一応フランス映画ということになるんでしょうから「原題」となります、この映画のタイトルは「”L’EMPIRE DES SENS”(官能の帝国)」。
もちろん、ロラン・バルトのかの有名な日本論「”L’empire des signes”(表徴の帝国)」に由来するネーミングであろう。
ちなみに、2002のスイスのエイズ撲滅キャンペーンのコピーは、”La preventión dans l`empire des sens”(官能の帝国における予防)だったそうな。
このタイトルからも、バルトの「ジャポニズム」を逆手にとって、大向こう(西洋)の観客を狙う戦略的な挑発ポーズが感じられる。
19世紀のジャポニズムではやし立てられ、西洋の二次元視覚美術に大きな影響を与えた浮世絵は、そもそも春画というエロスとともに発展した芸術だった。その本流は隠蔽され西洋は日本の芸術を評価するが、それは本当はこうなんだぜ!
バルトの日本論は、意味を喪失した記号が中心をもたずに連鎖していく日本の美を見出すけれど、そういう「記号(表徴)」が連鎖する中心に、空虚な皇居(天皇制)があるのは、実は性愛が本当はその中心にあるからなんだぜ!おまえら知ってるか?
そういう作り手の思想的な意気がタイトル一発の向こうから聴こえてくる。
監督は大島渚。そして製作に若松孝二。
ポルノの巨匠してして君臨していた若松はすでに、1965年に「壁の中の秘事」をベルリン映画祭で上映。国外での評価とはまったく別に日本では「国辱映画」と非難を浴びていた。
だから大島・若松コンビは、この映画のコンセプトは海外と国内という2つの方向を同時に挑発することを考えたに違いない。
ちょうど時代は、体制に対する政治闘争が力を失い拡散し、一部は行き場を失ったかのようにして、芸術における性描写の是非をめぐる法廷闘争にたどり着いた頃でもある。
1965年 映画『黒い雪』(監督・武智鉄二)がわいせつ容疑で摘発。
1969年 マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』最高裁で有罪確定。
1972年 戯作『四畳半襖の下張』の版元摘発。
1973年 日活ロマンポルノ裁判
国内配給の映画が摘発されて表現の自由が議論されていくなか、海外製作・配給という方法で、国家の性に対する不寛容への挑発を、あたかも知能犯のようにやり遂げた。
作品は、全編を通して赤裸々な性描写が繰り広げられる。
死体を腑分けして、臓器を取り出し、その血塗られた色に驚嘆する。その驚きが、いつも大島渚の映画の破壊力であり、そして、その手際の精緻さに監督しての執念や徹底的な使命感を観ることになる。
この映画もそれであるものの、露骨な性器表現(冒頭はいきなり殿山泰司のソレのアップ、そして延々これが続く)は、挑発の意図を汲むとすれ、さすがにどうかと思う。
極端に性器の描写を露骨にした春画・・・または危絵(あぶなえ)を思い出す。
すでに性器自体が意味のない意味を成す危絵の世界である・・・としておけばよいのだろうか。
物語としてはいたってシンプルで、松田暎子の演技と艶やかな色彩をどこまで楽しめるかが観る側の勝負ポイントとなりそうだ。
冒頭の殿山泰司が、落ちぶれた酔っ払いの爺さんが、貞を一目見て「どこかで見たことがある」と執着するシーンや、1936年の設定の中、軍靴の兵隊の隊列に反して雪の中をぼんやりと歩いていくシーン、ラストの大島渚自身による「貞は捕まったが、その後、不思議な人気を博した」のナレーション。
このへんがこの作品が、単なる危絵の映画ではなく、わたしたちの心に突き刺さるフックとなっている。
大島渚、創造社/ATGのタッグを捨てて、裸一貫。
そのため、創造社のレギュラーメンバー、佐藤慶・小松方正・戸浦六宏・渡辺文雄といったところは出演していない。唯一、小山明子が料亭の芸者役。
策士若松孝二を相方に選んだ映画というところだろう。
作品は2000年バージョンのノーカット版。
時代は変わる。この程度の卑猥シーンでカットされた部分があるとしたら、現在市場に出回るAVなどは発禁処分ですね。監督は打ち首獄門ですよ(笑)
銀座シネパトスの大島渚特集「日本映画レトロスペクティブ-Part3-~愛と性、体制と権力 大島渚 闘いの歴史~」にて鑑賞。
危絵(あぶなえ)の映画”官能の帝国” / 「愛のコリーダ」 大島渚 【映画】
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