-->ドアをノックするのは誰か / 「鬼が来た!」 ジャン・ウェン - Football is the weapon of the future フットボールは未来の兵器である | 清 義明

ドアをノックするのは誰か / 「鬼が来た!」 ジャン・ウェン

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鬼が来た!
中国では「鬼子」といえば外国から侵略してきた兵士を意味する。
日本軍は「日本鬼子」といわれたが、これはもともとアヘン戦争などの頃にイギリス兵などを「鬼子」と呼んでいたものをそのまま流用した言い方らしい。
民族学や人類学のいうとおり、「鬼」はもともと異国の人々の形象を、恐怖の側面をカリカチュアしてつくられたものなのだから、中国の人々が外国兵を鬼と呼んだのは的を得ている。
しかし、この「鬼」というのは、はたして日本兵のことだけのことなのか。
映画のラストシーンで、モノクロだった画面は最後の最後ではじめてカラーになる。
どさりと土の上に転がり落ちた生首からの視点から、はじめてリアリティのあるカラーになるというのは、ショッキングでもあり、また何かの問いかけをわたしたちに突きつけてくるかのようだ。
終戦も近い華北の湖(河?)に近い小さな村落。
日本の海軍の哨戒艇の基地となっていると思しく、下級兵士の略奪や日本軍の専制に日々苦しめられている村人の占領下の日々が続いている。
ある日の夜、何者かが二人の日本軍の捕虜を主人公の家に銃をつきつけておいていく。預かっておかねば、おまえを殺すと脅しに、主人公は思い悩むが、結局は村人とともにこの日本兵を隠しておくことにする。
秀逸な演技をみせる香川照之の日本兵の、虜囚の辱めから狂気スレスレの自虐的な振る舞いと、それを理解しない村人のコミカルなやりとりから物語はゆっくりと始動する。
捕虜となった香川の陸軍の原隊の隊長がふりまくホモセクシュアルなナルシズムと、カリュギュラのような暴君ぶりを差し挟みながら、まったくもって不条理な虐殺をピークにしつつ、最後には国民党占領下の戦後に、日本兵に復讐を試みて、秩序を乱したとして同じ中国人の命で日本兵に斬首される主人公のラストが燦燦とラストに光を放つ。

日本軍の兵士が中国兵(中国人)に捕虜になり、「生きて慮囚の辱めを受けず」の戦陣訓の戒めから思い悩む設定は、1950年の谷口千吉作品「暁の脱走」から想を得ているのだろう。虜囚の生活の中で頭を壁や柱に打ちつけるシーンや、兵士の隊列を迎える従軍慰安婦の屋形のアングルなどからそれをみてとることができる。
日本映画では、戦後の無垢な史観により、開放された中国のその後の悲惨を描くことができなかったが、これが中国人の視点からすると、日本兵が去った後にもさらに悲惨が続いていく続きがある。
そもそも村人に銃をつきつけて日本兵をおしつけていったものは何者なのか、これは最後まで触れられない。共産党軍なのか国民党軍なのか匪賊なのか、それとももその他の軍閥なのか。わかるのは、もともとこの村人が、日本兵ではなくとも違う「鬼」と対峙していているということである。それは侵略してきた外国の兵とは限らない。
路上に斬首されて転がる生首からの視点が、突如赤に染められたスクリーンで広がるときに、現代中国史の複雑で悲惨さを、これが現実だと強力に訴えかける。おそらく、この映画の仕掛けはそこにある。

監督と主演は姜文(ジャン・ウェン)。「紅いコーリャン」では、俳優として彼は日本軍と映画の中で対峙し続けてきたが、これは監督作品。
すでに「芙蓉鎮」などでの名演から、名声を博してきた彼は監督でも2作目。多才な人である。
この映画のさらに特筆すべきところは、日本兵の描写の的確さとバイ・プレイヤーの演技の迫力。悪逆非道な日本兵は中国の近代史を取り扱った映画では欠かすことができないのであるが、この映画では相当にうまく撮りこまれている。キャラクターの造形がここまでうまくできた日本兵が出てくる中国映画はそうそうにないのではなかろうか。

様々な意味で名作であるが、中国では検閲をしないままカンヌに出品したため上映が許可されていないということ。

新宿K’sシネマ「中国映画の全貌2010」にて。

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