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SEALDsに群がるトンチンカンな人達 -奥田愛基自伝を読む

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「ロックに政治を持ち込むな」???

 

今年のFUJI ROCK FESTIVALに、SEALDsという学生団体の人がステージに出るということで、ひと騒動になっているらしい。

どういうことかと言えば、「ロックの世界に政治を持ち込むな」という物言いが多数ついたということ。

これについては、たくさんの方々、とみに当のロック関係者の方々から、それどうなのよ?という反論が来ていて、おおよそこの筋で決着をみると思われます。まあ当たり前ですね。

ロックが政治や思想と切っても切り離せない存在であるというのは、ほんの少しでもその世界を齧ったことがある人ならばわかるものでしょう。

例えば・・・とやるのも野暮なんですが、いくつかだけ。

プラスチック・オノ・バンドの「ハッピークリスマス」が、単なるクリスマスソングだと思っている人がたくさんいる日本だったら仕方がないことかもしれないです。ベトナム戦争の真っただ中で「戦争をやめさせるために立ち上がろう」とアジテーションした歌が、毎年毎年街中に流れている日本はどれだけ反戦左翼の国なのか・・・と錯覚させられるほどです。

ブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・USA」は、なんだかアメリカ万歳!の歌だという風に聴こえている人も多いと思いますが、あれは、ベトナムの帰還兵のことを歌っています。

薄汚れた町に生まれ育ったオレが、ある日、黄色いヤツを殺しに行ってこいと銃を持たされてベトナムへ行った。サイゴンで現地のベトナム人の恋人を持った友人は死んでしまった。それでアメリカに帰ってきたら職にもありつけない。これがアメリカなんだよ・・・当時社会問題になっていたベトナム帰還兵のことですね。

こちらどうぞ

こうあげていくと当然ながらキリがありません。というか、当たり前すぎる話なので書いているほうが恥ずかしくなってくるという(笑)

 

ひとつだけ付け加えると、フジロックフェスティバルの第一回で伝説ともいえるライブを行ったのはRAGE AGAINST THE MACHINEですが、彼らは極めつけの政治的なロックバンドで知られています。

こちらどうぞ

こうしてみると、なんというか日本の英語教育が間違っていたのではないかという情けない結論も導き出されてきたりして(笑) 実質、英語だったらOK、日本語はダメってわけですから。

そのフジロックフェスティバルは、そもそも毎年、反原発やら反差別の団体の出店ブースがあったり、元から「政治的」なわけですよ。いちいち言わずもがなことですが、こうしてロックと政治や思想は表裏一体で、その中には昨年の椎名林檎のようにこれまた議論を呼ぶものもあったわけです。まあアレはご本人は政治的なものでないとおっしゃられて火消しされてましたけれどもね。

 

SEALDsに群がるトンチンカンな人達

さて、おそらく、これが反原発だったり反差別の団体だったら、まあまたいつものアレだよね・・・的に特に指摘されることはなかっただろうと思います。

問題はそのアクター(?)がSEALDsという、安保法制反対で名をあげてメディアに持ち上げられた学生グループだったからというのが大きいのでないのかと思わざるをえないわけです。

ひとつは、ホントにロックは政治抜きで語れると思っていた歌詞抜きでふんふん鼻歌していた「オーディエンス」の方もいらっしゃるでしょう。まあこの人達はとりあえずいいとしましょう。よくないですけど。

さらにもうひとつは、やはり嫉妬めいたものがあるんじゃないですかね。または彼らの政治的な主張に嫌悪する人。

自分も昨年の椎名林檎に関しては、まあ気分はよろしくはないクチなわけです。だから、まだこれは気持ちはわかる。しかし、それならば行かなきゃいいだけじゃねーの?としか言いようがない。それでも嫌だったら、おまえらの主張には賛同できないとブーイングでもしに行けばよい。そのほうがよっぽどロック的じゃないですかね。

このSEALDsというのは、まあなんというか、こういう嫉妬やら生理的な嫌悪みたいなものを一心に集めていて、これがなんともはやある意味壮観なわけです。

そのSEALDsの奥田愛基という人が出した自伝を読んだわけですけど、やっぱりそういう話はあるわけで、呑み屋か何かで隣り合わせたおっさんが、あのSEALDsとかいう連中の言っていることはうんたらかんたらと説教めいた絡まれ方されたらしいんですよ。で、その張本人ですと告げたらびっくりして逃げていった・・・みたいな話とか。

ようは、おっさんども、なんか言ってやりたくて仕方ないわけです。

そうして、この団体のまわりには、本当に多数の連中があーでもないこーでもないとやっている。そして、それがまた的を得た話ならともかく、もうどうにもこうにも適当な話が多いわけですよ。

SEALDsがおすすめする「選書」とかあるわけですが、ちょうど先ほども、それが「新左翼的」とか「ポストモダン」だとか言って批判している人がいたりして、思わずtwitterで突っ込んでしまったわけです。うーん、「新左翼」「ポストモダン」・・・。それでSEALDs批判・・・。

いや、この選書には竹内好とか新左翼の一部に強い影響を与えた人の本とかありますし、著者が元新左翼というだけなら何人かいるわけです。けど、もう明らかに新左翼とは対極にある選書のラインナップなわけですよ。というか、一番上に『丸山眞男セレクション』がある時点でいわば「新左翼おことわり」と宣言しているようなもんなんですよ(笑)

かつても触れましたが、SEALDsの公式見解をつらつらと読んだりすると、もうこれ以上ないくらいに戦後民主主義信奉の優等生すぎるくらいの優等生で、そういう意味では「保守」といえるくらいなわけですよ。

ところが新左翼というのは、その戦後民主主義なんかクソくらえ!というのが基本の「キ」なんです。丸山眞男は新左翼の学生にさんざん小馬鹿にされ、研究室を蹂躙されて、その学生に「こんなことはナチスでもやらなかった」と言って、またこのブルジョアインテリのおっさん邪魔くせ、とやられていたぐらいです。そんな話は以前書いたのでそちらをどうぞ。

また「ポストモダン」というのもなんだかなーと言う話で、確かにデリダ研究者の東浩樹がはいっていたり、フーコーの研究者が入っていたりしますから、まあ見当はずれにしても、ほんのちょっとは当たっているかもしれません。しかしそれにしても・・・。

そもそもこの「ポストモダン」という言葉も日本独自な使い方です。それとほぼ同義に近い使われ方をする「構造主義者」は、1968年のフランスの学生運動(以上のものでしたが)の中で、「構造はデモにこない」などと揶揄され、その反動ともいえなくはないですが、いわゆる日本でもてはやされた「ポストモダン」のヒーローたちは、そのデリダにしてもフーコーにしても「政治転回」していっているわけです。つまり、日本で言うところの「ポストモダン」が価値相対主義とか「軽やかに逃走する」人たちを指しているのと、全く違う方向にいったわけですよね。

かつてポストモダンの日本におけるローカルヒーローであった浅田彰は、ガタリというホンモノのヒーローがやってきた時に、山谷の労働者支援などをやっていた左翼系の人達を「愚鈍な左翼」と呼んで嘲笑していたのをガタリにたしなめられたというちょっとばかり有名なエピソードがあります。確かに彼らは「愚鈍」かもしれないが、なんもやってないアンタよりはまだマシでしょ、という極めてまともな正論でした。いまや、その浅田彰もそのフォロワーだった坂本龍一なども、いまでは「愚鈍な左翼」路線なのは、各種デモやら政治的発言をしているところをみればわかるでしょう。

まあ、面倒くさい話はともかく、様々な色合いがあるかもしれませんが、おおよそ日本で流通している「ポストモダン」という用語は、日本独自な用法で、ほとんど何かを指し示す術語としては体をなしていないということだけお分かりになればよいかと。

話を戻すと、ようするにSEALDsの推薦図書リストから、そういう「新左翼」とか「ポストモダン」というのはほとんど感じられないわけで、むしろやっぱり優等生的な戦後民主主義ですね。これにそういう表現を使うところで、なんともはやなわけです。

こうして、相手はガキだと思って、ひとこと言ってやんべっかーというような人が群がっていて、トンチンカンな言いがかりをつけているわけです。ロックに政治を持ち込むな、とか。

 

ネット情報とゴシップが「真実」?

まあ、これがネットの炎上レベルの話ならば、ともかくとして、最近は『SEALDsの真実』などという本も出ている。これもまたなんというか的外れな論考で、その理由はただひとつ、ネットの情報をつなぎあわせてコラージュした本だからなわけですね。

ネットにある興味本位やウソも混在した情報をつなぎあわせると、なんだかよくわからないモンスターがつくられることがあります。これすなわち陰謀論です。著者の田中宏和さんのブログは、自分は2000年代初頭によく読まさせていただきました。海外のしっかりとしたソースを分析していく手腕がそこにはありましたが、やはり国内のネット情報がソースだとどうにもならないですね。たぶん、この人はこの著作で全くといっていいほど関係者に取材はしてないでしょう。これが『分析と解剖』ということですからなんともはや。これでは、自分の子供ほど年の違うSEALDsの学生さん相手に、40も過ぎた男がヨタ情報で陰謀論書いているといわれてしまいますよ。

さらに、千葉麗子さんが書いた『さよならパヨク』という本もありました。これは本の半分以上が単なるゴシップ本なわけで、そういうのが好きでたまらない人にはいいのでしょうが、それ以上の価値がありません。ただ、まあこれは田中さんの記事と同じく、なんでそんなことを書くのか、その心情だけは理解できるので、全面的に批判するつもりにはなれないんですが。

その中で、今の官邸前で反原発運動をしている「反原連」が日本共産党に乗っ取られている、という説を流していらっしゃるようですが、まあぶっちゃけ、日本共産党の関係者の方々が多数いらっしゃるのは間違いないですよ。でも、それとは相対的に自立して行動しているのもこれまた間違いがない。

あのですね、そもそも日本共産党って、3.11まで明確な「反原発」ではなかったわけですよ。遡ると、60年代までは原発推進の立場だったわけですよ。彼らはマルキストですから、テクノロジーの進歩は全面肯定する立場が本来ですから。共産主義とは電化のことである・・・みたい名言(迷言?)をレーニンは言っていたくらいです。そして60年代以降も、即時全面禁止という立場ではなかったわけですね。

もちろん徐々に方針を変えてきたというのは確かですが、それは既存の非政治的な勢力の盛り上がりに足並みをそろえて、むしろそちらについていこうというところが正しい見方かと思います。まあとはいうものの、日本共産党の天敵である、新左翼を排除したり、まだ原水禁と微妙な距離があったり、などというところで、べったりというところまではいかなくとも、相当に影響力があるというのはそれはそれで間違いないでしょう。ただ、チバレイさんが言うように「乗っ取られている」というのはどうかなー。で、SEALDsもその流れにある、と。まあ、これは見当違いでしょう。

まあ、こんなわけで、フジロックの話しかり、SEALDs選書の話しかり、『SEALDsの真実』しかりで、まあなんというか、壮大なモンスター像が出来上がってしまっているわけですよね。いや、あの学生さんたち、そこまでの存在じゃないですよ(笑)

 

闘わないという「闘い」は、学生運動の失敗が招いた

こうして知ったかぶりと陰謀論と親父の説教ぐせ(特にいわゆる往年の活動家界隈)の人達を、SEALDsはものすごい勢いで吸引していっているバキューム状態なわけです。もうね、カオスですよ、カオス。

そんなわけで、別にステマするわけでもないですが、そういう人達にオススメ・・・というか、たぶんそういう人たちにこそ読んでもらいたいという意味もあって出したと思われる奥田愛基自伝『変える』は面白かったわけです。

この本、「自伝」とは書いてないんですが、そういう本です。北九州の牧師の家で生まれ育った奥田が、その牧師の家らしいというべきか、様々な生活困窮者を受け入れてきた話。中学校の頃のイジメ体験。そこから島根の高校を選び、その学校の文化の薫陶を受ける。そして、仲間との出会いからSEALDsの創設へ。

一応書いておきますが、自分はSEALDsの政治的な主張には賛同できません。けれど、まあ二十歳かそこらの若いヤツがここまで大きなムーブメントをつくって、しかもやっていることもたいそうなオトナなところを感服しているわけです。

あなたたち、おい、おっさん。20歳かそこらの時、なにしてました?ファミコンやったりパチンコやってたり、クラブで呑んだくれてたり、ダイヤルQ2や出会い系サイトやっていたり、少年ジャンプ読んでいたり、しょうもないサークル入ってスキー行ったり、テニスしたり・・・そんな感じじゃなかったですかね。はい、自分もそんなひとりです。そうするとやっぱり彼らは立派だな、と。

僕らの若いころ、そして今でも脈々と続いているのは政治回避です。外山恒一は、その著書『青いムーブメント』の中で、新左翼運動の失敗により、「政治的な闘いに関わらないという闘い」がいわゆる日本のいわゆる「サブカル」ではないかと喝破しました。80年代は闘わないという闘いを積極的に理念にあげる時代だったということです。それは今も脈々と、「ロックに政治を持ち込むな」風な流れとして残っています。新左翼のみなさん、あなた若いのが政治を回避しているとか偉そうに説教している場合じゃないですよ。あなたたちの荒唐無稽な「世界革命」や、数百人の死者を出した内ゲバが、その原因なんですよ。

仮にそれが学生運動の時代に比較して、ぬるいものだったとしても、それはあなたたちを乗り越えようとした結果そうなったわけです。もうちょっと、なんというかケチつけるだけではなく、温かい目で見ることもできるんじゃないですかねえ。

さて、興味をもって、この政治的主張ではなく、リーダー格のひとりの「自伝」を読んだわけですが、そしてなんともいえない読後感を抱いたのでありました。

 

3.11後のセカイ系

ひとつ思ったのは、この人は、まあちょっと前に流行った言葉でいうと、一種の「セカイ系」なわけですね。少なくともこの自伝ではそういう物語をつくろうとしている。

セカイ系というのは、自分の内的な世界の閉塞感を、物語だか現実だかわからないセカイに照らし合わせていこうとしている人たちのことですね。自分の理解ですが。だから、世界の出来事と自分の内的な世界が奇妙に一致してしまっている。本当はそんなことはないんです。世界はあなたと全く関係ない理屈で動いている外部なわけです。彼らは自分が苦しんでいる閉塞感から逃れんがために、世界の滅亡を希求する。または絶対的な変化を求める。それが宇宙戦争でもいいし、天変地異でもいいわけです。もちろんそんなキミのセカイのために、世界が滅亡されても関係ないオレには迷惑きわまりないわけで、そういう意味でセカイ系、ホント迷惑な連中だよな、と思っていました。だって彼らの世界の滅亡はたったひとりの自分のセカイの「革命」のためのものですから。

ところが、3.11っていうのは、実際に世界の滅亡みたいなカタストロフィが起きてしまったわけです。ローカルではありますが、確実に起きた。そうすると、セカイ系の人達は何を考えるか。

奥田自伝の中で、映画『ヒミズ』の公開にあたって、監督である園子温が語ったという言葉が引用されています。

 全体的に僕はこの映画に、今までの映画、僕の作り続けてきた映画とは明らかに変わっていかざるを得なかったという状況があったというこ とです。僕は非常に、人間って言うのはこんなもんだよという絶望的な姿を丸裸にするような映画を撮り続けてはいたんですけども、それだけではもうやってい けないなというのが3.11以降の自分の映画のあり方で、それをやっぱり「ヒミズ」 は自分の中の映画史、映画を作り続けてきた中で非常に転向したというか変わらざるをえなかったということです。それは1ついうと絶望していられない、へん な言い方で言うと希望に僕は負けたんです、絶望に勝ったというよりは希望に負けて希望を持たざるをえなくなった。だから簡単に言っちゃって、「愛なんてくだらねえよ」って言ってたやつがすごい人を好きになって、愛に白旗を揚げた、愛に敗北。そういう意味ではもう絶望とかはいってられなくなったなと。それは 絶望に打ち勝ったというよりは希望に負けたという。希望を持たざるをえなくなったなという。これからはただ単純に絶望感だけではやっていけないっていう、 そういうテーマです。それは誰かを励ましているわけでも、だれかをけなしているわけでもなく、そういう今、非日常を生きていく決意を新たにこの映画で刻ん でいこうという、それがテーマですから。

園子温は、その昔、「東京ガガガ」というパフォーマンス集団をやってきた人ですし、そのパフォーマンスも映画も、自分の情けなくもみじめで悲惨な境遇を、どうやって現実世界に解放していくか、ということばかりを追求してきたような人です。その手段として荒唐無稽な露悪趣味を選んだ。ところが、3.11で、そのぶつけていくべきセカイがいわば崩壊してしまった。そのときに、何をしなければならないか。これは自分が望んでいた世界の滅亡の後なのではないか。だとしたら、そこで自分は初めて何かを成し遂げることができるのではないか、と。ここで露悪趣味は終わりにせざるをえないのですね。これが彼が「敗北」と言っているものです。「転向」と言い換えてもいいでしょう。

もちろん、奥田愛基という人は、生まれ育った家庭環境からして、一種のリベラルのディシプリンをもった人だったわけです。で、それがさらに島根の山奥の自由学校みたいなところで花開く。だから、純粋なセカイ系とはちょっと違うわけです。彼には世界が視えていた。そういう違いはあるわけですが、まあ3.11後に、ノンポリだった人達や既存の政党政治枠にはめられていた人がストリートに出て何かをまじめにやりだしたというところは傾向としてあるのではないかと思うわけです。それを彼はひとつ体現しているのではないか、と。

このマジメさは、先行するアナーキズムに彩られた高円寺系のアウトノミアの人たちや、全く違った革命のための物語、すなわち唯物史観をもった人たちとも別のもので、もう優等生以上に優等生的な立ち居振る舞いや、出来損ないのスクラップの組み合わせでもいいから何かを建設するというような前向きな意志を感じさせるところではないかと思うわけです。

こういうセカイ系の物語として自伝が書かれているから、生臭いことは一切書いてませんが、それなりに面白いので、よかったらどうぞ。

そんなわけで、最後にとってつけたような「分析」があって、おまえもSEALDsに誘引されている蛾みたいなもんで、単になんか言ってやりたいだけじゃねーかもと言われればそれまでですね(笑)

自分はもう少し、この鼻っ柱が強いセカイ系の連中が織りなす3.11後の物語みたいなものを見ていこうかと思っています。私はガタリと同じく、例え愚鈍であっても何かを構築しようという人たちが趣味的に好きですので、まあそういうことになります。