自分の考えを整理する意味では面白い本だったので、少しまとめてみたいと思う。
ナショナリズム批判の研究ならば日本でも多数読めるし、共産主義の崩壊以降のナショナスリズムの圧倒的なプレゼンスについて様々な角度から分析をほどこした欧州の研究もある。だが、この書は「ナショナリズム擁護」であり、それが近視眼的な政治論でもなく、日本のナショナリストのような宗教と神話の見え透いた仕掛けで語られるもののではなく、よりによって日本においてナショナリズム批判に用いられるベネディクト・アンダーソンやドゥールズ=ガタリやフーコー、さらにはネグリ=ハートまで持ち出してくるのである。
これはやっかいだ・・・と思って読み進めるうちに、この「ナショナリズム擁護」が、実は懐疑的に語られた反ナショナリズムの夢なのではないかということに気づく。
この本の筆者の萱野稔人は自分と同年代たらかよくわかる。われわれの世代は『ポストモダン』で理論武装してきた世代だ。そして、ポストモダンが対峙し、「脱構築」しようとしてきたもの、つまり西洋的な理念・・・それは本当のところは共産主義体制だったのだが・・・・があっさりと崩壊するのを目の前で見てきた。
しかしその焼け野原の中でポストモダンは「理念」を破壊するだけ破壊して、新しい理念を構築することができなかった。気づいてみれば、その欧州では民族主義が吹き荒れ、いったんは克服したと見られるナショナリズムが世界中で勃興した。
これはどうしたことか、と思っているうちに、あれよあれよという間にポストモダンが無邪気に肯定していたマルチカルチュラリズムの世界は暗澹とした空気に包まれていく。
小林秀雄は、若き日にうろうろと神田の通りを歩いていたとろこを突然通りがかった男に殴りつけられるかのような体験でランボーに出会ったという。わたしたちの世代は、無邪気に街中を歩いていたところを路地裏に連れ込まれて袋叩きに合うようにして、ナショナリズムの勃興に打ちのめされた世代だ。特に1990年代の欧州はそのただ中であった。故に筆者はこのように述懐する。
「私は大学卒業後しばらくしてフランスの大学院に新が区した。そこで驚いたのは、フランスの哲学界ではナショナリズム批判が一つのテーマとしてはほとんどさなれていないということだ(中略) 反ナショナリズムという思想的フレームはこの点でひじょうに日本的なのだ」
「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか」と言ったのはランボーに通りで打ちのめされた小林秀雄だ。
おそらく、筆者の萱野稔人もそうして日本的ポストモダンの風潮が無力であることを、欧州のナショナリズム研究の現実性にフランスの往来でなんども打ちのめされたのではないか。そうして本書は、いわば反ナショナリズムの夢を懐疑的に語っているのではないかと気づくわけである。
簡単に本書の内容をまとめよう。
・グローバリゼーションが歴史の勝ち馬でなかったことは明らかである。それによって国民国家が消滅する気配はない。
・むしろグローバリゼーションの動きがナショナリズムを活性化させている。
・例として、格差問題がある。日本で格差問題が言われるが、労働需要が海外へシフトするならば格差問題は必然の現象である。
・むしろこれまで低賃金だった国の労働者はこれにより賃金があがっているため、世界的には格差は減少している。
・日本のリベラルは格差問題を解消するように要求するが、これ自体がナショナリズムだということを理解してない。
・低賃金労働者は外国人の流入とまっこうから向きあう。ここでナショナリズムが現れるのも自然な現象。
・格差が深刻化することによって、ナショナリズムによるアイデンティティのシェーマが活性化される。
・貧困や不安定雇用にさらされた人びとは、その日本人というアイデンティティにしがみつくことで、自分は社会から排除される存在ではないということを示そうとする。
・よって極右を攻撃し、彼らの人種主義を糾弾するだけでは何もかわらない。
・ナショナリズムのコアとなるネーションをベネディクト・アンダーソンは「想像された共同体」と呼んだが、それはなんの根拠もないところから想像されたわけではない。
・アンダーソンの考察をそのまま受け取れば、ネーションとは「言語の共通性」として「主権的」なものとして想像された共同体である。
・国家はこのネーションの主権を行使するが、その代表的なものが物理的な暴力行使(法や警察や軍隊)の権力の実践である。
・これを独占するものが国家であるが、反ナショナリズムの論にはこの物理的な暴力を権力と誰が行使するかは問われない。
・ネグリ=ハートは、資本主義のもにと多国籍業のような資本やWTOやIMFのような国家を横断するものが主権をにぎると推測する(これが「帝国」という概念)。
・そこで、同一性にもとづくネーションでなく、多様性にもとづくマルチチュードが権力をその後に奪取すると構想されている。
・これは結局「国民主権」の概念を反復しているだけではないか。しかもその主権を多様性に基づく群衆が意思決定して行使するための具体的な構想が不在である。
・しかもアンダーソンに即していえば、言語の共通性がないのにそんなことができるのか。(ただし言語の共通性についていえば、その開放性から考えると難しいことではないといえるが)
・いずれにしても、これらの考え方が「国民主権」と同じネーションとナショナリズムの考え方から演繹されて出てきたアイディアにすぎない。
・ナショナリズムはその構成員を文化的に同質にしていくことによって成立した。これは資本主義の形態と密接な関係があるが、そのためのエンジンとなったのもまた国家(ナショナリズム)である。
・マルチチュードの主権を確保するためには、暴力をどのように独占するかが問題になる。
・いくらマルチチュードが権力を奪取し暴力を独占するといったところで、その構成員が国民国家がそうしたように、文化的に同質化されてないかぎり難しい。
・それをやろうとするときに私たちは国民国家の方法を反復せざるをえない。だが、現在、言語の共有化や文化的同質化、資本と労働が循環する空間の均質性などを実効的におこないうる政治的権力は存在しない。
・これがありえない現在は、反ナショナリズムの論者の主張は単なる空想にすぎないし、いたずらにグローバリゼーションを進めることにより、単にナショナリズムを活性化させてしまうたげである。
筆者は、資本主義が世界の隅々をコントロールしだしたとき(ネグリ=ハートの「帝国」)の先に、もうひとつの大きな国民国家がなければならないということを見据えている。つまり批判的ながらも反ナショナリズムの方法論を語っているわけである。ただし、現状ではそれは存在せず、その中ではうまくナショナリズムの暴走をコントロールしていくしかないということだ。
表題の「ナショナリズムは悪なのか」の意味はふたつある。
それまではナショナリズムをうまく活用していくしかない。
つまり、グローバリズムの拡張が「帝国」を準備し、そしてマルチチュードが権力を奪取するまでは既存のナショナリズムを並置しながら、ありうる悲劇を防ぐ。かつ、マルチチュードの権力奪取のためには国民国家のモデルを世界拡張するような仕組みが構想されなければならない。
タイミングの良いことに、さきほどこんなツィートをみつけた。
「国家」というほころびが見え始めたシステムを必死で維持するための試みはこれからも続くと思う。でも、いつまでも持つとは思えない。これから生き残るものの単位は、「都市」と「企業」と「個人」 http://t.co/SYXIg7E3S3
— ちきりん (@InsideCHIKIRIN) 2014, 4月 19
民主主義っていうのは、市場型の意思決定システムなわけだけど、市場が機能するにはものすごくいろんな条件が必要になる。
資本主義も市場システムなんだけど、民主主義より対象とする分野が圧倒的に狭い。そこでは、貨幣価値と生産性最大化という最大公約数的な全体の意思がある。
でも、民主主義にはそれがない。みんなが目指してる方向自体に「だいたいこっち」という目途が(さえ)ない。
それに、資本主義には弱者を切り捨ててもいいという原則がある。たとえば、入社する人を選べるし解雇もできる。だから機能する。国は誰も首にできない。だから解雇できない企業は、国と同様、増大する社会福祉費で破綻しそうになる。
民主主義は、資本主義より複雑で条件が多く、機能させるのがとても難しい。
たぶんもっと分野を絞った局地的な運営システムに分岐させて、新しい運営システム(OS的なもの)を複数作っていく必要があるんでしょう。このまま「全体を統括する仕組み」として期待しても、もう復活不可能な気がします。
あと、シンガポールみたいな都市国家なら、資本主義国によって国を運営するみたいなことも可能だとわかったわけだから、分野なのか規模なのかわからないけど、「細かく刻む」という方法論はヒントになる。(あたしはシンガポールが民主主義だとは思ってない)
この推測の中では資本主義がなんの主権の保護も受けずに自律的に動くと考えているところだ。実は貨幣も法も未だ国家に依存しているのは間違いなく、仮にそれが資本が自由に世界を移動できるようにするためには、世界を秩序づけるための「主権」が必要である。これがどこに置かれるか、この「予言」はその問題についてマンガ的な呑気さがある。
もうひとつ。
本書でもネーションとは何かという議論が行われているが、社会構築主義的な考え方にすればネーションとは近代的なもので、「国民国家」というコンセプトが生み出したものという考え方が主流のようだ。もちろん違うアントニー・スミスのようにエスニシティ(民族性)がもともとあったところから派生したという論者もいる。
この相互扶助という交換原理が必ず社会ではつくられていく。そうしないとその成員は全体して発展できないからだ。
おそらく、市場決定システムが世界を覆い尽くしたあとのニヒリズムに満ちた予言は、同時に相互扶助原理がかけている。それを「都市」が担うのか、それとも資本が担うのか。両者の本質を考えるとこれは残念ながら難しい。
そうなると、萱野稔人がいうように、まだナショナリズムはこのために必要となるし、資本が覆い尽くした世界の中で必要となるのは、その相互扶助を世界的に行えるような新しいナショナリズム(世界共和国)が必要となるのである。マルチチュードの対抗原理のコアはそこにおかれるに違いない。