-->『愛国消費 -欲しいのは日本文化と日本への誇り- 』(三浦展) -「自分らしさ」が「日本探し」に転化したとき - Football is the weapon of the future フットボールは未来の兵器である | 清 義明

『愛国消費 -欲しいのは日本文化と日本への誇り- 』(三浦展) -「自分らしさ」が「日本探し」に転化したとき

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2002年のワールドカップ現象をもとに日本の若年層ナショナリズムについて分析したのは『ぷちナショナリズム症候群』

その続編ともいえるのは本書、三浦展の愛国消費 欲しいのは日本文化と日本への誇りですね。2010年の動向を探っているが、ほとんど古びていない。地元志向や家族重視というところは、例のマイルドヤンキー 』(2014)につながると思われる。そういう意味でもおもしろい。

ただし、もちろんこの人はマーケッターの出身なわけだから、政治的な話には踏み込まない。もちろん話題になった『下流社会~新たな階層集団の出現~』で若者の右傾化を主張して、ずいぶんデータの取り扱いで批判されたということもあるのだろうが。(ただしこの叩かれ方は香山リカの『ぷちナショ』の登場の時と非常に似ている) そこが不満といえば不満だし、ネット界隈の動きもチェックしてないようだから、もうこの頃には、かわいいギズモだった「ぷちナショ」が、モンスター化している動向も本書では反映されていない。

だから筆者はこの「日本探し」という新しい「大きな物語」は政治に転化する土壌になる可能性を示しているわけだが、決定的とはみなしていない。だが、もう決定的に日本探しが、政治的に大きな物語化していることは間違いない。

 

ともあれ内容をざっくりまとめている。

 

・「日本ブーム」とも言うべき動向の正体は「大きな物語」を求める心理である。

・日本という「大きな物語」を求める心理はどうやら90年代に広がった。

・Jリーグが始まり(93年)、ドーハの悲劇(同年)でワールドカップ出場を逃したものの、フランスワールドカップの出場を決める(97年)。その間、野茂は大リーグに挑戦(95年)。スポーツを通じた愛国心が昂揚され始めた時期でもある。

・2010年のGDPで日本は経済大国2位の地位を中国に譲るが、それにほとんどの国民は失望はせず、別の価値を求めている。

・70年代にいわれた「エコノミックアニマル」よりも文化的な国と呼ばれたい、ガツガツ働いてガツガツ消費するのはオサラバしたい。

・脱ガツガツ気分はエコ意識と結びついている。

・しかし日本という意識が、そのまま日本的な消費となっているわけではない。米も魚も和服も消費は減り続けている。(20代は60代の3割しか米を消費しない)

・むしろ衣食住は脱日本化し多様化し雑種化している。その中の純粋な日本をいとおしむ感覚が「日本ブーム」

・今、一番ほしいものは「日本」、そして「日本への誇り」

・過去10年、20代の男性の「国を愛する気持ち」は15.2%増加。(2000年/2010年調査)

・国のために役に立ちたいという人も若年層(18~24歳)で1977年の調査開始以来最大の63.9%(2008年調査)

・日本の古い寺や民家をみると親しみを感じるという20-24歳の割合も過去最高(2008年調査)

・20代の海外旅行者数は1996年が463万人に対して、2009年には264万人と半減

・一方、京都への観光客はこの96年頃から増えだして、2008年には過去最高を記録

・伊勢神宮の参拝客数は2004年の546万人から2009年に799万人と1.5倍増。

・若者の海外旅行の変化

-1960年代「なんでも見てやろう」(小田実)・「ボクの音楽武者修行」(小沢征爾)など海外にあこがれ世界を知る旅
-1980年代「深夜特急」(沢木耕太郎) ~抑圧された社会(日本)からの逃避行/日本人宿を嫌う 世界の中の自分探し
-1990年代「ゴーゴーアジア」(蔵前仁一) ~理想郷などありえない。いつか日本に帰還する自分の中の「日本人」探し

・90年代に個性というアイデンティティより、集団的アイデンティティを前提とする自分探しが始まった。

・同時期に小林よしのりの「戦争論」(1998年) -個より公へ

・自分の中の日本人を探すなら、海外より京都のほうがいいという流れ。同時にスポーツが愛国心を煽りだした時期。

・その日本も大国意識のある日本ではない。日本が大国であるほうがよいは39%、大国である必要はないは55%。(2010年)

・90年代以降、「日本」を応援するスポーツが増えた。大リーグ挑戦するプロ野球選手、サッカー日本代表など。

・音楽も映画もJ-POPだったり邦画が人気。

・これらが排外主義であったり、日本中心主義とは必ずしもいえない。「J的」ともいえる現象。

・政治的なナショナリズムとも結びついているとはいえない。が、いつ転化するかはわからない。その土壌とはなりうる。

・これらを説明するには1980年代の「大きな物語の消滅」(リオタール)というポストモダン(=イデオロギーの終焉)と関係がありそうだ。

・1980年代に「経済大国」という目標が達成され、「革命」の希望も一切消滅し、いずれの大きな物語も失った。

・マーケティングもこの時代にマスマーケティングから小さな個人の物語を商品化する戦略をとりだした

・1970年代に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」となった頃に経済大国の大きな物語は目標ではなく現実のものとなった。

・「モーレツからビューティフルへ」「ディスカバージャパン 美しい日本と私」などが新しい物語となっていった。

-1960年代 政治的反乱
-1970年代 自由をもとめる若者のサブカルチャーの勃興
-1980年代 「自分らしさ」という小さな物語を求める時代

・「自分らしさ」の物語を生きようとして逆にマニュアル雑誌が隆盛した1980-90年代
→「POPYE」「JJ」「東京ウォーカー」etc

・これが90年代に「日本人らしさ」「自分の中の日本人探し」に変化する。

・しかし所詮個人が「自分探し」出来たのは、所詮は大きな物語の上でのこと。それが「経済大国」であったり、「革命」でっあっただけ。

・それが崩壊すると今度は大きな物語をもとめたくなる。

・日本志向は「自分らしさ」を否定せず、かつ安心して同一化できる。「自分探し」が「日本」に反転した。

・「日本探し」の源流は、過去40年の「自分らしさ」を探す潮流から生まれている。

・それは保守化ともいえるが、むしろ生活意識の保守化で、政治的な保守化とはいいがたい。

・その「日本探し」も、経済大国を目指すような「手段的」なものではなく、自己充足的なものである。

・言いかえれば自己拡張というより自己肯定的なもの。

 

以上をもってして、筆者はファスト風土化(チェーン店やファーストフードがならぶ地域意識を感じられない地元化)から、より地域志向が希求され、家族意識や歴史文化意識が高まるだろうことを予測する。が、ここから先の「予測」は自分はあまり興味はないのは上述のとおり。

自分は香山リカが『ぷちナショナリズム症候群』にて、若者の「ニッポン大好き!」減少を、おもに「父権の不在」で説明しようとしていた。自分はこちらにこそ興味がある。

ぷちナショが説く「父権の不在」で、真っ先に自分が思い出したのは吉本隆明のマス・イメージ論

日本の反核運動を「SF的な感受性」と切って捨て、現実から乖離した倫理的停滞と批判した『停滞論』だ。当時の崩壊しそうな家族イメージに、そんな「SF的父親」(ずばり当時の左翼イデオロギー)がつけくわって、どうなっちまうんだよ!と批判していた。

ところが、その吉本自体も家庭では父権とは程遠い家族形成をしていた。娘である吉本ばななの作品群の異様な父親像は、SF的とはいわずとも、十分21世紀的な父権不在の父親像である。

『ぷちナショ』がすこしだけ触れていたこのへんの情勢分析を、本書の主張にミックスすると面白いかと思う。

自分にとって筆者が言う「日本探し」というのは現代的な父権の不在と関係があるような気がしてならないのである。

ちょっと本書の書評とは関係なくなっていくが、1970年代以降のヒットアニメというのは、基本的に①父権が不在(または機能していない)②孤児のような人たちが故郷を失う③戦争を通じて自我を確立していく・・・というストーリーがあまりにも多すぎるのが気になる。といっても、自分はアニメをほとんどみないのでここでうまくまとめることができないままなのだが。

父権の不在が、母性的なイメージとしてある、いわば無害なエコ的なナショナリズムにいくときもあれば、父権そのものたらんとするアニメ的な自我確立のナショナリズムに分岐していくこともある。筆者三浦展やワールドカップに代表されるスポーツナショナリズムが無害なものであるとするのは前者であって、一方で排外主義的な政治的右傾化は後者。そんな風に暫定的に考える次第。

とはいえ、繰り返しになるが、マーケット分析がメインである本書にそこまで求めるのはよろしくない話だ。

 

なお、本書の指摘で面白いと思ったのは、経済的繁栄という大きな物語に充足してしまっているから、「欲しいのは日本文化と日本への誇り」というニーズは、自己拡張ではなく自己充足=自己肯定にむかうということ。

そうすると、例えば日本社会が歴史修正主義で国際社会から孤立しますよというような警鐘は、自己否定につながるから受け入れられないし、少子高齢化は経済的に危機的次元ですから移民を考えないといかんですよというような議論も、自己拡張的な話でこれもリジェクトされてしまうだろう。このへんはいろいろ拡張して考える余地がありそうだ。