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敗戦までの「論理」を問い直す / 「戦争の日本近現代史」 加藤 陽子

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◇戦争の日本近現代史―東大式レッスン!征韓論から太平洋戦争まで

日清戦争以降の日本が、安全保障という理由から大陸に進出して、そしてそこから泥沼式に戦争が占領地を拡大し、そしてその占領地が摩擦を呼び、という繰り返しで泥沼に陥ったという流れは、一般的な理解だろう。

本書の卓越は、歴史というのが断絶した出来事の累積なのであり、そしてその中に「深いところで突き動かした力」があるという認識であり、そこから、幾たびも語られたであろう日本の近現代史を検証するところである。

以下、本書の主張をざっくりとまとめてみる。

テキストは一見全てを語っているようで、実は何も語っていないということが普通にあるのである。

例えば多くの太平洋戦争に至る歴史について語ったテキストはあったとしても、それがいかなる経緯と論理の筋道によって、「だから戦争に訴えなければならない」、あるいは、「だから戦争はやむをえない」という感覚までをも、もつようになったのか、そういった国民の資格や観点をかたちづくった論理とは何なのかというような問いに答えるものは少ない。

筆者はフーコーからその方法論を借りたことを明記しているので、このへんはフーコーを引きながら考えてみよう。

書物や史料は、語りつつ、実は語られていない、深部の力をもつ。そして、実はそれが「歴史」を動かしている。(フーコーはこれを「権力」と言う。)

書かれた書物や史料というものは、テキストとして存在しつつも、テキストには記述されてはいない存在しないものを示唆しつづけていく。

そして、その存在しないはずのものは、絶えずその正体を変化させながら、通時的に見ていけば論理的に一致しないはずのものが、あたかもひとつのものとして流れていく。その深部の力を発見して行くのが、実は読み手の責務なのである。

フーコーは、そのような「事実」の累積に「問い」を設定していくことを「再-問題化」といった。

では、この日本の近現代史における「再-問題化」しなければならないことはどんなことなのだろう。

例えば、筆者は吉野作造の次のような「問い」を紹介しています。

永い間の封建制度に圧せられ、天下の大政に容喙することを一大罪悪」と教え込まれてきた我々の父祖が、なぜ近代になると政治を国民自身の仕事と考えるようになったのか、明治初年にあって、万機公論、天賦人権などの発想に、人々がどうして用意に飛びつくことができたのか、と。
そこにあったはずの跳躍を可能としたのはなんだったのかという問題は、時代が大きく変化し躍動するようなときには、必ず出てくるような類との問いでしょう。

ある時代的な認識のことをフーコーは「エピステーメ」と呼んでいる。これにならっていえば、エピステーメはどのように急激な断層を生み出し、次の時代のエピステーメにつながっていくのか?

このような問いを発していかなければ、時代を乗り越えていくことはできないといえる。

その問いは、たとえば本書では以下のようなものとなる。

太平洋戦争だけをとりあげて、「なぜ、日本は負ける戦争をしたのか」との問いをあげてみても、「正しい問い方」をしたことにならないのではないでしょうか。
(中略)
「なぜ、日本は負ける戦争をしたのか」「なぜ、日本は無謀な戦争に踏み切ったのか」といったような問いが、なぜ「正しい問い方」でないかといえば、そうした問いは、もし日本が戦争に勝利していたとしたら問われることのない地点から発せられている問いだと思われるからです。

以上のような問題意識は、日露戦争や日清戦争から第一次世界大戦あたりまでの日本が「正しかった」と断定する史観には欠落したものだ。

本書ではいくつかの時代的な当時の認識にわけて、この「正しかった」時代の道筋をたどっている。
以下、順を追ってまとめていく。

(1)明治政府の初期の政治解放

 そもそも攘夷にて始まり倒幕につながった明治維新の運動が、結局は攘夷を実現することができなかったこと。

 これに理解を得るために、政府は広く対外的な現状、つまり日本をとりまく現状はシリアスな帝国主義時代にあり、それを乗り切るためには、国際的に認知され、その中で自衛の手段をとっていくしかないことを、明治政府は幅広く世間に説明してきたこと。
当時の「防衛論」は、次のようにまとめられることが多かったそうである。
兵備を盛んにするというのは、国力を顧みずにいたずらに大兵をおいて戦争に走ることをいうのではなく、国力の許す範囲で兵備を整え、理を守って屈せず、義を忘れることのないようにすることをいうのである。

(2)江華島事件とアジア主義の発現

 1875年の江華島事件は朝鮮を開国させるための直接の出来事となりましたが、この背景については、王政復古の思想がもつ基本的なアジア主義が発現したものとみなされるのではないかと筆者は指摘しています。

 そして、この後におきる征韓論とあわせて、無謀な欧米列強に対する戦争はできないものの、内なる国内改革の士気をあげるために、ほとんど意味のない海外進出(ここでは国民国家成立以前の弱小の朝鮮)を行おうとしたのではないかという「気運」が強くあったということである。

 もちろん、それが国威発揚という目的なわけですから、さしたる経済的な理由もあるはずでもなく、そして前項(1)で述べているとおり、国力に応じた防衛主義にある日本では、それは安全保障上の問題でもなかったというわけである。

 当時の士族民権雑誌の論調は筆者引用によれば次のようなものだったという。

 朝鮮であれ支那であれ相応な相手を選んで戦を始め、以って全国の英気を引き起こせ

 現実的な展開を選択した政府はこのような「気運」を政策には反映しなかったのですが、このような思想がこの当時力をもっていたことを忘れてはならないと思う。

(3)民権運動とナショナリズム

 議会制度が発足するまでに、日本では民権運動が盛んになる。

 ここで注意が必要なのは、当時の民権運動というものが、欧州からの理論を「モジュール」(ベネディクト・アンダーソン)として導入したものであり、当初から植民地的帝国主義を国策とする国家主義から強い影響をうけていたことである。
民権が尊重されねばならないのは、国家の利益のためというロジックが、そのまま明治日本の基本的な思想に導入されたのも大きな事実となります。

ただし、この時点で、対外膨張のための軍拡という理屈は特に大きく発生してはいない。1882年あたりまで、この状態が続く。

(4)ロシアの進出と利益線論

 シベリア鉄道の開通から東アジアでは緊張が高まりつつあり、そして朝鮮をめぐっての緊張が高まる。当時は、日本が米国その他と結んだ同じ不平等条約を今度は日本が朝鮮に対しておしつけ、国内は経済的にも混乱しつつあった。

 このへんから、日本のナショナル・インタレスト(国益)のために、朝鮮を確保するべきだという議論がおこる。

 しかし、ここでいう確保というのは、中立国として存在「させる」ことであり、ここが他国の権益内にはいったときには武力を行使してでもその影響力を排除するということである。

 これが利益線論であり、この利益線(安全保障)論が、その後の日本の対外政策の重要なタームとなりつつ、しかしその意味は少しずつ変容していく。

(5)日清戦争の論理

 日清戦争は(4)の安全保障の担保としての朝鮮、そしてそれに干渉する他国という基本的な論理のもとに発生する。

(6)日露戦争の論理とアメリカの自由貿易宣言

 日清戦争の講和条件により多額の賠償金を得て、さらに清国への大きな利権を獲得したことにより清国は弱体化。さらに三国干渉により、清は列強の国家-資本の組み合わせで蹂躙されるようになる。

 日本は賠償金で軍備を増強しつつ、列強のパワーバランスにのり(ロシアの東アジア進出を防ぎたいイギリス・アメリカのバックアップ)、多額の戦費を調達し(このへんこの書評で触れました)戦争をきわどい勝利に持ち込む。

 そもそもこの戦争は、(4)の利益線論がそもそもロシアの脅威から導き出されたものであるから、(4)-(6)は必然的な流れであり、また当時の朝鮮も、ロシアの力をかりて日本に不平等な各種の干渉をうけていたのを排除しようという動きもあったことも要因となっている。

また、当時アメリカが「門戸解放宣言」のもとに、自由貿易を推進する立場を打ち出し、それが日本に影響をおよぼし、そもそも清との戦争にて経済権益とされるべきであった満州の利権を日本がオミットされていることを強く問題視していることも触れられている。

 ちなみに、1900年から1910年にかけての日本の総需要の中での貿易の占める割合は、この15年前の数値から倍以上に増えており、相手地域は主に韓国と満州だった。

 日露戦争が、利益線論(安全保障)と自由貿易論(経済権益)という概念が交差しつつ、行われた戦争であるということである。

(7)日露戦争後の迷走

 この時期、戦争に勝ちながらも、むしろ日本をめぐる情勢は混迷していた。

a.日露戦争の債務が、ロシア相手の戦争では賠償金というかたちで回収できなかった。国家予算は厳しくなった

b.獲得した満州の利権をどのように守るかビジョンがなかった。 満州鉄道の租借期限は1940年、また土地の租借権は1923年までであった中、経済的な権益を新たな政治的な手段を行使して維持する必要があった。

c.中国の革命における中華民国と、さらにはそこに権益を確保しようとする欧米列強との外交政治のスタンスをどのようにとればいいのか

要するに戦争に勝ったものの、得るものは問題の多いいわくつきの利権であり、しかもそこは国際政治のど真ん中であったということである。

すでにここに至り、日本の利益線論(安全保障論)は、日本本土の防衛という意味では意味を失っており、かわりに
二十億の資財と二十余万の死傷を以って獲得したる所の戦利品(山県有朋)
をどのように維持し、そこで戦争によって獲得できるはずだった経済的利益を得ることができるか、さらにそれを永続的なものとするかにすりかわっている。
おそらくこのあたりで、太平洋戦争に至る流れはおおよそつくられていたのではないかと思う。
これ以降は、すりかわった利益線論の意味(安全保障から経済権益論へ)とともに、その過程のどこかで、王政復古の思想がもつ基本的なアジア主義が動員されはじめるのではないか。
なんにしても、日露が講和条約を結んだ時点で、ある程度の理論の流れは形成され、そして日中戦争を経て太平洋戦争は行われていったのである。
歴史の断層を捉えながら、なぜそれがおきたのか、どのようにそれがおきていったのか?
その問いは、さらに広がりをみせていくだろう。
本書は、その入門書のひとつ。
(初出2006年2月13日)

コメント

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    わたしのブログで引用させていただきました。
    http://blogs.yahoo.co.jp/ryuji_japanabc/63299263.html

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