明治という時代こそが修羅だった / 「修羅雪姫 怨み恋歌」 藤田敏八


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修羅雪姫 怨み恋歌(1974)

前作「修羅雪姫」が、明治27年の話で日清戦争が始まる前夜。
本作「怨み恋歌」は、その10数年後の話で、日露戦争の終結後の明治の東京が舞台。
そうすると梶芽衣子の修羅雪さんもすでに三十路過ぎということ。あれから10年も官憲に追われる生活に疲れてしまい、藤田敏八監督らしい設定の砂浜の波に、あの傘に仕込んだ細身の日本刀を自ら捨ててお縄になるのも理解できなくもない。
もう彼女も疲れていたのだ。
恋も家族も知らない修羅の道をただひたすら急いで生きてきたユキは、恋も知らず安堵のひとときもなかったのだから。
そんなユキのほんのりとした恋の話が、また斬撃の連続の中に展開されていくのがこの映画。
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ポイントは、修羅雪姫ミーツ70年代日本近代史物語映画の常連達。
伊丹十三はいつも近代的自我がひょろりと他の枝よりも突き抜けたような役どころだし、吉行和子はちょっとおつむのゆるいけれど、それが性的魅力といわんばかりのダメな女の役どころ。原田芳雄はいつも現実主義者の男の強さと弱さを同時に演じながら、一種独特のけれん味で、決して最後に勝つことがないヒーローとして時代に対峙している。
修羅雪姫の復讐と逃亡の物語が、実は明治という時代の中にすっぽりと包まれていて、それが修羅の根源なのだ、といわんばかりの筋立て。
思えば、もともと自分の父を殺し、母を手籠めにした連中は、明治の徴兵制度のどさくさでサギを働いていたものたち。そのカネを元手になりあがった男は、今度は日清戦争前の軍需産業でひともうけしようとしていて、だから政府も彼には手を出せない。
本作、日露戦争の終了直前にて、そんな時代に落ちこぼれた貧民窟の貧乏人と天下の政治にかみついている「主義者」(つまり左翼)に、いつのまにかこころを寄せてしまうユキ。
ここには、修羅を重ねてたくましく生きるものたちが集まっていたからだ。
日本海とおぼしき砂浜は、きっと新潟は新発田。なぜならば、そこは大杉栄の出生の地。
日本近代自我の象徴ともいうべき性的にも放埓だったアナーキストをモデルとした役どころを、伊丹十三は手堅く演じている。
近代的自我のマゾヒズムは、弟から寝とった女の足をなめるのだが、これがまた何か典型的な設定を感じる。もちろんこういうエロチシズムには吉行和子はお手の物。
それに対して、現実原則のニヒリストである原田芳雄は、731部隊を思わせる手段でペストに犯された彼の兄が成し遂げようとした政府汚職の弾劾を、彼らしい考え方で成就させようとする。
ここで、修羅雪姫と明治のアナーキストと貧民窟の兵隊帰りのチンピラとは、ひとつの目的に知らず知らずに結ばれている。
ラストシーン、無残に死んだものたちからカメラが引いていくと、日本国歌がクロスして覆いかぶさるように映し出される。大島渚か寺山修司かのようなわかりやすさだが、なんとなくこれはわかりやすい。
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前作に続き、梶芽衣子の魅力がさく裂するこの作品。反体制的闘士と時代にぶつかるワイルドの生き様の筋立ては、小池一夫ワールド全開だが、本作はどこまで原作と関連性があるのかは不明。
正伝「修羅雪姫」に続く、第二部「修羅雪姫―復活之章」は、この映画の前年に週刊プレイボーイで連載されているが、筋立てとは関係ないものではないかと想像。
今回は雪は降らずに純白に鮮血のコントラストや黄色のワンポイントが踊るあでやかなビジュアル設計はないものの、またいろいろ凝った撮影や美しいシーンをそれなりに観せて頂きました。
冒荒れ果てた自分を育ててくれた寺の坂を下りながらの、映画冒頭の長回しでの殺陣シーンといい、まあ梶芽衣子はやはりすごいですねえ。

池袋新文芸坐の梶芽衣子特集「野良猫vs修羅雪姫」にて。

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