コーヒーを商うランボー
パリの街の小さく輝く真珠の虹色のような文壇の世界から姿をくらましたアルチュール・ランボーは、二十歳そこそこにして一切の詩作を放棄した。
残された詩作は「地獄の季節」・「イルミナシオン」の二集のみ。
それからオランダの植民地部隊の傭兵に職を得てジャカルタに渡り、到着早々に脱走兵となったり、キプロスの石切場の作業員になるなど、職と居場所を転々とする。
二十五歳で、当時の国際港のひとつだったアラビア半島の町アデンに着く。アデンは現在のイエメン。
イエメンはコーヒー起源の伝説がある土地である。スーフィーといわれる僧侶達が、夜を徹しての祈祷の苦行のために、コーヒーは非常に役に立った。その覚醒作用が珍重されたのである。コーヒーを飲むことは、そのまま宗教的行為だったのである。
コーヒーは聖水として扱われ、それは地中海の商人によってヨーロッパ社会に伝えられた。その起源の町である「モカ」はいまだにそのブランド名として流通している。
コーヒーのブランドである「モカ」は、その出荷港であるモカの地名を冠せられているが、必ずしもそのモカの町の産物であるわけではない。アデンは、コーヒーの流通で賑わった町のひとつである。
ランボーはアデンでコーヒー商人のフランス人に雇われる。コーヒー豆の選別をするインド人女性の監督がその仕事だった。ほどなくして、今度は紅海の向こう側のエチオピアの内陸の古都に赴く。エジプトが統治するその土地で、フランス商社がオフィスと倉庫をつくり、そこで彼は働く。20日間かけて砂漠をラクダで横断し、綿織物やこまごまとした雑貨品をその土地に届け、そして帰りの荷にコーヒーや象牙を積み輸出する。
「オレは旅をして、脳髄に集まる幻覚を取り払う必要があった」(地獄の季節)
即物的なアラビアと東アフリカの砂漠の光景の中で、ランボーはいくつかの用件のみの手紙をいくつか残しているだけで、この変化にランボーの謎が隠されているのではないか。「ランボー、砂漠を行く―アフリカ書簡の謎」は、アフリカとアラビアで商人となった、この時代に焦点を当てたランボーの評伝である。
ランボーの詩篇は、言葉の連鎖が奇妙な極彩色の光沢のディストーションの振動を発している。時代と地域を越えた文物のコラージュとモンタージュが倍音となって、次々とたちのぼり現れては消える。そして、それらが醸し出す奇妙な高揚感と覚醒感が外へ向かい、同時に意味は絶えず内側へ内側へと向かっている。だが、出発を告げる鐘はいつもランボーの詩篇に鳴り響いている。
超新星の爆発が質量を崩壊させると強い重力が生み出される。ランボーの詩作が、重力場に光さえも吸引し始めるのは、彼が詩作を止めてコーヒー卸売商人としてアフリカにいたころ、そして本格的に評価されるのは死後の話である。
ランボーは、時限爆弾を仕掛けたまま人ごみにまぎれて、ついに出発した。そして、時間差で爆風は世界中に拡散した。
僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、二十三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向こうからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。
小林秀雄「考えるヒント4 ランボオ・中原中也」
二十三歳の小林秀雄がいたのは1925年。アデンから離れて、ハラルにたどり着いたランボーは1880年である。もちろん、その半世紀に世界史は自転し続けている。
コーヒーはそのいたるところに偏在していた。
コーヒーが世界市場を形成する
さて、ランボーの話をいったんブレイクしてコーヒーの話をはじめるとしよう。
ランボーが商人の職を得て、アラビアと東アフリカで、「現実と直接取引きする」ようになって取り扱った商品がコーヒーというのは面白い。
なぜなら、コーヒーは宗教的な儀式に出自を持ちながら、同時に世界市場を循環しながら偏在してきた「黒い血液」だったからだ。
「黒いザムザムの聖水」と呼ばれたコーヒーも、それを「体内に入れて死んだものは焦熱地獄に落ちない」と伝えられながら、500年の歴史の様々な場面で、アロマの香りを芳しく漂わせ、そして、あるときにはそれ自体が歴史をつくってきた。芳香に満ちて、しかしそれは魂と信仰を揺るがすこともあろう。コーヒーは、現在でも世界経済システムの中で、石油に次ぐ一大「商品」だからである。
コーヒーはロンドン商品取引所やニューヨーク商品取引所などで、商品先物取引の主要銘柄として取引が行われ、その取引金額は一次産品としては石油に次いで大きいと言われている。日本でも東京穀物商品取引所でアラビカコーヒーとロブスタコーヒーが上場されている。
アラビカコーヒーとロブスタコーヒーは品種が違うため、価格もかなり違う。そのため、両商品の価格差の拡大または縮小を予測してストラドル取引(鞘取り)が行なわれる場合もある。
しかし、その一方でコーヒーは、消費国と生産国との経済格差を生む南北問題の一因となっていることも指摘されている。コーヒー生産地諸国では主にプランテーションによりコーヒー栽培が行われている。ブラジルなどではかつてコーヒー・プランテーションの労働力は主に黒人奴隷であった。奴隷制廃止後は主に移民労働者によって行われている。労働集約型の作業がほとんどであることにこれらの背景が加わって、労働環境の悪さが指摘されており、実際に生産者が受ける収益がきわめて少ないことは国際的にも問題視されている。
コーヒーの経済
そもそもコーヒーはヨーロッパに伝わった17世紀から、投機色の強い世界市場を前提とする商品であった。
コーヒーの木は年間を通して霜の恐れのない温暖な気候と、年間1200ミリ以上の降雨量を必要とする。(中略)
畑を開拓し、十分な灌漑施設を作り、強すぎる日光や害虫から守るためにコーヒーの木の周りには背丈の高い木を植える庇護処理を施す必要もある。コーヒー生産の工程は複雑なだけではない。金がかかるのである。さらに決定的なのは、コーヒーの木が植えてから実をつけるまで五年ほどかかり、その間、収益が見込めないことである。コーヒー栽培は資本の蓄積を前提にしてはじめて可能であり、その意味ではコーヒーという商品は最初から資本と歩みをともにする必然性が刻印されている。
『コーヒーが廻り 世界史が廻る』 臼井隆一郎
コーヒーは最初には、イエメンのイスラム商人が独占し世界市場に輸出を行う。
そのうち、欧州へのルートは、オスマントルコ帝国のカイロの商人の利権となる。
東地中海の商業資本家は、交通距離による文化差異=価格差異や、良作不作や当時の航海技術の限界による価格の変動を利用して、巨大な利を得ていた。世はその時、まさに大航海時代、そして次のような時代でもあった。
十五世紀末から十六世紀初頭にかけて、ここにいう「ヨーロッパ世界経済」が出現した。それは、帝国ではないが、大帝国と同じくらいのの規模を有し、大帝国と共通の特質をいくつかもっていた。ただし、帝国とは別の、新たな何かなのである。
ウォーラーステイン「近代世界システム」
かくして、コーヒーは世界経済システムを流通する商品と化す。
世界経済システムのなかのコーヒー
世界経済システムが、封建制を次第に揺るがし侵食してからほどなく、ピューリタン革命で騒然とするイギリスにはコーヒーハウスが立ち並びだした。
そこでは市民による政治談議が公然と語られ、その熱はフランスに飛び火し、そこでもカフェにも飛び火する。ロンドンのコーヒーハウスやベルサイユのカフェでは、世界経済の交通の整備でつくられた物流によって大量に輸入されてきていたコーヒーが、黒い水面から芳香の湯気を立てている。その向こうに、「近代市民」が現れる。
パリの近代市民は、カフェで政治を語り、そして革命を起こす。ランボーのイリュミナシオンには、次のような一節がある。「冷し珈琲常連が、珈琲店で、煙草をふかした。」
ランボーはそんなパリの街からすべてを捨てて旅に出る。
近代市民に愛されたコーヒーの需要は、その一方で、コーヒーの生産過程の近代的な変化を開始する。時代は商業資本主義から産業資本主義の隆盛にさしかかろうとする頃でもある。18世紀の初頭である。
はじめ、オランダがジャワでコーヒーのプランテーションの開発に成功する。植民地での一次産品の生産が始まったのである。もちろん、それは世界経済システムにジャワの住民を組み入れることに他ならない。理不尽な利潤が徹底的に搾り取られる資本のマジックが、欧州文化圏内から侵食していく先駆けの場面が、カップに注がれたコーヒーの黒い淵に、ここでも映りこんで見えている。
「コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液」の、コーヒーをめぐる世界経済史の叙述を興味深く読んだ。
世界史の中で、長らく欧州より文化的に優勢だったオリエントのイメージが、ヨーロッパの時代にノスタルジックな甘美なイメージとともに、市民社会で大量に消費されていく過程には、欧州の資本主義的な世界経済の縮図が隠されているのである。
パリの街でモンテスキューが飲んだコーヒーは、紅海からカイロを経由してわたってきた銘柄だったのか、それとも新進のオランダ東インド会社のジャワ豆だったのか。市民がカフェで政治論議をかわすその豆は、遠い東南アジアの植民地で主食の米を転作して作られたもので、そのために現地の人々は貧富の差に徹底して苦しめられる。ヨーロッパに立ち上るコーヒーの香りが飢餓をもらたす。それは今の時代でも変わらない世界経済の構造だ。
コーヒー好きのルソーが飲んでいたのは、オランダ産のジャワ豆にかわりフランス国内で流通するようになっていた、フランスのアメリカ大陸植民地、つまり西インド諸島のものだった。生産していたのは、アフリカの奴隷。すでに労働力を強制収用していくことが大規模に組織的に行われるようになっていた。コーヒーは「ニグロの汗」だった。
ナポレオンの大陸封鎖は、ドイツのナショナリズムを呼び起こした。マルクスはいう。
「砂糖とコーヒーは19世紀においてその世界史的意義を示したのである。」
しかし、コーヒーは、もっともっと深く世界経済の形成に関与することによって、世界史的意義があった。
コーヒーによって呼び起こされたナショナリズムによって、遅れてきた国民国家となったドイツは、アフリカへの進出を開始する。イタリアがそれに続く。
ランボーがエチオピアの古都にコーヒー商人として職を得ていたときに、すでにイタリア植民地勢力の影がちらつきだしている。
奴隷制度という結果としてコストがかかる労働形態に変わり、すでに世界は「賃金労働」という資本主義の第一原理にシフトし始めていた。ドイツは、その原理を遅れてきた青年としてキリマンジャロをはじめとするドイツのコーヒープランテーションに不器用に適用し、そして挫折を遅れて経験し、そしてそのトラウマが「劣等人種」という概念を広範に社会に根付かせることになる。
ドイツ人がアフリカの「原住民」を扱ったその方法を、ユダヤ人問題の「最終解決」に応用するとき、人種差別主義は国家の官僚機関による合理的な大量殺戮へと展開する。全体主義の起源をヨーロッパ列強のアフリカ植民地支配に求めたのはハンナアーレントであった・・・・コーヒーを飲む市民社会は総じて自由と平等と博愛を目指す社会であった。そしてその市民社会の自由と平等の理念が、円滑な商品交換を目指したはずの植民地-それはまたコーヒーの故郷であった-の支配を転機に、自由と平等の反対物、人種主義と排外主義に反転する。
『コーヒーが廻り世界史が廻る』
ドイツのあまりのコーヒープランテーションでの不器用な「ニグロの搾取」の実情に、不吉な影を見ていたラーテナウは、その後にワイマール共和国の理念をリプレゼントする政治家となったものの、後に右翼に暗殺される。ナチスが大手をふってドイツ市民の歓喜に迎えられるのはそれから少し後だ。
ナチスの強制収用所には、カフェがあったという。対外的なイメージつくりのためだ。ガス室に連れて行かれるユダヤ人は、シャワーの後には熱いコーヒーがふるまわれる、と言いくるめられてきたとも言う。コーヒーはいたるところに偏在する。
コーヒーはいまだに、その黒い聖水の魔術を発揮しつづけている。
コーヒーの生産地が、ことごとく最貧国となっているのはなぜだろう?
商品の謎がそこに隠されている。世界経済が商品を構造化している。
エチオピアの谷間のランボー
ボブ・ディランは歌っている。
運命のためにもう1杯のコーヒーを
出発するためにもう1杯のコーヒーを
谷間に下りてゆくために
それでは再び、ランボーのいるエチオピアの高地の谷間に下りていこう。
コーヒーの起源伝説のひとつには、そのランボーがたどり着いたアデンの町の僧侶の話が伝わっている。僧侶がエチオピアに旅したときに、知らない飲み物を気付けに飲んだところ元気が出た。それがコーヒーである、という話だ。(ただし、本書の著者は、この飲み物というのが他の覚醒作用のある飲みものではなかったかと推測している)
僧侶が旅したといわれるところはアビシニア高原。ランボーはここにも武器商人として訪れている。
この頃、紅海に面するアフリカの港町で、二千丁の小銃と七万五千発の弾薬を運ぶためにキャラバンの編成をしている頃、パリでは、ランボーが人に預けたままだった「イリュミナシオン」の原稿が、ヴェルレーヌの手によって探し出され、フランスの文芸誌に掲載されている。ランボーの評価が始まるのはこの時からである。
しかし一方、この噂を人伝に耳に入れたランボーの反応は次のようなものだったという。
「ばかばかしい、笑っちゃうよ、気持ちが悪い」
「詩なんか糞くらえ!」
ランボーは、まるで自分が書いた詩篇をそのまま実現するかのように、アフリカの砂漠に旅立った。即物的な商人として、痩せてのっぽの体に、粗末な衣服をまといトルコ帽を頭にのせて、歩き続ける。
売り払え、ユダヤ人も売ったことのないもの、貴族も罪人も味わったことのないもの、群集の呪われた愛、地獄の廉直も知らないもの、時間も科学も認識しえないもの
声の再構成。合唱とオーケストラの全エネルギーによる友愛の覚醒、その瞬間の適用だ。われらの感覚を解き放つ唯一のチャンスだよ!
売り払え、値段のつかない肉体だ、あらゆる民族、あらゆる世界、あらゆる性、あらゆる系統の外にある肉体だ!歩みにつれて富は迸る!無鑑査ダイヤのバーゲンだ!
売り払え、マッスのためにはアナーキーを、卓越したアマチュアには抑制しがたい満足を、信者と愛人には無残な死を!
売り払え、居住と移住を、スポーツ、夢幻、完璧な慰安を、それを生み出す響きと運動、その未来を!
売り払え、計算の応用、前代未聞のハーモニーの跳躍を。思いもよらない掘り出し物と支払期限、即座の所有だよ。イルミナシオン「バーゲン」
俺はヨーロッパを去る。海の風が俺の肺を燃やすだろう。僻陬の地が皮膚をなめすだろう。
地獄の季節「悪い血」
ランボーは、フランスを離れて以来、一編の詩も書かない。そして商人として金塊を懐にいつも忍ばせて、砂漠の土地を往復する。歩行・・・それを可能にした2本の足。ランボーの最後は癌で足が壊疽してしまい、片足を切断されたままマルセイユの病院で死んでいく姿だ。
世界経済の暴風の只中に出発して、そして彼自身の詩うことのない沈黙の時代は、暴虐で原色にギラギラとなめつく太陽と血と砂塵と海に彩られる。そして散文的ですらない事象が即物的に展開される商品の間にランボーはうごめく。エチオピアの部族との武器取引に失敗した、うだつのあがらない怪しい「自称貿易商」。それがカイロのフランス領事館に残るランボーの記録である。
ランボーが卸したコーヒー豆は、どこで誰に飲まれたのだろうか。ランボーが駆け抜けた時代から依然として、世界経済の中にコーヒー豆は黒く輝いている。
コーヒーが廻り世界史が廻る―近代市民社会の黒い血液」
ランボー、砂漠を行く―アフリカ書簡の謎
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