月17日の「モーゲンソー試案」と言われるもの)は以下のとおり。

【アメリカのやること】
・アメリカは太平洋から海軍の大部分を撤収する
・日本と20年の不可侵条約を結ぶ
・満州問題は最終解決させる(つまり事実上アメリカが満州を承認するということ)
・仏印は日本・アメリカ・フランスヴィシー政権・中国の共同管理
・日本人移民の制限を解除
・対日貿易は最恵国待遇とする(もちろん数々の禁輸処置は解除)
・在米資産の凍結ももろちん解除
【日本のやること】
・(満州以外の)中国から撤兵する
・タイと仏印からも撤兵。
・国民政府を認め、それ以外の政府に支援しない
・中国大陸の治外法権を廃棄する
・ソ連が満州国境から撤兵する条件のもと日本も2-3個師団に満州の兵力を削減
・戦争資材の75%までを米国に原価120%にて売却する
・米国と中国に最恵国待遇を与える
・ドイツ人の技術者や宣伝員などを退去させる
・中国、イギリス、オランダ、フィリピンと10年の不可侵条約

・この試案がどこまでソ連工作員の思惑が入っていたかは不明。ただし当時のソ連工作員の証言によれば、大筋ではソ連のアイディアが入っているといえる。

・つまり、ソ連が狙っていたのは日本と米国を戦争させることではなく、日本と米国の戦争回避と太平洋の安全保障の確保により、太平洋と大西洋の二正面作戦のリスクを避けさせて、そのうえで後方の心配なくドイツとの戦争に踏み切らせることだったのである。

・満州の承認と経済的なメリットを与えることにより、経済的な負担になっていた中国侵攻から、日本のメンツを立てつつ撤兵させるというのが、この原案の基本ライン。

そう、ソ連の工作は日米戦争を目的とするものではなかったわけである。むしろ逆だったわけなのだ。

なお、この試案をつくったモーゲンソー財務長官は戦後にソ連工作員との接触を疑われて失脚する。

 

ハルノートと日本の交渉の拙劣

 

よく対米戦争は祖国の「自衛戦争」だという人が散見するわけだが、これを「自衛」とする根拠はかなり薄弱なものといえる。

なぜかといえば、日米交渉の過程を見れば明らかな通り、この戦争の原因は大きく2つあって、そのいずれもが「自衛」とは直接関係ないものなのだからだ。その2つはとは、①中国大陸への進出(ただし満州は除く) ②日独伊三国同盟である。

日中戦争(1937-1945)が泥沼化し、蒋介石をアメリカが露骨に援助するようになり、ここで日米関係に決定的な亀裂が走る。

しかし、もっとアメリカにとって深刻だったのは、1939年にドイツが欧州戦争を開始し翌年にはフランスを降伏させたこと。イギリスはこの時点で瀕死の状態であった。アメリカの焦点は、むしろ欧州を救うために参戦することであったのである。

そのため当初アメリカは日本と戦争をするつもりはなく、むしろ日本と関係を改善してからドイツ参戦をしたかった形跡がある。そのため、1941年4月の野村米大使とハル国務長官との交渉で素案として出てきた「日米諒解案」の非公式の下打ち合わせでは、「日本が三国同盟を抜けるならば、日ソ戦がもし起きたらアメリカは日本を援助する」という提案すら出ている。

その1941年4月の「日米諒解案」とは以下のとおり。

1.欧州戦争については、日本は参戦しない。
2.日本は中国の独立を保証し、軍を中国から撤退する。この際、賠償責任や領土の割譲を要求しない。
3.アメリカは満州国を承認する。
4.太平洋ではお互いに脅威となるような武力の進出を行わない
5.アメリカは経済的な制限をすべて解除し、日米通商条約を再度結ぶ。
6.アメリカは日本円に対する金保証を行う
7.フィリピンの独立を双方保証する
8.アメリカは日本移民の差別待遇を撤廃する

以上を協議するためのハワイでの日米首脳交渉の提案までもがついた案がアメリカから送られてきた「日米諒解案」であった。
この案は、もともと近衛首相の依頼を受けた元大蔵省の人間がアメリカで独自のコネクションを使ってまとめたもので、その案には特に正式な拘束力があるものでもなかった。とはいえ、それをアメリカの国務長官が取り上げ、野村駐米大使のもとでつくられたものであるので、有効性がないものとはいえ、少なくとも日米の戦争回避のたたき台になる可能性が高かったのは間違いない。

この案に添付されてきたというハル四原則、すなわち『内政不干渉・領土主権尊重・市場経済の機会均等・現状維持』にも矛盾しない。問題は三国同盟の取り扱いだけである。

これにはもともと日中戦争の拡大に不安を覚えていた当時の近衛首相も賛同し、当時日中戦争に展望を見出し難くなってきていた陸軍の東条英機までもが賛意を表していたという。

ところが、この時点欧州を訪問していた松岡外相が、ドイツの破竹の進撃を目の当たりにして、三国同盟の事実上の廃棄に近い条件に難色を示し、この提案を真っ向から否定する三国同盟は順守するという回答をしてしまう。アメリカはこれに対してほぼ名指しで松岡を非難する異例の声明を出している。

この交渉が進むあいだ、6月にはドイツがソ連に宣戦布告。さらには、「太平洋ではお互いに脅威となるような武力の進出を行わない」という日米諒解案に反して、7月に南部仏印に進駐してしまう。ここでアメリカの態度は完全に硬化し、石油禁輸と在米日本資産の凍結を行うことになる。

まとめると、満州のラインまで日本が撤兵し、日独伊三国同盟を破棄しておければ、ここで勝てる見込みのない戦争に踏切る必要はなかったわけである。

当然ながら、当時の軍部の専横を考えると、無条件で中国から撤退は相当に難しい話だったと思うのだが。これに踏み切れず、さらに、外交と軍の進出の齟齬(南部仏印進駐)により、アメリカの不信感を募らせてしまった。これが対日石油禁輸という決定的な事態につながるわけである。

 

太平洋戦争は「自衛戦争」だったのか

 

本書は「日米開戦はソ連の陰謀」というのはピントが外れているということを検証するものだが、ハルノートに至る歴史をさらにたどってみる。

ハルノートの内容は以下のとおりである。

1.イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
2.仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵(蒋介石政権の承認を含む)
4. 最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
5. アメリカによる日本の資産凍結を解除
6. 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
7.第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄

最初にみた、ソ連の工作といわれていた「モーゲンソー試案」とはだいぶ異なった内容になってきているのがわかるだろう。どちらかというと「日米諒解案」により近い。

三国同盟の廃棄と実質同等の表現である1.の多辺的不可侵条約や、新たにテーマとなった2.の南部仏印からの撤兵かせ加わったのみである。

「満州国の承認」という事項が欠けているが、これについては当時の政府は「中国」に「満州」が入るかどうかの確認をアメリカにしていないで、一方的に満州からの撤退も含まれると解釈(今の歴史観の一部でもハルノートでは満州からの撤退も求められたと解釈しているものが多い)としているが、筆者は先に見たモーゲンソー試案や日米諒解案との連続性からみて、満州は含まれていなかったと推定するのが打倒と結論づけている。

『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』という東京裁判の際のパール判事の発言が、「太平洋戦争肯定論」につながっているのも、このへんの誤解がある一方、また「事変」といわれて進出して泥沼化してきた日中戦争で進出した領土をあたかも「自衛のため」と曲解しているからにすぎない。アメリカがこだわっていたのは、ずっと中国(満州を除く)からの撤兵と国民党政府による、日本も含めた中国の門戸開放政策である。
ところが軍部からすればそういう風には捉えていない。

「ハルノートは、租界、居留地、その他の在支諸権益の放棄を提議した。これは日本の北支・内蒙・満州の一切の建設を否定する。ハルノートはアメリカの傀儡化した重慶政府のみを支持し、満洲国政府、南京政府の存在を否定してきた。ハルノートは全支と全仏印から撤兵せよ、警察力を下げよと言っている。南京政府も、満州国を否認せよと命じた。こうなっては、満州事変以来10年の日本の経営は水の泡となる。その結果新秩序は愚か、日本の対ソ、対米国防体制も根本的に崩壊する。」
(田中真一参謀本部作戦部長)

・ハルノートは、租界、居留地、その他の在支諸権益の放棄を提議し

→軍の撤退を条件としているだけで、居留民や権益を放棄とは書いてない。

・アメリカの傀儡化した重慶政府のみを支持し、満洲国政府、南京政府の存在を否定してきた

→重慶政府の支持はともかく満州国を否定していない。また諒解案では重慶政府と南京政府の合流という表現もある。

・ハルノートは全支と全仏印から撤兵せよ、警察力を下げよと言っている

→警察力については明記されてない。

・満州事変以来10年の日本の経営は水の泡となる

→満州以外で「経営」と名づけられるような国家的な投資はしてない。ただ南京政府を支援しているだけである。

・日本の対ソ、対米国防体制も根本的に崩壊する

→満州からの撤兵はこれまで見てきたとおり、アメリカは触れていない。

ようするにまだまだ交渉の余地があったわけである。

もちろん、この時にルーズベルトはハル国務長官は、戦争覚悟であっただろう。しかしこれは、対日石油禁輸のあたりから一貫したものだったと思われる。このへんに関する証言はいくつか説得力があるものがある。

逆に日本の立場からすれば、石油禁輸になっており、交渉で時間を費やせば費やすほど、石油を消費してしまう。戦争を踏み切るには早いうちにという判断もあるわけである。こうして、ハルノートで開戦を決断することになった。いわばルーズベルトの思う壺である。

日本は日米諒解案からハルノートにいたる7ヶ月間にわたり、日米戦争を回避しようと交渉を重ね、さらにこの交渉に障害になるだろう松岡外相を事実上更迭し、外務大臣に和平論者の豊田貞次郎を起用するなどの努力をするが、結局は、アメリカが譲歩することがなかった①中国大陸からの撤兵(ただし満州は除く) ②日独伊三国同盟の廃棄 という交渉ラインに軍部の反対を押し切って賛同することはできなかった。

戦争回避の交渉の途中、アメリカも妥協的な態度に出ようとしたことがある。日本側の交渉内容が暗号解読により知ることになり、日本が交渉決裂した場合には開戦を決意しているという情報が入ってきたためである。

とりあえず日本は南部仏印から撤兵し、北部仏印も兵力を制限する。これによって在米資産の凍結や貿易制限の解除をいったん行い、それからまた交渉をはじめるというものだった。が、これは日本側には提出していない。それが提出されず、ハルノートの提出になったのは、すでに交渉決裂時のための開戦準備に、中国や英国などからの反対もあったのだが、南方に移動していた軍をタイに進出するとの疑念をルーズベルトとハルが抱いたことによるという。この時点で、対日戦争を覚悟していたのは間違いない。

この点でルーズベルトが対日戦争を決断していたというのはそのとおりかと思われる。ただし、それが必ずしも対独戦争に踏み切るための手段だけなのかどうかはわからない。むしろ問題なのは、中国大陸と南部仏印である。南部仏印の日本占領により、中国大陸への援助ルートが途絶えかねないこと、そして蘭印やシンガポールに進出する切っ先となる位置に軍が進んだことに対する日本の意図が明確になったこと、この2点に対応したわけである。完全に虎の尾を踏んだわけである。
最後に、繰り返しになるが、この戦争は「自衛」のための戦争といえるかどうかといえば、まったくそういうものでないことがわかると思う。

焦点となったのは中国である。しかも満州はそこに含まれていなかった。中国の利権をめぐる戦いが太平洋戦争の正体であり、自衛というからには当時の日本の版図である日本・朝鮮・台湾に関してはなんの問題もなかった話である。

日中戦争の不拡大方針を唱えたものたちは、満州の経営に専念するべきであるとの考えを唱えることによって、陸軍から次々と追放されていった。日清・日露・第一次世界大戦と、兵を進めれば何らかの見返りがあるという考え方にとらわれてしまい、すでに植民地争奪の時代でなくなりつつあった欧米の潮流から敵対視されることになった。このような考え方は、現代の視点から見た結果論ではないことは、当時の軍部の多数を占めた急進勢力以外の、押しつぶされた言動を見ていればわかる。

1929年の昭和大恐慌以来、好戦的ムードに押し流された国民に支持され、天皇の命令さえ届かないくらいに歯止めが効かなくなった軍部。その暴走に対して、大勢は無責任に迎合するか、疑問を感じるものも銃剣による言論弾圧に屈して押し黙ったままだったのだ。

 

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