「演歌」というイデオロギー : 『創られた「日本の心」神話 -演歌をめぐる戦後大衆音楽史』


創られた「日本の心」神話~「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史~ 光文社新書

 

伝統は捏造される

 

創られた伝統 (文化人類学叢書)

『創られた「日本の心」神話』という本書のタイトルですぐにエリック・ホブズボウムの『創られた伝統』の日本における音楽版であろうことがわかる。その『創られた伝統』は、「伝統」と言われるものの多くが、後世になって人工的に創られたものであると欧州とその他の世界における実例を様々にあげ、それがナショナリズムの構築のためのイデオロギーと強く関係があることを解き明かした書である。

これは日本においても例外ではない。

特に、明治期の天皇崇拝と神道に関する「伝統」のねつ造ぶりは、まさにここまで行けば天晴という他ない類のものだ。それを最初自分は坂口安吾から学び、そして様々な神道の現代的な史学研究から学んだ。

捏造の告発は、外国からの視点が特に峻烈だ。例えば、明治6年から三十年以上日本に滞在し、俳句や古事記を世界に紹介した東京帝国大学の名誉教授のバジル・ホール・チェンバレンは、以下のように記している。すこし長いが引用しよう。

 

「天皇崇拝および日本崇拝(忠君愛国教)は、その日本の新しき宗教であって、もちろん自発的に発生した現象ではない。」

「二十世紀の忠君愛国という日本の宗教は、まったく新たなものである。なぜならば、この宗教においては、古来の思想はふるいにかけられて選り分けられ、変更され、新たに調合されて、新しき効用に向けられ、重力の中心を新たにしたからである。これは新しいばかりか、まだ完成していない」

日本事物誌 1 (東洋文庫)
「神道は原始的な自然崇拝であり、すでに世の信仰を失っていたが、食器棚から取り出されて、塵を払われることになった。なるほど一般の人民はなおも仏教に対して愛情を抱いていたし、一般の祭礼も仏式であり、死者を葬るところも仏寺であった。しかし支配階級はこのすべてを変えようとした。天皇は太陽女神の直系の子孫であり、彼自身は地上の生き神(現神 あきつかみ)であって、自分の臣民に対して絶対的な忠誠を当然に要求できるものである、という神道の教義を主張した」

「神話と古代史と称するものが同一の書物に記載され、どちらにも同じようにありうるべからざる奇蹟が麗々しくでている。年代記は明白に虚偽である。古代の天皇の口から出たという勅語は、中国の古典から抜粋した寄せ集めである。」

「日本国民は、その支配者の超自然的美徳にあやかるところがあって、『武士道』と称して、劣等の国々には知られていない高尚なる騎士道によって特に秀でていると主張している。
官僚階級があらん限りの力を用いて組み立てようとしている思想の構造は、以上のごとくものである。官憲の行使の結果は、歴史的真理に固執しようとするものに対しては刑罰を加えるまでに至っている」

『日本事物誌』バジル・ホール・チェンバレン

 

 

天皇のページェント―近代日本の歴史民族誌から (NHKブックス)そして、実際に日本が明治期に、まだ天皇の存在すら知らなかった民衆に、天皇崇拝と神道を広めようとしたかを明らかにしたの書には『天皇のページェント―近代日本の歴史民族誌から 』(T・フジタニ)がある。その時、無学であり、神仏習合して素朴で現世利益的な宗教心しか持ち合わせていなかった人々に、神聖な支配者を印象づけて、その人心を収攬するための様々な仕掛けがあった。例えば、天皇の行幸。明治の最初期、天皇は地方の各所に壮麗な場所を仕立てて、三種の神器を携えて行幸し続けた。外国製の絢爛たる馬車を何台も連ねて、金色に輝く鳳凰とその真ん中に燦然と輝く菊花の紋。その場所の御台の深紅のカーテンの向こうには天皇がいる。その模様は色鮮やかな錦絵に描かれて、またさらに人々に広まっていく。この時代の天皇崇拝のイデオロギーを広めていくための仕掛けは様々なものがあった。

そもそも西洋式の場所を仕立てて地方に行幸などというものすら、天皇や神道の歴史からは断絶している。だが、こうして日本の伝統が、ひとつねつ造され、そして、その天皇制が明治という国民国家のための重要な装置となっていくわけだ。

そうして、その天皇崇拝の根拠となるのが神道であるのだが、そもそも神道は日本列島の各所にあった漠然とした自然崇拝と祖先崇拝が元型で、だから教義もなければ、開祖もないし、宗祖も教義も救済すらない。神殿すらなかったから、今ある神道の祭司の痕跡は巨石や山といった自然物の中にしか残っていない。いわゆる神殿というようなものは、仏教が入ってきたから、その絢爛豪華な仏式の建築の影響を受けて創られたものである。教義のようなものは確かに平安朝にまとめられるが、これも仏教の影響が強く、そうして神と仏は仲良く同居して祀られることになったりする。日本で最多の神社は八幡神社だが、これも仏教の影響を受けた中国の神様である。それどころか、歴代天皇は仏教徒であり、明治になるまで天皇は仏寺に葬られていた。明治政府が維新後に最初に行ったことのひとつが廃仏毀釈である。こうして、これらのことはなかったこととされた。

明治になって、神道は江戸幕府に対する対抗原理として担ぎ出されることになったが、その教義にはあからさまに朱子学が顔を出している。後の明治政府や昭和の軍部によって創られた教育勅語のような一種の教義は、ほとんどそのまま朱子学である。教育勅語は天皇の名のもとに「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ」とあるが、日本書紀や古事記から日本史を少しでも知るものならば、歴代天皇家は親兄弟親族一同でいつも策謀を図り権力闘争し、時に裏切り、追放し、殺しあいをしてきたことはすぐにわかる。こういうのは枚挙にいとまがない。

伝統というのもが、いかにナショナリズムと関係があり、そして時にはねつ造してまで、それを作り出すかということは、江戸しぐさを例にして書いてみたことがある。国家そのものではなくとも、文化的にその影響下にあるものを統合する力学に押し流されて、文化すらもねつ造される時がある。特に時間軸を安易に持ち出し、あたかもそれが自明の「伝統」として語られるとき、それは注意が必要である。

 

 「日本の心」という「神話」(イデオロギー)を捏造したのは誰だったのか

 

前置きが長くなったが、本題の『創られた「日本の心」神話~「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史~ 』について。

先に同書で引用されている作家の小林信彦の疑問をあげておく。

「<演歌は日本人の魂の叫び>といった文章を読むたびに、ぼくは心の中で笑っていた。笑うと同時に、いったい、いつからこういった言葉が通用するようになったか、いや、いつ発生したのかと疑問に思っていた。」

「昭和三十年前後に登場した三橋美智也は民謡調の歌謡曲、三波春夫は浪曲調歌謡曲であり、その時点では誰も演歌とは呼ばない。こう見てくると<演歌>そのものが見当たらない。1960年代のどこかで発生したとしか思えない」

 

そのとおり、本書でも「演歌(艶歌)」の「誕生」は1960年代後半と結論付けているのだが、その文化ナショナリズム的な「演歌」の成り立ちに至るさまが、こちらの想像を全く裏切る展開だったからこれがまた面白い。

では、その「日本の心」という「神話」(イデオロギー)を捏造したのは誰だったのか。これが意外な結論となる。

以下、箇条書きにて。

 

・「日本人のこころグッと染み入る名曲ばかりじゃないですか(略) 日本人は今原典に帰ろうとしているんじゃないですか」(みのもんたの『走れ歌謡曲 演歌スペシャルの推薦文』)

・「アメリカにはアメリカの歌、ジャズがあり、フランスにはフランスの国から生まれたシャンソンがあるように、日本にはニッポンの歌があるはずだ。それが艶歌だと思う」(北島三郎)

・・・・このように何の疑問もなく広く流通している「演歌」の概念

・「われわれ日本人」が失ってしまったがゆえに受け継ぐべき、また取り戻すべき対象としての日本人の心である「演歌」・・・このような言説のもとに、演歌は遥か昔から脈々と受け継がれる「日本の心」として称賛されている。

・だが本当にそうなのか

ジャズ&モア 美空ひばり ・例えば演歌の女王とされている美空ひばりは、そもそもは西洋音楽を模倣するキワモノ歌手として扱われていたし、ジャズやポップス風味の音楽をずっと歌ってきたのだが、途中から転換し現在に至っているのが本当のところ。これは多くの演歌歌手とされている大物に多かれ少なかれ共通する。

・だから、演歌の女王という括りで美空ひばりをまとめようとすると、ブギやジャズの歌い手だったり、コマーシャルな明るいポップスを歌っていた美空ひばりは押しやられてしまう。

・昭和前期に、はじめてレコードが流通するようになった。ここから出てきたヒット曲(・・・というか、そのヒットという概念すらもレコードともに出てきた)の多くは、当時のアメリカの「ジャズソング」の日本語版

・現在、演歌の巨匠とみなされている古賀政男のこの時代の一連の楽曲も「ラテン風」とか「南欧風」とみられていた。古賀はマンドリンクラブの出身で、クラッシックギターを弾いていたが、それも西洋芸術の流れであり、当然、その曲はモダンと評価されていた。

・その古賀とコンビを組んでヒットをいつくも飛ばしていた藤山一郎も慶応出身のモダンボーイで歌唱は西洋の声楽技術に基づいている。

・藤山一郎と並び称されることも多い東海林太郎も、藤山と同じく、日本調といわれる股旅ものの曲を西洋の声楽のスタイルで歌っていた。

・ただ、その中でも確かにこの時代のレコード歌謡は、後の「演歌」の特徴を備えている。つまり、七五調の詞形、股旅ものや恋愛ものといった主題、ヨナ抜き五音階(日本古来の旋律)、フルバンドによる演奏、作詞作曲がレコード会社の専属歌手制度をもとに決められていることなど

・またヨナ抜き音階が、日本古来の民族的な音階と言われることもある。確かに昭和30年代までにそれは主要なレコード歌謡の旋律となるが、そもそもはこの音階も近代意識のもとに和洋折衷方式で大正時代につくられた音階である。(これに過剰な文化ナショナリズムを見出す論調が最近多いのだが、これもかなり眉唾・・・)

・もともと戦前から戦後にかけてのレコード歌謡は、雑種雑多であり、様々な流行りものをすべて貪欲に呑みこんだものだったから、例えヨナ抜き音階のようなものがあったとしても、それが歴史の連続性がある音楽とは言いにくい。

・よくある説に「演歌」は、明治時代の自由民権運動の政治的な小唄である「演説歌」から来たというのがあるが、この時代の「演歌」と後のそれとは明らかに断絶している。これらの歌い手が堕落してギターの流しになった説もあるが・・・。

 

ちなみに、その演説歌とはこんなもの

 

・そのレコード歌謡が昭和30年代まで「日本調」としていたのは、芸者歌手がうたっていた三味線片手に歌ういわゆる「邦楽」のことで、あって、そこには暗い演歌のエッセンスはほとんどない。むしろ明るいものだった。歌唱法も全く違う。

 

 

 

・昭和30年代から、ムード歌謡とも言うべき『有楽町で逢いましょう』のような都会の生活を歌った流行歌があったが、これはアメリカのジャズボーカルの翻案であった。

 

 

・これに対して、今では演歌の大御所となっている船村徹は、芸者の日本調やジャズの翻案の都会調とも違う、いわば上京した青年を歌うような田舎調というような曲をつくりあげるが、これも当時は「演歌」とはされていなかった。

 

・都はるみの「こぶし」は、実は「ポップスの女王」として1960年代前半に君臨していた弘田三枝子の模倣から始まった。浪曲に由来するものではない。

 

 

では、「演歌」はどこからやってきたのか。

 

・60年代頃、街中の盛り場を渡り歩く流しの歌い手に対して艶歌師という言葉が使われていた。

・酔客のリクエストに応じて流しの艶歌師が唄う歌が「演歌」と呼ばれていた。これは歌のジャンルを指すのではない。

・一方で、その時代にグループサウンドやシンガーソングライターやフリーの作曲家や作詞家などが出てきた60年代、これまでのレコード歌謡は、その専属歌手制度なども含めて、古いものとしてみなされるようになった。

・そこで、それらのグループサウンドやシンガーソングライターやフリーの作曲家や作詞家などが出てきた時代に、昔からあったそれらのものをひっくるめて、ネガティブな意味でひとつの呼び名が与えられた。それが「演歌」といえる。

・ようするに呑み屋にやってくる流しが歌う時代遅れの「流行歌」を、艶歌師が歌うゆえにジャンルを問わずひっくるめて「演歌」と総称したわけである

・ところが、そこに積極的な意味を与えた人達がいる。それは、アウトローや場末を文化価値として積極的に称揚していた60年代以降の左派系の文化人である。

・彼らは、明るく健康的な生活を目指すとともに、革命路線を捨てた日本共産党と対立していたし、外来のポップミュージックは資本主義的なものであったので、両方を受け入れずに、場末文化にむしろ大衆の意識があると理念的に共鳴していった。

・左翼のエリート(日本共産党)が、克服することを目指した土着性や民族性や情念といったものを、むしろ民衆の文化として尊ぶイデオロギー的な傾向が強く、これが場末の歌に親近感を得た。

・1963年の寺山修司は、歌謡とは「孤絶したアウトローが一人で歌うもの」と定義した。さらに寺山の芸術のモチーフのひとつである、都会と田舎(北国)という対比もつかわれた。これが演歌の田舎志向や北方志向と近い。

・新左翼の論客のひとりである森秀人は、さらに歌謡に対する評論に、新左翼的マルクス主義の疎外論を重ね合わせたり、当時の流行だった性的な疎外論やフェミニズム的な性の解放論を持ち出している。

・そうすると、大衆芸術としての歌謡とは、アウトローであったり、水商売の女だったり、股旅ヤクザであったり、民衆の底辺の存在が担うものという理論が出てくる。そこに、場末の流しの姿と、そこで歌われた歌曲がポジティブに語られるようになる。

完本 美空ひばり (ちくま文庫) ・1965年の竹中労の美空ひばり論  は、その意味で画期的であった。美空ひばりを「民族の伝統を守ってきた庶民大衆のこころを開かせる存在」と定義した。これは前述したとおり、もともとジャズやブギの歌い手であった美空ひばりの過去と断絶している。

・竹中にとって、上から見下ろしたような民衆観(日本共産党やソ連などの規制左翼への批判と重ねている)に対抗する存在が美空ひばりに代表される歌曲であったのである。

・「音楽は民族性を得ることによって、はじめて国際的になる」という竹中の理論は、民族性を得ることによって国際的になりうるという、新左翼的な価値観と同じものであった。この当時の新左翼は、ソ連や日本共産党と訣別して、愚直に「世界革命」を民衆と共に目指すという路線であった。

・革命と民族主義は、かつて相いれないものだったし、民族主義はむしろ共産主義の苦手とする分野だった。だが、新左翼は世界の民族主義運動との連帯を目指していた。パレスチナのアラブ民族主義との連帯が代表例。

・こうして、竹中による民族性と歌謡をつなげるトリックが完成する。

・抑圧された民族の芸術という定義は、そもそもこの時代にジャズに適用されていたものだ。だから、ジャズと演歌がここでつながる。「日本人の民族のこころである演歌を歌う美空ひばり」という伝説は、このような竹中の左翼的な問題意識によってはじめてつくりあげられたといえる。

・この理論を、世の中に大きく広めたのは、もともと音楽業界出身だった小説家の五木寛之。

艶歌 【五木寛之ノベリスク】 さらばモスクワ愚連隊 ・五木のデビュー作『さらばモスクワ愚連隊』に、『艶歌 』という作品がある。ここに、今の「演歌」のパブリックイメージがほとんどそろっている。そして、この理論的な枠組みは明らかに竹中労のもの。

・日本の流行歌など乞食節だと蔑んでいたインテリ青年が音楽業界に入り、その中で経験した挫折を通じて、その古い音楽業界とレコード歌謡の世界に、それこそ浪花節的な共鳴をしていく小説で、新しく流入してきた西洋的な価値観から疎外されたものが、古くからある貧乏くさいアウトロー、つまり演歌に共鳴していく。

・マーケティングによって新しい価値観を提示するものに対して、古くからある萎びれたシステムによって情念的につくられていく楽曲。それは昔からあったが、今では滅びようとしている。それがこの小説における「演歌」である。

・「知性」や「教養」ではなく、土着的で民衆的なもの・・・そういう演歌の定義がこの小説で行われる。もちろん、これは観念的なものであるのはこれまでまとめたとおり。

・社会から糾弾される流行歌=演歌について、次のように小説の登場人物が評する。

「押さえつけられ、差別され、踏みつけられている人間が、その重さを歯を食いしばって全身ではねのけようとする唸り声みいたな感じです。大組織の組合にも属さない、宗教も持たない、仲間の連帯も見いだせない人間が、そんな、ばらばらで独りぼっちで生きている人間が、あの歌を必要としてるんだ。そりゃあ西洋音楽から見れば、妙なものでしょう。歌詞だって上品じゃない。だけど、あれには何かがあるんだ。ぼくはあの手の歌は嫌いです。嫌いだけど、あそこには何かがあるんだ」(歌における唸り声自体は昭和30年代にはじめて出てきたもので、別に日本的でもなんでもないことは、都はるみの証言を上述したとおり)

・暗さや感傷性に主眼をおいて、日本的な歌曲とした理解は、ここから出てきたのであって、これがいわば「演歌」の定義となった。

・挫折・阻害・地方。それにこれがこのままロマンチックかつ情念的に「演歌」に託された。そもそもは俗悪なものとみなされていた流行歌が日本的な「演歌」とされ、ここで積極的な意味を持つようになる。特に、重要なのは自分自身も音楽業界に足をおいていていた、大人気作家である五木寛之がこれをまとめあげたこと。

・演歌の中の主人公は、いわば下層プロレタリアートで、社会からも性からも疎外され孤独に陥ったものであり、楽曲はその悲しみである・・・これは、この「演歌」の観念をつくりあげた平岡や五木などがジャズに同じ理解をしていたことからもわかる。彼らにとって日本のジャズが「演歌」だったわけである。

・しかし、これが文化的なねつ造であることはこれまで演歌が西洋の音楽のごった煮からつくられたものだということからわかるとおり。

 

 

藤圭子と「演歌」の誕生

 

この「疎外された孤独な人間の唸り」という言説は、暗くジメジメした情念を、性や地方性や場末の呑み屋に仮託して歌い上げる、典型的な演歌の観念連合をつくりあげた。そして、歴史を遡行して、いわば捏造された演歌像が出きあがった。

この竹中と政治的に親交を重ねていた作詞家の川内康範も演歌のイデオロギー形成に力を貸した。彼は政治的には右派の民族主義者でもあるが、南洋の日本兵遺骨収集で竹中と協力した後、民族性と歌謡を結びつける竹中の理念に共鳴し1967年に2人で『大日本演歌党』というイベントを行っている。以下、1971年の平凡パンチの川内のエッセイから。

「演歌は日本人の民族質にもっとも適応していると考える。でなければ、これだけ長い歳月、大衆に親しまれ、支持されるわけがないからである。」
「一般にポピュラーソングといわれる欧米流のリズムにのって調子よく唄うというわけにはいかない」
「演歌は日本のポピュラーである。ジャズ歌手あがりの者が艶歌をこなせないのは、すでにしてその市場を理解したり血肉に同化させえないからである」

この認識がいかにデタラメかということは、これまで述べたとおり。民権運動の演説歌から昭和のレコード歌謡、戦後に百花繚乱した様々な歌謡が、西洋音楽に強い影響を受けてきて、しかもそれはサラダボウルのように雑多なブリコラージュであること。演歌歌手でジャズ歌手あがりは多数いて、その中には川内自身が詞を提供した、松尾和子や青江三奈、森進一もいること。水原弘にいたってはロカビリー歌手であったことも、本書では指摘されている。

このイデオロギーは、演歌の曲そのものを規定するだけではなく、音楽業界の立ち位置までもを規定した。五木の『艶歌』を本書の筆者がここについて要約するところによると、すなわち、

1.演歌はレコード歌謡黎明期の昭和初期から連続するもので、それは衰退しつつある。
2.演歌は退廃的な歌であって、勇壮な軍国歌謡や明朗快活な『リンゴの唄』のようなものとは別の存在。
3.演歌は「やくざっぽい」人物によって、長年のカンによって制作され、西洋音楽の価値体系とは相いれない。
4.演歌はマーケティングや派手なプロモーションにたよらずに売れるべきもの

だが実際のところ、昭和初期から連続するのは演歌とは別の西洋音楽を雑多に取り入れてアマルガムとなった楽曲群であることはこれまで記したとおり。またそれらの歌曲が、純然たるレコード会社の貪欲なマーケティングで生み出てきたことも明らかであり、それらはレコード会社や芸能プロダクションの冷静な収支勘定によって作り出されたものである。

しかし、これらの演歌像は、その後の「演歌」の概念を観念的に規定し、その影響下で、その概念に沿ったマーケティングが行われるようになる。

例えば、1969年にデビューした藤圭子の例。

旅芸人の娘として生まれ、極貧の旅回りの中で育った中卒の女が、ネオンきらめく新宿の場末で、己の不幸と孤独な性をハスキーヴォイス歌う。女のアウトローの悲哀を歌う『新宿の女』を、藤は新宿のネオン街でマネージャーと2人で流しでプロモーションしてまわった。それは五木寛之の演歌の概念を規定した『艶歌』の登場人物そのものだった。藤圭子は「生きていることの悲しみを心の底にたたえた」「小柄で平凡な少女」であった。

五木は己の小説の登場人物のような、演歌の観念を体現するこの新人歌手を絶賛した。当時の人気作家で『艶歌』の作者である五木の絶賛は、話題を呼び藤圭子をスターダムに押し上げた。

 

 

ところが、後日、この藤とともに呑み屋の流しで宣伝していたというマネージャーは、藤圭子は五木寛之の『艶歌』をモデルにしてつくりあげたキャラクターと告白している。実際は、この演歌のイデオロギー的な理念に沿ってマーケティングされた存在が藤圭子だったわけである。

藤圭子のデビューの翌年の1970年、現代用語の基礎知識に『演歌』の項目が「新語」として記載された。このへんが小林信彦が「いつからこの言葉が発生したのか」という疑問には一応の回答となる。

 

 「演歌」というイデオロギーと「ルンペン・プロレタリアート」

 

ここから本書を敷衍して考えてみる。なぜこの時代「演歌」というイデオロギーが必要だったのか。

当時の左翼の動向は敗北に終わった60年安保闘争に続いて、70年安保闘争を巡る戦いとなっていた。街頭にはヘルメットとゲバ棒で武装した学生があふれ、藤圭子が歌った新宿は、火炎瓶と礫が飛び交った。しかし、それは大衆の支持を得られることなく、1969年の総選挙では自民党が勝ち、安保に反対した社会党が惨敗した。この頃から新左翼勢力は崩壊を始めた。

行き場を失った彼らの革命理論は、やがて世界の民族運動と結びつく。もともとの左翼運動はインターナショナリズムから、民族主義を強く否定する立場にあったが、ブルジョア民族主義と窮乏し、体制と戦う民族主義とは連帯するという立場だった。世界革命を目指すという名のもとに、新左翼が「国際根拠地論」を唱えてパレスチナのアラブ民族主義と結託したのはこの頃。

一方で新左翼の一派として、早くからマルクス主義の正統から距離を置いていたアナーキストも、この路線に近づく。

「ルンペン・プロレタリアート」という言葉がある。マルクスの造語である。浮浪者を意味する「ルンペン」という言葉はここから来たのだが、本来マルクスが使っていた意味あいとは少し違う。労働者階級の中でも自堕落で反社会的ともいえる職業につき、工場労働者のように組織されず、場末にたむろし、時にはいかがわしい商売についているような政治的意識が希薄な人々のことを指す。ルンペンとは「ポロ切れ」という意味のドイツ語。「ゴロツキ」というぐらいの意味らしい。マルクスは言う。「ルンペン・プロレタリア階級、旧社会の最下層から出てくる消極的なこの腐敗物は、プロレタリア革命によって時には運動に投げ込まれるが、その全生活状況から見れば、反動的策謀によろこんで買収されがちである」

マルクスは彼らを通常の労働者と違う存在として考えた。というよりも、マルクスの階級闘争理論に彼らは当てはまらなかったのだ。そしてその人間たちが革命にとって如何に役に立たないとし、「クズ、ゴミ、残り物」と口を極めて罵っている。そして、1848年の二月革命のあと、ルイ=ナポレオンの帝政が始まったとき、時代の潮流に逆行するような反近代的な皇帝の誕生を、農民とルンペン・プロレタリアートに支えられたものと分析している。

ここで、このルンペン・プロレタリアートをマルクスがどのように素描していたか、見てみよう。
ルイ・ボナパルトのブリュメール18日―初版 (平凡社ライブラリー)

「いかがわしい生計手段をもつ、いかがしい素性の落ちぶれた貴族の放蕩児と並んで、身を持ち崩した冒険的なブルジョアジーの息子とと並んで、浮浪者、除隊した兵士、出獄した懲役囚、脱走したガレー船奴隷、詐欺師、ペテン師、ラッツァローニ(失業者)、すり、手品師、賭博師、ポン引き、売春宿経営者、荷物運搬人、日雇い労働者、手回しオルガン弾き、くず屋、刃物研ぎ師、鋳掛屋、乞食、要するにはっきりしない、混乱した、放り出された大衆、つまりフランス人がボエーム(ボヘミアン)と呼ぶ大衆がいた。」

『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(カール・マルクス)

竹中労が、既成左翼を「上から見下ろしたような民衆観」と批判したのは、まさしくこのことであった。

かつて日本共産党の先鋭的な活動家だった竹中は、「階級なんて大雑把な共通項で人民をひっくくっちゃう論理」と、戦後民主主義の中の議会主義で健全路線に転じた党を見限り、新左翼運動に転じる。そこでは、マルクス主義を懸命に彼らなりに乗り越えようとしていた人々がいた。

マルクスのもうひとつの正統とされたトロッキーはかつて民族主義を批判した。ところがトロッキストから派生した新左翼はインターナショナリズムと民族主義をいともたやすく接続した。そして、これまでマルクス主義者からすれば退廃文化とされたものに、むしろ彼らは身を寄せた。

日本侠客伝 [DVD] 学生運動の活動家は、ボヘミアンの典型でルンペン・プロレタリアートそのものであるヤクザ映画に心を寄せ、高倉健の古き良き任侠道にロマンチックな古くて新しい反近代主義を見出した。

日本での民衆の離反と党派闘争の激化に行き場を失ったものたちは、敗北を認めることなく世界革命の名のもとに砂漠の国に「転進」していった。「武装蜂起」に行き詰ったものたちは「われわれは『あしたのジョー』である」と、コミックの主人公の名前を言い残して日本を離れた。

マルクスが役に立たないボエーム(ボヘミアン)としたルンペン・プロレタリアート。高倉健の『日本侠客伝』のヤクザも、山谷のドヤ街の孤児出身のボクサーの矢吹丈も、典型的なそれだ。

マルクスと最初は行動をともにし、その思想に強い影響を受けながらも、労働者階級による独裁を、人民の名を騙った共産主義による独裁に過ぎないと批判したパクーニンは、後の共産主義の限界を早くから示していたが、またルンペン・プロレタリアートとマルクスに侮蔑的にレッテルを貼られた人々の可能性を逆に評価し、むしろ革命の先導となるべき存在と考えた。彼にとって革命は、下から上にむけて行われるものであったから当然でもある。

新装版・黒旗水滸伝-大正地獄編-第2巻 バクーニンの影響を受けた竹中労の民衆観からすれば、社会主義革命は「水滸伝」のようなものであった。または、高倉健の映画の主人公のように、近代的なヤクザに対して、古くからの任侠を守る一匹狼が共闘して戦うものでもあった。そこでは党派や組織といった集団に属さない弱者の孤立無援の闘争が革命の本質であった。

竹中ならば、「ひとり酒場で呑む酒は、別れ涙の味がする」(『悲しい酒』 美空ひばり) と場末の呑み屋の客の女も孤立無援の闘争のひとつだったし、「お酒はぬるめの燗がいい 肴は炙った烏賊でいい」(『舟唄』 八代亜紀) と女を思い呑んだくれる港の漁師も、性的に疎外されたものとして連帯すべき同志に迎え入れるだろう。

新宿の「ネオン暮らしの蝶々」(『新宿の女』 藤圭子) はもちろん、演歌の定番である股旅ものの居場所を追われて放浪するヤクザたちや旅芸者、大阪のやぶれ長屋に住む字すら読むことができない無法者の将棋棋士(『王将』 村田英雄) たちをなんのためらいもなくルンペン・プロレタリアートの隊列に加えていくだろう。そのとき、マルクスが罵る酒場の手回しオルガン弾きを、地方都市の盛り場の流しのギター弾きに重ね合わせられている。

孤立無援の闘争をする弱者のための芸能というイデオロギーが「演歌」として創造されたのである。

昭和30年代までの「進歩派」的な思想の枠組みでは否定され克服されるべきものだった「アウトロー」や「貧しさ」や「不幸」にこそ、日本の庶民的・民衆的な真正性があるという1960年代以降の反体制的思潮を背景に、寺山修司や五木寛之のような文化人が、過去に商品として生産されたレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」といったアウトローとの連続性を見出し、そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのです。

『創られた「日本の心」神話 -演歌をめぐる戦後大衆音楽史』

 

 

マルチチュードを先取りした「窮民革命論」

 

『窮民革命論』がその頃に竹中らによって唱えられ始めた。それは疎外された民衆や民族が、裕福になった労働者の代わりに革命を起こすというひとつの予言である。竹中と、その同士といえる平岡正明は『水滸伝―窮民革命のための序説』(1973)を上述し、疎外された者たちの連帯を訴え、トロッキストの太田竜は『辺境最深部に向かって退却せよ!』と、アイヌや沖縄の民族主義との連帯をアジテートした。

マルクスは本来は近代が頂点に達して、資本主義が世界を席巻し、その臨界点に極限に到達したときに、はじめて世界革命が可能になると考えた。ところが、その途中で共産主義は破たんした。そうして、近代的合理主義の向こうにあるべき革命を志向する左翼は、民族主義や反グローバリズム、環境運動や性的マイノリティ擁護といったものにむかった。

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性 竹中らが唱えた『窮民革命論』は、後に「グローバル時代の新たな主権と資本主義の在り方」としてアントニオ・ネグリとマイケル・ハートが提唱した「マルチチュード」の概念を先取りしているといえる。

労働者階級による革命というものはすでに時代遅れであるという認識のもとに、現在のグローバルな社会の中では、人種や民族であったり、性的であったり、個々人のライフスタイルなども含めて、疎外された人々の連帯こそが新しい民主主義を創りだすとネグリ=ハートは言う。その多種多様な人々の連帯を「マルチチュード」と呼ぶ。ここでは、マルクスがルンペン・プロレタリアートと呼んだ者たちは、むしろ革命の主役となる。

ここで演歌とは、コミュニケーションや家族制度、恋愛という対幻想から排除された人達や、うらぶれて酒場で一人酒を呑む人達の孤独、ヤクザや水商売の女といった最下層のルンペン・プロレタリアートのブルースであり、資本主義から逆行した時代遅れの価値の中で生きる、ネグル=ハートの定義を使うならばマルチチュードのための音楽ということになる。そこでは民族性はむしろ反近代的な価値として退けられるのでなく、多種多様な価値観としてむしろ必要不可欠なものだ。

マーケティングの世界ならば、これをグローバルとローカルを掛け合わせたグローカルという。本書では、竹中の『音楽は民族性を有することによって、はじめて国際性を持ち得る』という言葉と、その竹中が革命直後にキューバに訪問したとき、ひばりの歌を聴かせるといってレコードを持ち込み、それを、なかむらとうようがバカにされるからという理由でやめさせたというエピソードが残っている。これがまさに竹中のグローカリズムである。

このように既存左翼のエリート主義や近代主義に抗うためのひとつの旗印が演歌だったわけである。そのために「日本人の心」というような民族性がフューチャーされ、そして歴史が捏造された。そのフィクションに、むしろ音楽業界と聴き手は積極的に身をゆだねていく。これが60-80年代の演歌の隆盛とそれを支えた言説の正体ということである。

 


 

本書を通読して、真っ先に想起したのは、演歌と同じく被抑圧者の音楽とイデオロギー化されたジャズの巨人のひとり、マイルス・デイビスの次のようなエピソードだ。

MILES―マイルス・デイビス自叙伝ニューヨークのジュリアード音楽院に在籍していた若き日のマイルスは、白人教師が授業でブルースの歴史を解説して、「黒人がブルースを演奏する理由は、貧しくて綿花を積まなければならかったから。その悲しみがブルースの根源となった」といったのに、手をあげて次のように反論した。

「ボクは東セントルイスの出身で、父は歯科医なので金持ちですが、でもボクはブルースを演奏します。父は綿花なんか摘んだことがないし、ボクだって悲しみに目覚めてブルースをやっているわけじゃあありません。そんな簡単な問題じゃないはずです」

『マイルス・デイビス自叙伝』

そして、そんなジュリアードに嫌気がさしたマイルスは、酒とドラッグにまみれたニューヨークのジャズシーンに己の活路を見出していく。

 

 

さて、イデオロギーがつくりあげた「演歌」を、右派の日本会議のメンバーでもある船村徹は右派オピニオン誌の「正論」や産経新聞などが主催する「靖国チャリティーコンサート」で、「演歌巡礼」と称し、演歌こそが日本のこころという。

しかし、もう言うまでもないだろう。

1960年後半に新左翼のイデオロギーにより新しく発明されたもので、それ以前には美空ひばりはジャズを歌っていたし、ムード歌謡は米軍基地で日本人バンドがダンスのために演奏していた曲から始まっていたし、小林旭は無国籍ウエスタン風の「ギターを持った渡り鳥」だった。古賀正男は哀愁のスパニッシュギターの旋律でイントロを始めたし、松尾和子の『お座敷小唄』は当時「国産ラテンリズム」と呼ばれていた。

いわば架空の「日本のこころ」は、いわば演歌ナショナリズムといえるような奇妙な転倒をおこし、むしろ左派ではなく右派ナショナリズムに従属しているかのように視える。

演歌が日本ナショナリズムに親和性が高いかのようにみえるのは、その言説のなかにある「反近代主義」「反西洋主義」が、むしろ民族主義を媒介に共鳴するからだ。もちろん、これは民族主義者とも積極的に連帯を求めた竹中労にとっては、別段不思議なことではないだろう。反グローバリズムを唱えるところ、右派と左派の境界がほとんどなくなってしまうのは、世界的な現象だ。

これについては、また別に書くこともあると思う。

 

 

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