-->ベケットの喜劇のような昭和天皇 / 「太陽」 アレンサンドロ・ソクーロフ 【映画】 - Football is the weapon of the future フットボールは未来の兵器である | 清 義明

ベケットの喜劇のような昭和天皇 / 「太陽」 アレンサンドロ・ソクーロフ 【映画】

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横浜黄金町ジャック&ベティの「平和映画祭名作プログラム」にて、8月15日に鑑賞。
併映が「ヒトラー最期の12日間」。第二次世界大戦の敗戦した側のリーダー二人の終戦をめぐる物語の組み合わせ。
ただし、映画のテーマはまったく違うもの。
ヒトラーがむしろ全うな西欧の人であって、実は、誰もがもっている感性や理性の演繹の結果があの狂気を導き出した・・・というようなところを暗示するのか、まっとうな常識人のヒトラー、それが「ヒトラー最期の12日間」
かたや、こちらの天皇は、まさに無力なボケた老人。
登場シーンでは、常に奇妙な電波音が鳴り響いています。
そして、その天皇を、イッセー尾形のワン・アンド・オンリーな芸風を隅々までに映画に活かしきって再現しているのが、すばらしい。
ソクーロフの日本びいきはわかっていますが、イッセー尾形までもを知っていたということに驚きを感じます。
この映画は、イッセー尾形抜きでは考えられません。
逆に、ソクーロフは、イッセー尾形ありきで、この映画を考えたのではないかと思わせるぐらいです。
ボケた老人のように始終滑稽にクチを空けひろげて、唇を震わせながら、天皇は言葉にならない独白を続ける。
それは無垢な子供のように感じられることもできようが、悲劇は、それが日本の指導者だったということである。
天皇にかしずく人々は、ぎこちない動きでまるで人形かピエロのようだ。
その光景を、詩的な映像の中、ゆっくりとゆっくりと残酷さとコミカルの振幅の範囲で映画は撮られていく。

さて、この無力で電波な天皇について。
昭和天皇は実は戦争回避を願っていたし、その戦争を押しとどめられるような力はなかったのである・・・そういう天皇観は、戦後になってイメージ化された。
しかし、本当にそうなのか?
単純に理屈でいえば、軍事を統帥する権限を掌握している人間が、それは知りませんでした、私の力では無理でした・・・というのは普通では通用しない話だ。
ただ単に、昭和天皇が免罪されたのは、それが占領軍にとって都合がよかったからということだけだ。(もちろん、占領軍の裁判自体も茶番であるのだが)
実際、昭和天皇は、2.26事件以降、真剣に陸軍によるクーデターを恐れていた。東條英樹を総理大臣に任命したのは昭和天皇の直接の意図だ。その理由は、東條ならば、自分の意思を忠実に守ってくれるだろう・・・つまり陸軍の暴走を抑えてくれるだろうということを信用していたからだ。確かに東條は天皇に忠実であった。だが、同時に本当の信義が、必ずしも忠実である人の意思をそのまま守りとおすということではないという、極めて現実的で政治的な発想をする人でもあった。結局、天皇の考えは誰にも聞き入れられなかった。
昭和天皇が、実は無能であり、軍の横暴に押し切られてしまった・・・というのは、そういう意味では確かにそうなのだが、実際は、昭和天皇はそのような愚鈍な人ではなかったのは明らかだ。
太平洋戦争に至る昭和15年戦争の歴史の悲劇の難しさはそこにある。
この映画の脚本から判断するに、ソクローフはある程度昭和史に精通しているに違いない。
1913年のアメリカの日本人移民排斥法からアメリカに対する感情が悪化したというくだりや、皇太子(現在の天皇)への手紙などからもわかる。
ソクーロフは、だから、あえて電波の中の天皇を描こうとしたに違いない。
もしくは、どんなに人格者であって立派である人であっても、結局、昭和史の天皇というのは、そういう戯画化されてしまうような存在でしかなかったということを伝えたかったのだろう。
電波の中の天皇、それはあたかもベケットの喜劇のようである。
そしておそらく、イッセー尾形は、かなりベケットを意識していたとも思う。
ベケットの「ゴドーを待ちながら」は、何かを待ち続けて意味のない奇妙なやりとりを繰り返す二人連れのコントだ。
「ゴドー」というのは、もちろんGODのことであろう。神様がいつかやってくるという妄想の中にいる滑稽さ。
今回は、そのゴッドそのものの滑稽だ。
映画は、天皇の人間宣言に向けて進んでいく。
かつて、「天皇機関説」というのが議論になったことがあった。
法学的には「天皇」というのは国権の機能のひとつだ、ということなのだが、神である天皇に対して不敬であるという意味で、この説は弾圧された。
これに対して、天皇は内々では、その説は正しいと思うし、そもそも自分は人間であって神ではない、ともらしていたことがあるという。
人間宣言を筆記した若者は自殺した・・・それがこの映画のラスト。
悲劇でもあり、喜劇でもあり、そしてそれをソクーロフは、静謐に淡々と描き出している。
大変興味深い作品でした。
◇ソクーロフ監督インタビュー

FWF評価 ☆☆☆☆★

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