成瀬巳喜男のわからなさをまとめてみる / 「山の音」 成瀬巳喜男

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山の音(1954) – goo 映画

成瀬巳喜男が本当にわからない。
自分の世代がいうのだから、今の若い連中なぞはもっとわからないはずだ。
数々のレビューを見ても、まったくもって納得がいつも出来ない。本当にこの人はわかっているのだろうかと懐疑の気持ちが先行する。
このわからなさというのが、また厄介な性質のもので、どの映画を見ても表面上は坦々とした当たり障りのないホームドラマや恋愛ドラマの作りをしていて、よくよく注視してみるとロールシャッハテストの絵のように邪気に満ちた怨念や喪失や悔悟を浮かび上がらせる仕掛けとなっている。
こういう悪意や奇妙な美的概念は、この人独特のもので、この時代の巨匠には、こういう複雑さはない。まるでアナグラムを読みかのように、成瀬巳喜男の映画はいつもストーリーと違う意味を発信している。
一番不思議なのは、こういう映画がプログラム・ピクチャーとして市井の人の娯楽として提供されてきたことだし、さらにはそれを純粋無垢なホームドラマとして取り扱う人が多数いることだ。
いつも成瀬は自分にとってどす黒く、難題である。
なんでこんな意地悪なテーマを、さらりと家庭や恋愛のドラマにパッケージして素知らぬ顔をしているのだろうか。
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この映画も相当に悪逆な映画である。
よくよく考えてみると、嫁ぎ先で真綿で首を絞められるように迫害された嫁の話である。
しかもそれが調子よく誰も悪になっていないのがひとつの仕掛けである。
また、複雑なのは、実はその優しさをみせかけたような舅のエゴイズムに、むしろ虜になっているのは嫁のほうなのである。
自分にはだまし絵のように、このようなサディズムとマゾヒズムが交錯して、その本人達もがそれに無自覚な姿がみえるのだが、これは気のせいなのだろうか。
成瀬の映画は、こういうトリックをいつも仕掛けている。これって楽しいのだろうか、娯楽映画として。きっと違うと思う。まったく違うひねこびた解釈をしていかないとこの人の正体は見えてこない。
難題である。自分は、さらにこの人の作品を追いかけていきたい。
銀座シネパトス・日本映画レトロスペクティブ「シナリオ作家・水木洋子と巨匠たち」にて。

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