トルコの世俗派とエルドアンの対立
現在、トルコでは軍部を一部とされる勢力がクーデターを起こしている。事態は進行中で、現地から入ってくるニュースも、まだ真偽不明なものも入り混じりながら曖昧模糊としている。そんな状況の中でむしろトルコの騒然とした様子を伝えてくるのは、メディア以外の人達が伝えてくるTWITTERやFacebookの情報や動画である。その中には、街に繰り出してきた戦車を迎えて歓迎するような人々の姿もあれば、全く逆に抗議の声をあげに来た人達の映像もある。これは一体どういうことなのか。
エルドアン首相は、イスラム回帰的な政策により求心力を得て、10年以上も政権を維持してきた。
しかし、最近ではアルコール販売の禁止が与党により可決され、イスラム教を冒涜したとして投獄される学者が出るなど、宗教右翼色を強め、世俗派と言われる人たちから批判が続いていた。
トルコはオスマン帝国の昔から世俗的なイスラム教国で、酒もハラル(豚肉などの禁忌)も緩やかな国である。さらには、明治維新にも範をとったといわれる、現代トルコの父、ムスタファ・ケマル・アタテュルクによる第一次世界大戦後のトルコ革命によって、イスラム教国としては画期的な政教分離の政治体制が敷かれて久しい。それらもあり、イスタンブールは音楽も酒も何ひとつ制限のない街であり、それが長い歴史の中で皆に認められていた。
ところが、エルドアンの宗教的な保守色を強めた政権により、締めつけが徐々に厳しくなってきていた。インターネットの検閲や戒律に反したことが政府により犯罪とされるようになってきたのだ。つい先日は、任天堂のヒット商品「ポケモンGO」がイスラムにはふさわしくないという声があがっていた。
エルドアンの支持の背景には、厳格な宗教的戒律を政治的に実行することを求めたイスラム教徒の保守派の存在がある。これとアタテュルクが象徴する世俗主義がトルコでは真っ向からぶつかっているのである。
今回のクーデターは軍が中心となっている。ところが、開明的な世俗派の勢力の中心としてもうひとつ、サッカーサポーターが大きな勢力として存在しているということは、日本ではほとんど知られていない。これは別に大袈裟を言いたてているのでもなく、本当のことだ。
2013年イスタンブール「タクシム広場」での世俗派の決起
「ハユル!(嫌だ!)」
多数の政治活動家やアーティストが「反宗教的」ということで、次々と投獄されていっていく中で、世俗的な価値観をもつ若者の不満を募らせ、そして、爆発したのが、2013年のタクシム広場の騒乱である。
古都イスタンブールの旧市街の小高い丘にあるタクシム広場は、イスタンブールの新市街の繁華街の坂を上りきったところにある。日本でいえば渋谷の繁華街を抜けた代々木公園といったところである。休日には若者や子ども連れの家族がゆったりと時間を過ごす場所だ。
このタクシム広場の小さな公園「ガジ公園」の取り壊しに反対する、たった4人の座り込みがきっかけだった。「子どもやお年寄りの集う公園を残してほしい」。そんな小さな抗議が徐々に広がりを見せ、政府に対する不満を訴える数万人のオキュパイ(占拠行動)となり、数々の宗教的な政策により国内の保守層から支持を受けてきたエルドアン首相の退陣を求めて、大規模な騒乱にまで発展した。背景には、エルドアンの宗教的な急進政治に対する反発がある。このデモには、宗教的な独裁を批判する民主化勢力だけではなく、様々なオルタネイティブな立場の人たちが集結した。デモの排除のために飛び交う催涙弾の煙の下には、アタテュルクの支持者もいた。彼らはどちらかといえば本来は保守的である。だが、行きすぎた宗教的な政策に、彼らも鬱屈した不満を抱いていた。
タクシム広場は、この場所をオキュパイする人々で埋め尽くされた。やがてこれを排除するべく完全装備の機動隊が動員され、人々に催涙弾が投げられ、放水車が威嚇しはじめた。強い刺激臭があたりに垂れ込めるなかで、座り込みを続ける人に放水車の水が向けられ、そのうち何人かは水圧によって吹き飛び、宙に舞って舗道に頭から叩きつけられた。この抗議運動を通じて死者は8人、負傷者は8000人以上と言われる。犠牲者には19歳の若者もいた。
それが6月になり、状況が一変した。デモとオキュパイ側の勢力が反撃に転じたのだ。イスタンブールの3大チームであるガラタサライ、フェネルバフチェ、ベシクタシュのサポーターが、デモ隊の戦列に加わったからだ。
世界有数の熱狂的で狂信的なウルトラス(サポーター集団)として知られるガラタサライのサポーターグループ「ウルトラスラン」のメンバーが、因縁の相手である黄色と紺のユニフォームを着たフェネルバフチェのサポーターと、さらにベシクタシュのサポーターを従えて広場で腕を組んでいる。しかも武装した機動隊と対峙して発煙筒を振りかざしながらだ。警察のバスには、それぞれのクラブチームのサポーターグループの名前がスプレーで描かれ、デモにはそれぞれのチームの横断幕や旗が翻る。
タクシム広場といえば「イスタンブール・ダービー」で知られるガラタサライとフェネルバフチェのトルコ2大チームのサポーターが何度も衝突し、その抗争の末に死人までもが出た場所である。黒海とつながるボスポラス海峡に向かって丘を下っていくと、もうひとつのイスタンブールのクラブチーム、ベシクタシュのホームスタジアムがある。この広場はこの3つのクラブチームがともにかち合う場所なのである。
世俗派の象徴的な存在であるサッカーサポーター
サポーターがデモに加わった頃から、立ち向かう反政府派の群衆の手には、欧州や南米のスタジアムで見慣れた発煙筒が多数焚かれている。しかもデモの隊列で振られる旗や掲げられた横断幕は、ガラタサライやフェネルバフチェやベシクタシュのものだ。これが隊列を組んでガジ公園のまわりを練り歩いている。
「ファシズムはいらない」
エルドアンを批難する声とスタジアムをとどろかすあの重低音の野太い声のチャント(応援歌)で合唱されるようになった。
筆者が昨年に東京国際フットボール映画祭で上映した映画『イスタンブール・ユナイテッド』は、このタクシム広場の騒乱にサッカーサポーターが大きな活躍をしたことを証言するドキュメンタリー映画だ。その映画の中で、タクシム広場の占拠に参加した女性は次のように語っている。
3つのチームのサポーターが手に手をとり合って抗議に参加してきたの。信じられなかったわ。でもすぐに思った。彼らがいればどうにかなるって。
映画『イスタンブール・ユナイテッド』
ここが転機となった。広場は発煙筒を持ったサポーターと、スタジアムと同じやり方で集結
する人たちで埋め尽くされた。それぞれが3つのチームのユニフォームで、そしてマフラーをかざしている。デモの様相がここで一挙に変わった。デモ隊が一挙に反撃に出たのである。
彼らがこのタクシム広場の占拠の中で重要な活躍をしたのには理由がある。彼らがもともと機動隊との戦いに慣れていたからだ。アウェーでの試合はいつも機動隊に囲まれ、時に催涙弾も撃ち込まれる。負傷者が出ることもあるが、その対応にも組織として取り組むことができる。
サポーターのネットワークを使い、スマートフォンで機動隊の動きがいち早く拡散された。そうして機動隊の行く手に集まったサポーターによって、機動隊が撃ち放った催涙弾が機動隊側に投げ返される。手の空いたサポーターは、刺激に苦しむ人の目を、ペットボトルに入れた薄められた中和剤で拭ってまわる。ガスマスクをつけているサポーターもいる。もっとやってみろと茶化すように催涙弾が撃たれるたびに「オーレ!」の声が通りにこだまする。
エジプト革命は「ウルトラスの革命」 -リベラルなサッカー文化とイスラム社会
フットボールは世界各国で「ヨーロッパ化の象徴」としても機能してきた。フェネルバフチェは、宗教政治からの脱却を目指した第一次世界大戦直後のトルコ革命の最中に、オスマントルコ政府の追っ手からアタテュルクをクラブにかくまって助けた。労働者階級よりのサポーターに占められているベシクタシュ最大のサポーターグループ「チャルシュ」は、ドイツのFCザンクトパウリやスコットランドのセルティックのように、左派系で知られている。そしてガラタサライは、もともとはフランス語を教えるための学校からはじまったサッカークラブであり、いわば欧州の文化を受けた「リベラル」とも言える。
イスラム圏の社会で、サッカーが宗教的な政治に対するカウンターとして振る舞うケースは他にも見られる。サッカーの起源はマチズモに満たされ、排外主義的な思想を招き寄せやすいのは否定できない事実だが、その欧州の中でつくられたサッカー文化は、時としてそのリベラルな啓蒙主義的な理想主義をも体現するときがある。イスラム圏の中では、サッカーの魅力とセットで入ってくるリベラルな文化が際立つこともあるのだ。サッカーがそのような自由を希求する運動の核となった例は、エジプトではさらに顕著である。
2011年のエジプト革命は、「アラブの春」と呼ばれたイスラム圏の民主革命のひとつとして知られている。チュニジアの民主革命「ジャスミン革命」の余波が、約30年間独裁が続いていたムバーラク大統領政権に飛び火したものだ。ムバーラクの政策は決して失敗していたわけではない。しかし、市場開放的な経済政策で企業や財閥は潤っていたものの、庶民レベルにはこの恩恵はまったく行き渡らず、若年層の失業者が問題になっていたところに、この大統領の縁故主義的な政権運用がエジプト庶民の怒りを買った。現代の多くの革命のトレンドとなっているSNSがこれに形を与え、デモや集会はツイッターやフェイスブックを使って組織化されていった。そのため、このエジプト革命を「フェイスブック革命」と呼ぶ人もいる。この革命は若年層を中心にしたデモや広場のオキュパイ(占拠運動)からはじまったが、この中心となったカイロのタハリール広場の警官隊とデモ隊の攻防は一進一退のものだった。この中で催涙弾をかいくぐり、圧倒的な組織力で警官隊の阻止を破ったのがサッカークラブ「アル・アハリ」のサポーターだった。警察と対峙することに慣れていないデモ隊に、トルコのイスタンブールのサポーターたちと同じく、催涙弾や警棒と闘うためのノウハウをもっていたのはサッカーサポーターだったというわけだ。ビデオジャーナリストの田保寿一氏は、この光景を目の当たりに目撃した人だが、その革命を「ウルトラスの革命」と呼んでいる。
エジプト・カイロの名門クラブ、アル・アハリは1907年の創設以来リーグ36回の優勝を誇る国民的なクラブである。その威光はエジプトのみならずアフリカ大陸にも広がるもので、クラブチームとしてアフリカ・チャンピオンズリーグに優勝すること8回。アフリカ代表として、クラブワールドカップやその前身のトヨタカップでもたびたび来日している。
そのアル・アハリのサポーターがなぜデモの中心に立ったのか。これもイスタンブールの例とあわせて考えればいくつかの理由が考えられる。ひとつは、イスラム圏では、サッカーサポーターという存在は欧州の文化をもっとも体感的に浴びてきているのではないかということ。
サッカーファンはそのスポーツやサポーターのカルチャーを通して、様々に欧州に接触する。よいものもあれば悪いものもあるだろう。そして、そのなかでリベラルなものもあわせて摂取していく。
このへんについては本日発売となった拙著『サッカーと愛国』に詳述したので、ぜひ参考にされたい。
トルコのクーデーターがどのように展開するのかは不明だ。しかし、おそらく世俗派と宗教勢力との対立はトルコ社会の基盤を揺るがすことは続くであろう。その中で、またサッカーサポーターが政治の場面に登場することがあるかもしれない。