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『日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学― 』(樋口直人)について

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樋口直人氏の日本型排外主義―在特会・外国人参政権・東アジア地政学―をたいへん興味深く読んだ。

おそらく現在の日本の排外主義者(ネット右翼)の研究分析でもっともよくまとまったものだと思う。

西欧の先行する極右研究を参照しながら、特に現在流通している日本の排外主義者像を数値データを使いながら再検証する。特に、在特会を中心に30名以上の排外主義者のヒアリング(ライフヒストリー分析)から導き出した日本型排外主義者像とその形成要員の分析は、おそらく今後、排外主義者像を語る上でのベーシックなものとなると思われる。

以下、概要をまとめる。

 

【概要】

1.90年代に出現した歴史修正主義がまずは「マスターフレーム」である。

2.ネットへの接触とともに、その右派的マスターフレームに触れて、そこから排外主義フレームへ流れた。

3.そのため、もともとは「外国人問題」に不満やストレスがあったのではなく、嫌韓・嫌北朝鮮・嫌中から排外主義へ流れていった。ようするに彼らの「不満」には根拠がない。

4.なので、例えば『在日特権』にしろ在日コリアンを批判するフレームは、先に嫌韓・嫌北朝鮮・嫌中があって、そこから「発見」(捏造)されたものといえる。

5.つまり国家への対抗意識が、国内の在留外国人に転嫁されて向けられている。(ブルーベイカーの民族問題の三者関係モデル)

6.これを断ち切るには、①マイノリティの祖国(韓国・北朝鮮)に対する敵意と②マイノリティ(在日コリアン)を結び付ける③民族国家(日本)という三者関係を、うまく②と③の二者関係の問題としていくべきである。

7.例えば地方行政で在日外国人問題というのは、比較的進歩的であった。これは国家レベルの話にはならず、対人間という枠組で問題が現れるためである。そのため、問題の解決にあたって国家が参照されてないため、解決が比較的容易だった。

8.ただし、これらの二者関係はサイドストーリーにすぎない。

9.排外主義を生み出した要素は、右派論談の言説がすでに用意していたもので、そこにインターネットという技術要件が加わったにすぎない。そこで生み出された「三者関係」をなんとかしないかぎり繰り返しおこりえる話である。

 

 

まず最初の筆者の主張は、「欲求不満を抱え、下方へ転落し、社会の縁辺にある者が担い手になる」というのが誤りであり、さらにそれを社会病理の範疇で捉えるのは間違いであるということ。在特会の構成員も、桜井誠のように高卒で非正規雇用というような人はむしろ少ない。経済的には、どちらかという「中産階級」が多いとのこと。日本の在特会の調査でも、社会階層の共通点ではなくむしろそもそもあった保守的なイデオロギーの共通点が特長的。安田浩一がネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』で描く「しんどそうな人々」(経済的・精神的においつめられた人)というイメージも無理があるのではないかというところから始まる。

これはナチスの成り立ちもそうだったことを想起させられる。ナチスを支持した人は経済的にも比較的に豊かな自営業者や中産階級であったし、「病的」な人々であったわけでもなかった。

さらに、調査結果にて白眉であるのは、この在特会などの排外主義者が、もともと外国人問題に問題意識があったわけでもないということ。そもそも排外主義活動家は外国人と接点がほとんどなく、あった人間すらもネガティブな印象をうけたものは少ないという。

だから、日本の排外主義は、例えば経済的に競合にコリアンと競合しているというような欧州の移民排斥問題のようなものとも動機が違うし、これと同一視できないというわけだ。

在日コリアンは文化的に高度に同化しているうえ、福祉の競合についても改善の方向にあり、また、欧州によくある労働市場の競合も、在日外国人の中でも飛びぬけて自営比率が高いコリアンは共存できている。政治的にも、民族団体の衰退により影響力が下がっているといえる。

そのため、単に生活レベルで「競合」のうえで発生した排外主義ではないと結論づけることができる。

着目すべきは、その排外に至る過程は、ほとんどすべて韓国や北朝鮮や中国への敵対意識を通過していること。ここから遡及的に排外主義が生み出されたと考えるほうが適切というわけである。

「在日特権」フレームに共鳴するものの特徴は、「韓国人・朝鮮人」が誰を指すのか明確でないことである。「謝罪・賠償」が大きな問題になってきたのは韓国との間であり、北朝鮮とも在日特権とも関係ない。しかし、Mにとって韓国、北朝鮮、在日コリアン、つまるところ「朝鮮民族」は等しく敵であり、それによって歴史修正主義は「在日特権」フレームとスムーズにつながるようになる。

「より多くのものに影響を及ぼしていたのは、「自虐」「反日」という右派運動全体を束ねるマスターフレームの存在であった。「在日特権」フレームは、そうした「自虐」「反日」も下位フレームの一つと考えられる。すなわち、「在日特権」という「経験的信憑性」の低いフレームは、「自虐」「反日」という近隣諸国・在日コリアン・日本の左派という敵手を一体のものとして扱うフレームによって補強される。

ネット右翼が経済的に困窮した人々ではないというのはネット右翼の逆襲–「嫌韓」思想と新保守論(古谷経衡)でも強く否定されていた。いまどきこのような認識はありえないだろうが、在特会および排外主義者へのヒアリングでも重ねて検証されたといってもいいと思う。

ただし、安田がいう「しんどそうな人々」(経済的・精神的においつめられた人)のイメージのうち、精神的に追い詰められた人という傾向に関しては、本書も古谷も必ずしも否定していない。ただし、なんの手続きもなく、ここに病理を見出すのは確かに乱暴な意見といえる。むしろ社会生活に十分に適応しながらも排外主義的な意見を表明する人が増えているのが実情であることを考えるとなおさらである。

このへんを、本書の筆者は、単に家族や恋人に恵まれていない人は、ネットの接触時間が長いのと、実際に排外主義的な行動に陥る前に家族の制御がかかるためにすぎないのではないかと推測している。ただここももう少し見極めが必要な気がする。

というのも、本調査は非常に精緻に出来ているとはいえ、やはり限界はあるためだ。理由は2つある。

この排外主義者分析の根幹は、在特会と排外主義団体の構成員の、聞き取り調査に基づいている。その結果をもって、筆者は、安田の『ネットと愛国』が、「しんどそうな人々」や「家族や恋人がいない人が国家にアイデンティファイする」という「物語」を批判する。

「不満」が最初にあったのではなく、もとからあったフレームが「不満」を遡及的に作り出したのだという意見には自分も賛同する。2002年前後にADSL常時接続とi modeの隆盛から「ネット右翼」が隆盛しだしたのは、別に世の中や境遇に不満をもった人が増えたからではなく、最初に接触したネットにそのようなことが多数書かれていたからだ。

ただ、この本書の主張には、それではなぜその「不満」が排外主義として立ち現れたかの原因には届いていない。そこに単なる右派的「愛国」から排外主義に至るブラックボックスがあるわけだが、その回路は謎のままだ。ブルーベイカーの民族問題の三者関係モデルもそれについては説明になっていない。

それともうひとつは、たぶん本書は「ネット右翼」という存在を「排外主義者」と同一視しているか、あえてそれを無視して捨象しているというところである。

そのため本書の筆者は①排外主義者②右派歴史修正主義者③保守というピラミッドを想定しているようなのだが、たぶん排外主義者と右派歴史修正主義者とのブリッジの存在がある。つまり排外主義的の支持者であるが、実際には現実行動はすることがないクラスターがある。筆者の表現を使えば、排外主義者は小集団なのであり、母数の大きなフリーライダーがいる。つまりこれが『ネット右翼』である。

現実社会では過激な行動をしないが、ネットでは大きな排外主義的な主張をする母体(ネット右翼)があって、そこから動員された少数のものが在特会を始めとした「排外主義者」という見立てをしないと、いろいろなものが漏れ落ちるような気がする。

例えば、2002年のワールドカップがきっかけだった」という安田の発言(自分と木村元彦氏との週刊朝日での対談も含む)を、在特会と排外主義者一派のヒアリングにおいて、その要因が34人中2人しかいなかったというものがある。

全体として安田の問題意識を批判的乗り越えをもくろんだところから始まっており、そのために実証的なデータを重用しているのが本書の良いところではある。

ただ、安田の手法と本書の筆者の手法は、筆者自身が認めているように大きく違う。例えば安田の「サンプル」が末端会員であり、本書のサンプルが大学の研究員のヒアリングに自ら応じてきたものという、抽出方法のバイアスがあるというのは筆者も指摘するところだ。

加えて自分が思うに、ジャーナリスティックなぶら下がりや飲食をともにする方法で取材する安田と、大学の研究員が正式な許可を得るプロセスを経て調査するのとは、あまりにも条件が違いすぎる。文化人類学者と社会学者以上の調査手法の違いはある。そこで生じるのは、いわゆるホーソン実験のような調査員バイアスである。おそらく、サンプルは大学の研究員に対しては、自分が排外主義的な行動に至ったアプリオリな理由は語らないと思う。つまり、それなりに格好をつけるだろうということ。自分のやっていることの重大さを正当化するだけの理由が後から見出されるであろうということ。そしてこうしたケースでよくある話だが、何よりもたぶん自分でも排外主義者になった理由や時期を自己分析できていないはずだ。

さらに、彼らがもともと保守的傾向があったとしても、歴史修正主義者からいきなり排外主義者に行くのはちょっと考えにくい。これは歴史修正主義の火付け役といえる小林よしのりが、ネット右翼(排外主義者は含むが、それだけではない)の排外主義的な傾向を糾弾しているところからもわかるはすだ。ネット右翼と90年代の歴史修正主義者のクラスターはおそらく、あまりにも違いすぎるのだ。

つまり前述のピラミッドは、①排外主義者(活動家)②ネット右翼③歴史修正主義者④保守というピラミッドで理解したほうがよい。

 

 

たぶん排外主義者(の活動家)になるまでに、ネット右翼を確実に経過する。本書ではこの2つが(意識的と思われるが)混同されているので、排外主義フリーライター=ネット右翼の存在があまり言及されていない。

たぶん実際の活動家になるには、単なるネット右翼クラスターにない何かがあるはずで、そこが本書においてはうまく抽出されていない。おそらくこれをわけると、ワールドカップがネット右翼のきっかけだったという要因はかなりの率にのぼると思われる。また、筆者も認めるようにサンプルの抽出にバイアスがかかった可能性が極めて高い。

つまり、安田の質問には、素直にネット右翼クラスターになった理由を答えたのに対して、本書の調査では排外主義者の活動をしだした理由を答えたわけである。

おそらくこのような混同で排外主義者の実像を混乱させているところは多々あると思う。

 

いずれにしても、たいへんよくまとまった分析であり、おそらく今後の日本の排外主義者を考えて行くうえで基礎的な文献のひとつになることは間違いがないと思う。必読である。

 

おそらく嫌韓の風潮が急に止んだりすることはないだろう。本書ではなぜ『嫌韓』になったかという分析も特にない。マスターフレームは最初から出来ていたという。しかしそれではこのフレームを壊すためには材料が足りない。

なお、在日コリアンの権利改善が進み、そして日韓関係は2002年前後にかつてなかったほどに緊密になったのにも関わらず、裏側で嫌韓は膨れ上がった。この謎がまだ残る。

それを解明したないまま、筆者の理論を現実に適用すると、対韓国関係が改まらないかぎり、排外主義はおさまらないという悲観的な結論になってしまう。ブラックボックスの回路について考える必要がやはりある。

→ 【仮説】 ネット右翼の起源 -憎悪のメカニズム