古代王権によってまつろわぬ民とされてきたのは、蝦夷・熊襲・隼人。これにあわせて南島の人々は、当時の王権にとっては異文化集団のマイノリティ。
しかしそれぞれ化外の人とされて、敵対視されて異質なものと扱われてきた。このへんは中国の華夷思想の影響が強い。それぞれ政治的なイデオロギーに塗りつぶされた、王権サイドからの記録しかない。
といっても上代の歴史すらもプロパガンダもどきの記紀と海外からの不確かな記録にしか頼れない。
そんな事情もありつつ、現在形の天皇制の外側に大きな勢力として存在した北方の異民族の現在の学術的なまとめ。
・古代の東北と北海道は文化的にも政治的にも言語的にも、別の文化をもっていたことは、あらためていうまでもなく明らかである。
・征夷大将軍の「夷」とは、もちろん蝦夷のこと。蝦「夷」とは中国の概念で体制外の人間を幅広く呼称するときに使うもの。「蝦」はエビ。長いヒゲがエビにみたてられた。(アイヌのヒゲの特徴)
・そのため蝦夷はアイヌとイコールで考えられてきたが、必ずしもそうとはいえない。
・また逆に蝦夷をアイヌと違うものとして、大和朝廷に対抗してきた倭人=「辺民」とする視点もあるが、このへんは一概にそうともいえない。
・蝦夷の古代王権時代の勢力範囲は東北北部。ここにはアイヌ語派生の地名が多数みられる。「××ベツ」「××ナイ」など。
・蝦夷の南の勢力範囲は、6世紀の段階で宮城県南部から新潟長岡市のライン。国造(地方の行政官)の任地から推定。ここから北は蝦夷。
・ただし、蝦夷という民族がいたというわけではなく、ただ単に大和朝廷に従わぬ複数の種族がすべて「蝦夷」と扱われていた可能性もあり。
・範囲も固定されていたわけではなく、徐々に朝廷は北上して、蝦夷の対抗する砦である「柵」(き・簡易な城塞)を次々と作っていく。ここは商業や行政の中心ともなっていく。
・蝦夷自体は狩猟・採集民族であったと推定されるが、7世紀には倭人の文化も受け入れていたため、農耕もおこなっている。このへんからほとんど西の畿内文化と融合していって、特徴が減じてくる。
・狩猟民族であったことから戦闘能力の高さが様々に伝えられている。服属した蝦夷は、強制移住させられ、なかには九州の太宰府のような行政所の警備をまかせられたものもいる。
・以上をもってして、民俗的に融合していったと見立てる。が、アイヌはそれから後に独自の文化をつくりだす。
東北には多元的な国や民族がいろいろいて、あたかもインディアンを征服していったかのように、国家統一していったというとこですね。
ただし、13世紀ごろになって出てきた、より北方の文化を濃厚に残したアイヌ文化は別として。アイヌと蝦夷について、このへんの相互関係はいまだに定説はなし。
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