「清」という自分の苗字は珍しいものであるから、たまに同姓の人が出てくると注目する。
最近だとアイドルプロデューサー?の清竜人(きよしりゅうじん)という人を目にした。
なんだかうらやましそうな仕事をしているようだ(笑)
自分の苗字は「清」だが読みは「せい」である。
かたや、初めて知ったこちらの方は、清竜人は、「きよしりゅうじん」と読む。
「清」の苗字は、全国に人口7000人ぐらい。全国の名字順位2089位。
多いのは、静岡県の富士宮市と富士郡芝川町一帯のエリア。
そして、宮崎そして奄美諸島のエリア。
そして徳島県だが、徳島県阿南市に数十世帯がある程度。おもに富士宮と宮崎県と奄美諸島に集中している。
この苗字の読み方だが、宮崎や奄美諸島オリエンテッドだと「きよし」。
静岡の富士宮中心とする出身だと「せい」と読む。
宮崎や奄美とかには一文字姓が多い。サトウキビで名を成した豪農が苗字帯刀を許されたときにつけられたのが一文字姓だったらしい。そしてそのほとんどが訓読み。清(きよし)もそのひとつ。元(はじめ)ちとせ[奄美/鹿児島]、とか、ホンジャマカの恵(めぐみ)俊彰[鹿児島]もこのパターン。
宮崎県だと児湯群新富町に集中している。おそらく奄美諸島となんらかの関係がある地域なのだろう。こちらはよく調べていない。
鹿児島県に「清」(きよし)の苗字が多いのは、ほとんどが奄美と大島である。この地域は確かに訓読みの一文字姓が非常に多い。しかも、なんとなくおめでたい漢字ばかりである。「富」「常」「実」「盛」「泉」「中」「勝」等々。
ただし、宮崎や奄美の清も、ときおり「きよし」ではなく「せい」と名乗っている人もみかける。昔、近鉄にいた清俊彦(せいとしひこ)など。
この苗字は日本に二つの地域に集中しているが、静岡の山間部(岳南エリア)に集中する清(せい)一族とはルーツが全く別と考えられる。富士宮を中心とするエリアとする、清(せい)の発祥は、この苗字が集中する柚野村(現在の富士郡芝川町)の郷土史家 篠原昭二氏が自費でまとめられた「柚野 -郷土の歩みをたどる-」には次のように書かれている。
大内姓は庵原郡大内村(現清水市)が発祥の地といわれるが、芝川大内氏は大宅の一族ともいわれている。大内氏は観応の乱(1351年)の後、「清」と改名し明治になって一部が大内姓に復帰したともいわれる。
こう記したうえで篠原氏は、近くに仏教施設が集中するこのエリアの拠点のひとつである西山本門寺に成良親王が隠遁した形跡があることと結びつけ、大内氏は南朝に加担したことにより、姓を大内から変えて、清原氏風の「清」とし、いわば隠れ住んでいたのではないかと推理している。明治になって戻したのは南朝を正統と認める江戸王統論の影響をうけて、明治政府のもとで南朝が復権したことによるのだろう。
ただし、このへんはあくまでも篠原氏の推測。
芝川大内氏のルーツも不明。篠原氏によると鎌倉幕府によって地頭として派遣されてきた大宅氏の一族とも言われているとのこと。もちろん大内氏は、周防を500年にわたり支配してきた名門でその氏姓が知られるが、こちらとは関連はなさそうだ。
なお、周防の大内氏は名門で知られるが、武家としては珍しく、源・平・藤・橘の出自を語らず、もっぱら百済の聖明王の末裔を名乗ってきた珍しい大名であった。このへんとつながりがあると個人的には面白そうな感じもするのだが、この線は薄いだろう。
いずれにしても、この芝川大内氏に富士宮地区の「清」(せい)のルーツがあることは間違いなさそうだ。
なお、芝川町に清という苗字は、順位でいうと3番目。かなりの多さである。たぶん明治の苗字必称令の時にこぞって農民がこの名前に変えたのだろう。あの頃は地域の共同体の名前である姓と、個別の家系を示す苗字が混同されていたため、そういう風になったのは全国でも同じ。
自分もそのひとつがルーツではないかと思う。
昔日本テレビで放送していた番組の企画で「DASH村」というのがあったが、そこに出演していた清隼一郎(せいじゅんいちろう)氏は、静岡出身でこちらは完全に一族。
苗字の因縁を記した書には、遠州(静岡)の清姓は清原姓から発祥しているとの説を見かけるが、よってこれは間違いとみなして良さそうだ。
清少納言の苗字も「清」であるわけだが、こちらはほとんどペンネームのようなもので、清和源氏から来ている漢風のしゃれた「芸名」であったと思う。なので、こちらも関係はないと言っていいだろう。