『インターネットは民主主義の敵か』 フィルタリングという名の検閲と集団分極化 -反対意見は遮断するべきではない


インターネットは民主主義の敵か

インターネットがはじめて専門職やマニア以外の人間にも利用可能となり、そして拡大を始めたのは1990年代中盤のこと。よってこの「情報革命」から、まだ歴史は20年しか経過していない。本書は、インターネットが社会に何をもたらすかをユートピア的に語ることのできた第一世代の楽観が、どうやらそうでもないらしいと分かりはじめたころの著作である。本書が世に出たのは2001年はITバブルが崩壊した年。一方で翌年には日本でのインターネットの人口普及率が50%を超えている。

これをどのように理解するべきか。特に、民主主義社会にとってどのような影響を及ぼすのかを論じたのがこの本。それがプラスになるか、マイナスになるか。作者は差引としてプラスになると信じているとするが、重要なのはその差引の結果ではなく、利益になる部分も害になる部分も把握することだという。

そのための本著でのキーワードは「フィルタリング」、「集団分極化」、「サイバーカスケード」、「公開フォーラム」。以下、このキーワードを中心にまとめる。

 

フィルタリング

・情報通信技術が進んだ今、自分の好きな情報だけをピックアップする情報フィルタリングが普及しつつある。そこでは自分のみたい情報だけを得ることができ、観たくない情報は気軽にシャットダウンすることができる。

・人はそれを「カスタマイズ」して、自由に「個人化」することができる。これはますます進んでいくであろう。しかし、それは「表現の自由」のシステムを機能させるものになるとは限らない。検閲はなにも政府や権力者だけが行うものではない。時には自分が検閲をしてしまうことがある。

・表現の自由が機能するために以下の2点が特に重要になる。

-自分が最初から意欲的に選ばなかったものに接触することが大事。予期せぬ出会い、自ら求めなかった、いらいらさせられるような話題や見解と遭遇することは、民主主義の中核である。同じ考え方の人たちとだけ会話していれば陥りやすい分裂や過激主義の抑止にもなる。

-様々な共通体験をもつべきである。マスメディアを通じての共通体験は社会の接着剤の役割を果たしている。社会分裂の危機に直面しやすい混合型社会では特に重要で、グローバルになればなるほど重要度は増す。

自分が聞きたい意見や話題のみに耳を傾けると、そのシステムは深刻な危機に陥るというわけである。

 

集団分極化

・民主主義は、広範な共通体験と多様な話題や考え方への思いがけない接触を必要とする。考えの似たもの同士がもっぱら隔離された場所だけで交流しているだけでは、成り立たない。市民は、特別に興味をもっていない話題や視点に触れなければならない。

・そうしないと、同じ考え方の人たちが閉じたコミュニティの中でお互いに刺激しあって極端な立場を支持するようになる。これを集団分極化という。

・グルーブで議論すれば、メンバーはもともとの方向の延長線上にある極端な立場へとシフトする可能性が高く、過激化しやすい。

・フィルタリングは同様の意見ばかり集め、競合する意見を排除するため、この集団分極化を招きやすい。一方で、この集団間の距離は広がる。

◇サイバーカスケード

・この集団分極化は「社会的カスケード」と呼ばれる現象と強い関係がある。ある情報が流れて雪だるま式に拡散し、真実であるかどうかは別にに、この情報を信じ込んでしまう人が多数出てしまう。インターネットはこのカスケードの温床でもある。

一方で、これらの現象が必ずしも悪いというものでもないとも著者は評価する。

「民主的な報道機関と自由な選挙制度をもつ体制には飢饉はおきない」(アマーティア・セン)とされるのは、飢饉になりそうな時、市民はその対策を政府に強硬に求めるからである。この時、その強硬な対策を要求する社会的カスケードはむしろ望ましいものである。

集団分極化そのものも悪いとはいわない。かつてこれは市民権運動や反奴隷運動、男女平等など数多くの偉大な運動を主導したのは、こうして分極化した集団だからだ。

だから著者はいう

「インターネットは民主主義にとって害になる。なぜなら共通体験が減るだけではなく、人々がエコーチェンバーに棲みつく状況をつくる」という意見には賛成できない。むし世界中の新しい考え方や話題との出会いを可能にしている。むしろネットは集団分極化を阻止するツールである。

 

反対意見を遮断するべきではない

ところで、著者はカスタマイズされたフィルタリングで自分だけがほしい情報を得る(著者はこれを「デイリーミー」と呼ぶ)ことの危険性を鑑みて、これまでの新聞やテレビのような総合型マスメディアの重要性について評価する。つまり、これは自分が望むと望まないに限らず、様々な情報を得ることができるからだ。自分が好きなものばかり食べていたら偏食になって体に悪影響を及ぼすのと同じである。

新聞の日刊紙やテレビのニュース番組は、自分であえて選択しなかったような事柄ふれ、広範な話題や意見に出会うことができる。それは何百万人の人が共有の準拠枠をつくるというとだ。もちろん、これらの「偏向」や興味本意な話題に批判はあるだろうし、少数の意見に独占されているという批判もあるだろう。だが、デイリーミーの中でエコーチェンバーされるよりはまだよい。

ネットが著者のいうような「公開フォーラム」として機能するならば、これは民主主義のプラスになる。

公開フォーラムとは、道路や公園のような公的な場所で、公的な議論を行うこと。誰でもそこにアクセスでき、例え自分たちの考えにそぐわないものだとしても、それを妨げてはいけない。そこでは自ら求めていない意見に出会うことがある。これが民主主義的な議論の原点である。
人類の進化の現段階において、各自が自身とは違うタイプの人たちや、慣れ親しんだ考え方や行動とは異なる考え方や行動に触れることの価値は誇張しきれない。そのようなコミュニケーションはいつでも、とりわけ現代では、進歩の主因のひとつである。

 

総合型マスメディアによる「公開フォーラム」と「共有体験」

テレビや新聞では自分が必ずしも問題意識をもっていなかったり、興味がなかったりする話題も提供される。このことは大変重要である。

さらには、その総合型マスメディアが分断されかねないコミュニティや社会の接着剤のように機能するとも論じている。

これを筆者は「共有体験」と呼ぶ。別にテレビだけではない、同じ日に休み、その祝日の意味を考えることでも共有体験は得られるし、2000年のミレニアムのカウンドダウンのお祝いは世界中の人たちに共通体験をもたらした。オリンピックのようなイベントもそうだろう。

ここからはサスティーンの著者から少し離れるが、民族の疑似的な共有体験には神話があり、国家とネーションの統合にはよく文化価値が利用される。誰しもが知っていたり、それについて体験があったりすることは、共同体の仲間意識をつくるのに大きな役割を果たしている。

これらは、多様な人たちが同一文化のもとに住んでいるという事実に実感を与える。お互いに面識がなくとも、違う種の人たちでさえ、同じ市民同士となれる。このとき、人々は仲間としてその市民を潜在的な味方とみなす。
これは別にいわばなんでもかまわない。POPな文化やサブカルチャーは資本主義を通じて、やはり世界を横断した共有体験を形作るだろう。アニミやコミックやハリウッド映画、POPミュージックは確実にこの共有体験を形作る。

さすがにアメリカの法学者だけあって、考え方が極めてアメリカ的である。例えそれが自分と違う意見であったり、社会に有害であるようなものであっても、その意見は意見として尊重されるべきであるし、それを検閲し遮断することは、他人にやられるのもよくないし、自分でフィルタリングするのもよくないというわけである。

もちろんこれは全てにおいて適用されるわけではない。サギまがいの商業広告や私人の誹謗中傷や名誉棄損、児童ポルノなどの有害なものに関しては言論の自由は保証されないことになる。言論の自由は無制限ではないということだ。ただし、政治的な異議に関しては、民主的な討議として厳格に守られなければならない。ただし、その線引きはいつも議論の余地になるのだが。

著者はこれに加えて、言論のたこつぼ化(「サイバーバルカン化」や「スプリンターネット」とも言う)による集団分極化を防ぐには、その意見表明とは別の意見を必ずリンクするなどの処置が必要ともしている。(「マストキャリー」)
このへんどこまで実効性がある話かというのはあるが。

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