トリックの中の「国家神道」 【1】ヤマト王権の「国家神道」

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「国家神道」という言葉はそもそも戦後にGHQが言いだした用語である・・・という俗説があるが、これは正しくない。

国家神道形成過程の研究 神道学者の立場から法令や行政の中で国家神道がどのように取り扱われてきたかを綿密に研究する阪本是丸は、『国家神道形成過程の研究』の中で、1908年の帝国議会の委員会の議事に「国家神道」という言葉が使われていることを実証的に指摘している。

この時に「国家神道」と呼ばれているコトバの意味は、その同文書に併記されている「宗教神道」とセットで論ぜられている。この二つのコトバは対比された概念として使われているわけだ。つまりこの当時の考えでは神道には二つの種類があるということになる。

ここでは「国家神道」とは、皇室祭祀を中心としつつそれは「宗教」ではないとされ、国家によって階層化された神社が「宗教施設」ではなく、国家の祭祀施設であるとされた時の「神道」のこと。伝統的祭事と国民道徳の原典を「国家神道」と言う。

かたや、「宗教神道」とは、国家が護持する宗教祭祀とは別の神道である。だが、そこには出雲大社や伊勢神宮の教派も入っているのが奇妙にみえるが、国家がコントロールしているもの以外は「国家神道」ではないという基本的なポリシーが垣間見える。
したがって、各地にある護国神社や台湾や朝鮮、満州や樺太などの宗教施設ではなくて、無宗教な国家の祭祀施設という理解になる。靖国神社もこれに入る。もともと靖国は陸軍が建立した神社であるからだ。もちろんそれのみならず。宮中祭祀や大嘗祭のような神事も当然宗教ではないことになる。それが「国家神道」である。

さて、以下に国家神道というものの基本的な定義をざっくりとまとめてみたいと思う。

というのは、この定義が戦後にリビジョニストの一派によってかなり偏向的に書き換えられようとしているからだ。その中にはトンデモな意見もあったりもするが、却って国家神道の核心に迫ったものもある。ただ、共通しているのは明治維新から紆余曲折があって、明治憲法で一応の形を得た国家神道をどちらかというと肯定的にとらえる論調である。

だから、その中には大正デモクラシー以降、特に戦争期に暴走した国家神道に批判的な意見もある。それはそれで同意するところもあるのだが、そもそも国家神道のなかにそういう暴走するべき回路が組み込まれていたのではないかとも疑問を呈さざるを得ない。
また、日本人のほとんどが自分たちが無宗教であると自己規定するのは、実はこのあたりに源泉があるのでないかと思う。確かに欧米の宗教と比べて、日本の神道には教義もないし、本尊もないし、開祖もない。さらには本来あるべきはずの「救済」すらない。国家神道はさらに何もない。あるのは世界中にあるネーション=ステイツ(国民国家)の宗教政策との類似性だけだ。

国家によって護持されていたひとくくりの祭祀と思想が「宗教」ではないとしたものこと。そこにはどんなトリックが隠されているのか。それを少し考えて行きたい。そこには、明治維新後に近代国家の道を歩む過程で、明治政府がその国家観や宗教観、さらには天皇の地位に対する解釈を変更してきた形跡と、それがモンスター化した足跡をたどることになる。
それでは、そのためにまずはそのトリックの仕掛けとなっている古代のヤマト王権までさかのぼることにする。


 

1.古代王権の「国家神道」

王政復古の大号令(1867)は明治維新のメルクマークであるとともに、後の政体を決定づけるベースとなった宣言である。
王政復古―慶応3年12月9日の政変 (中公新書)

徳川内府、従前御委任ノ大政返上、将軍職辞退ノ両条、今般断然聞シメサレ候。抑癸丑以来未曾有ノ国難、先帝頻年宸襟ヲ悩マセラレ御次第、衆庶ノ知ル所ニ候。之ニ依リ叡慮ヲ決セラレ、王政復古、国威挽回ノ御基立テサセラレ候間、自今、摂関・幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置レ、万機行ハセラルベシ。諸事神武創業ノ始ニ原キ、縉紳・武弁・堂上・地下ノ別無ク、至当ノ公議ヲ竭シ、天下ト休戚ヲ同ク遊バサルベキ叡慮ニ付、各勉励、旧来驕懦ノ汚習ヲ洗ヒ、尽忠報国ノ誠ヲ以テ奉公致スベク候事。
(すべて神武天皇が始められたのにもとづき、公卿・武家・殿上人・一般の区別なく正当な論議をつくし、国民と喜びと悲しみをともにされるお考えなので、おのおの勉励し、従来のおごり怠けた悪習を洗い流し、忠義をつくして国に報いる誠の心をもって奉公するようにせよ)※部分のみ現代語訳

「諸事神武創業ノ始ニ原キ」と書かれているのは、急進的な尊王攘夷主義のイデオロギー的支柱となった国学の影響である。古事記や日本書紀の精緻な分析をもとにした、新しい国家観(正しい彼らにとってはあくまでも「復古」なわけだが)と日本中心主義とそこから立ち現われる排外的な思想は、国学の基本思想であり、これが明治維新の理論的背景になっている。そして実際に彼らは政権を奪取することに成功する。

しかし、政権を獲得し、いざ神武創業の始まりに立ち戻ろうとしても、いくら研究しても政治体制については記紀はさほど触れていない。(神話の時代だから当たり前なのだが)

そこで、明治維新の最初に参照したのは、地方の豪族であったヤマト王権が初めて日本の主要部を統一して、国号を「日本」と名乗りはじめ、大王を「天皇」と称しはじめた頃の、7世紀後半の律令体制である。これを古代天皇制と呼ぶ。

この古代天皇制の時代に天皇の地位はどのように表現されてきたか。

例えば大宝令(701)では

「明神御宇日本天皇」(生きている神であり日本という家を統治している天皇)
「明神御大八州天皇」(生きている神であり日本を統治している天皇)

という表現が見られる。
この時期に在位した天武天皇の御名(署名や印に印された正式名称)は、

明神御大八洲日本根子天皇

であり、この語は、続日本紀にも見られる。

この「明神」という言葉は、後に国学の影響下に少し違う意味に使われるようになったが、そもそもの意味は生きている神というもので、その読みは「アキツカミ」となる。「現御神」「現神」「荒人神」とも書かれる。

大宝令も含めた古代天皇制における律令制度は、当時の世界帝国であった中国の隋-唐の、最新の政治システムである律令制度をモジュールのようにヤマト王権に導入したものだが、この現人神信仰のみが例外的に日本独自といえる思想が背景となっている。

中国の王権は、それが当時世界最大の強大帝国であった隋-唐であっても、自らを神とは名乗っていない。あくまでも天から委任された権力を行使するのが中国の歴代の王権である。吉本隆明や、何人かの民族学者や文化人類学者はこの日本の「生き神様信仰」を、アジアの極東地区の辺境国家に見られるの一つと規定して、チベット、ネパール、東南アジア、オセアニアなどを例にあげている。もちろん、これのみならず「一神教」と規定されながらも、実際は人間である聖人とはいえ人間である人物を信仰の対象とすることは、キリスト教でもイスラム教でも広く見られる現象だ。

いずれにせよ、この時期、祭祀をつかさどる最高の司祭を超えて、天皇の地位はアキツカミとして自らが宗教的構造の頂点にたち信仰の中心となったばかりではなく、同時に政権の最高権力も総攬していたことになる。その地位は法に権威を与えるという意味で、その法すらも超越したものといえよう。これを指して、はるか後年に「天皇親政」と呼ぶことになる。

「神道」が天皇家の皇祖皇宗の物語サーガと結合したのもこの頃だ。素朴な共同体の民間宗教や部族の祖先崇拝がベースとなった日本古来の宗教(原始神道ともいう)は、様々な土地に偏在し、それぞれが別個に成立していた。大陸と南方系の稲作の豊作を祈願する農耕儀礼や北東アジアのシャーマニズムの影響を受けたその形跡は今でも数多く残されている。

これらの神々はやがて別の神によって征服され、服属していくことになる。その物語が記紀神話である。その意味で記紀神話は極めて政治的な意味で書かれた正史(国家によって編纂された歴史書)ともいえる。

大和朝廷はその個々の部族やそれが祀る神々の服属の歴史を、天津神と国津神という概念で説明する。地方でそれぞれが祭祀権を握っていた豪族から部族の宗教を奪いそれらを国津神とした。国津神は天津神の宗教に服属するものとして、階層づけられた。
例えば伊勢神宮は、もともとは伊勢の地方の農業神の祭事場所であった。それが、宮中にあると厄があるとの理由でアマテラスオオミカミが移されたものだ。よって、今でもその地方神は「国津神」として、アマテラスオオミカミと並ぶかたちで祀られている。地域の部族の神々は、律令制度の中で序列化され、祭祀も統一化され、神祇官という官僚を頂点とする中央政府のピラミッドの中に位置づけられるようになった。これがいわゆる「八百万の神」の実際のところである。

これまで恒久的な建築物が特になかった民族宗教に国の指令により、仏教の影響を受けたとみられるし「神社」が造営され始められるのもこの頃。そもそも日本の民族宗教には長い間、建築物はなかった。山や巨岩、時として榊をめぐらしただけの平場で祭祀は行われてきた。したがって日本書紀や続日本書紀などを探っても神社建立の記載は見受けられない。各社殿の謂れをそのまま鵜呑みにしなければ、律令制度以降に造営されてきたとみなすのが自然である。(伊勢神宮の式年遷宮も最初の記録は7世紀のものである)
そして、これらの神社をいわば行政と宗教の拠点の2つの機能を兼ね備えたものとして、ヤマト王権は次々と地方にも展開していこうとした。

つまり狙いは以下のとおりである。
「神道」の虚像と実像 (講談社現代新書)

(a)日本に固有の宗教施設である神社を媒介とした、国家による宇宙観・世界観(コスモロジー)の独占
(b)それに基づく日本国民の国家・天皇への直結と観念的な一元論
(『神道の虚像と実像』井上寛司)

この引用は、実はヤマト王権のことを説明しているのではない。明治維新後の国家神道について説明したものである。ヤマト王権の宗教独占と国家統一は、明治維新後の王政復古の大号令以降のしばらくの歴史と全くそのまま重ね合わすことができる
なぜなら明治維新の原動力が、このヤマト王権の短い期間の天皇親政の時代をあからさまに模倣しようとした国学であったからである。

 

つづく

コメント

  1. 春田の蛙 より:

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    コメント欄に失礼致します。凪論様との議論を拝見いたしまして、ちょっと思うことがあり自掲示板でやり取りの一部を扱わせて頂きました。
    http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/5753/1345555742/324n-
    あと、私はtwitterのアカウントを持っておりませんので、ご発言についてこちらで異論を述べさせて頂くことをお許し下さい。
    「本当に使える正確な情報はたいがいネットにはない」とのことですが、もちろん「ググるなどということは物を調べた内には入らない」との大意には強く同意致します。
    ですが凪論様の主張する浅薄な歴史観への反証程度なら、数分の検索で容易に見つけられるのもまた事実です。
    http://twitter.com/patriot_japan/status/421672037522751488
    たとえばこちらの主張↑に対してなら、以下を示すだけで事足りるように思うのですが……
    http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/3431/1/KJ00005242152.pdf
    あと個人的には、国家神道を説明するのにヤマト王権にまで遡る必要があるかには疑問を感じます。印象として類似性は見られても、実際にその当初の原動力となった後期の国学は、史実に基づくというよりもっと誇大妄想的な過激思想です。
    その修正には当時の浄土真宗が大きな役割を果たしますが、これにしても(清義明様は吉本隆明らの説から「生き神様信仰」を説明しておられますけれども)、もっと直接かつ具体的には浄土真宗の人神信仰が強く影響した形跡が見受けられます。
    http://homepage3.nifty.com/kondan/sub28.html
    >裏返していえば、新潟県(同県は真宗西派地域)では法主の権威はそれだけ絶大なものであった(中略)このときの巡幸の途上、新潟県において日の丸が全く掲揚されなかったのも、人々が法主を迎えるようにして天皇を迎えたと考えれば納得がいく

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