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世界三大映画祭の受賞作品で日本未公開の作品を集めた、三大映画祭特集の上映作品がかなりよかった。
観なきゃならない作品は世界にふつふつと毎日湧いているのであって、そのために一時すらも時間は無駄にしてはいけない!などと映画ファン的な固い決意を、のんびりと喫茶店でコーヒー飲みながら考えるオレ。まあ自堕落な話です。
で、なんでそんな話をするかといえば、そこで観た2つの作品が極めて傾向が似ていたからです。それと、さすがにみなさん俎上にあげている昨年の「フローズンリバー」とも傾向は同じです。
その映画のまずひとつは、2007年のセザール賞監督作品「唇を閉ざせ」(フランス)。
もうひとつはカンヌの2009年の監督賞「キナタイ・マニラアンダーグラウンド」(フィリピン)。
これらの作品は、すべて地元社会のダークで不条理な事件とその背景となる掟をめぐるお話です。ここでは「ふるさと」ともいえる場所が全くもってとても現代社会とは思えない暗黒の場所として描かれています。
「フローズン・リバー」もそうでしたね。あの映画や「キナタイ・マニラアンダーグラウンド」や、本作では経済的に追い詰められたものが、とある事情から地元社会のダークサイドに足を踏み入れていく・・・・というか、もともとそういう社会の一員でもあったわけで、そんなダークサイドを許容してきたというのも特徴的です。
どういわけだか、みんな森の中で物語が展開されるのも特徴的ですね。
「唇を閉ざせ」は都会の医者が森の中で体験する事件がその話のはじまりです。
「地獄の黙示録」も「フィツカラルド」も「ポーラX」も、その他数えきれない映画が、森(ジャングル)の中で異様な体験を得て、そこで物語が紡ぎだされます。深層意識に入り込むことが、森の中に入り込む体験というのは、日本であれば「遠野物語」にもあるパターンです。
森にわけいる行為は、自分の深層意識に入り込み、自分自身の中にあるなにかと邂逅する基本パターンですね。
先にあげた本作含めた4本の映画は、結局自分自身の内面と向き合う映画でもあるわけです。自分の中にある何か。しかも本来であれば、自分の帰るべき場所であるような地元社会の「ふるさと」です。そこが、自分とは相いれないような不可思議なルールで動いている。鏡を見れば、突然自分の姿が異様に映っている。
「ウインターズ・ボーン」では、捕まえたリスを食用にするために、皮をはぎ、内臓をとる1シーンがある。
よくよく考え見れば、毎日わたしたちが食べている牛や豚や鳥の肉も、どこかで誰かが同じことをやっていることだ。それを目の前に突きつけられると不意をつかれる。だが、それはどちらかといえば自分たちが甘いだけだ。世の中は実はそのようにできている。
夕食の時間に、テレビで牛や豚の血まみれの解体シーンを見せつけられれば誰もが目をそむけるだろう。だが、それにはひっくりかえった自意識過剰の証拠だ。自分が食べるという行為は残酷なことなのに、それをごまかしている。
そんな残酷さの中に、
(1)「ふるさと」すら帰るべきところではない
と認識するものもいるだろう。または
(2)しかしそこがむしろ自然な話なのだ
と考える人もいる。
本作はむしろ(2)のほう。
村の掟を破った父は死によってそれを償った。それを知っても、彼女は全く動じない。
むしろ裏切った行為を恥ずかしがるだけだ。しかし、自分は生きなければならない。
そんな彼女がわかったから、村人は共犯ともいえる行為に彼女を連れていく。そして、彼女は悲しみながらもそれを受け入れる。
きっと彼女はそういう村の掟を積極的に肯定する生き方をこれからしていくに違いない。
「貧困」という設定は、むしろこういう結末からは余計なものだ。原住民的にリスの皮をはいで、手を入れて内臓を引き抜く生活描写だけがあればいい。もちろん、そんな映画のストーリーは成立するはずもないので、そういう設定にはなるだろう。
ふるさとが実は残酷であるというのは、坂口安吾がよく書いていた言葉だ。
彼にとって「ふるさと」とは残酷な人間の運命が投影されていたのだが、こちらの映画やこの一連の「ふるさとは残酷である」という認識の映画は、どういう視点から描かれ、さらには世界中で打ち合わせをしたわけでもないのに、次々と現れてくるのだろう。
よくよく考えたいところだが、本映画についての感想としてはそこまで。
FWF評価:☆☆☆☆★
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