この本、「地獄の黙示録」を考えるうえでは外せない一冊ともいえる書籍であるのだが、その作品の読みかたを切り分けていく返す刀で、痛烈に戸田奈津子女史の字幕について批判をしているくだりがある。
これは誤訳ではないにしろ、かなりの不親切な訳であり、作品を理解するための大きな妨げになっているのではないかというのが、立花隆の主張。
そのなかで指摘された代表的なものに次のようなセリフがある。
マーティン・シーンのウィラード大尉が、司令部でカーツ大佐に関する指令を受けるシーン。
カーツ大佐をなぜ殺さねばならないのか、それを説明する司令官のセリフがそれ。
(まだ若きハリソン・フォードが端役で出てくるシーンです)
“His methods became unsound”
これを戸田女史は
「彼の行動が異常になった」
と字幕にした。
これに噛みついたのが立花隆。unsoundを「異常」と訳すのでは、この指令の不気味さや不可解さが、もってまわって言葉を選んだ、同じアメリカ軍人に対する殺人指令として伝わらないのではないかと異議を唱えたわけである。
ちなみに、これを立花隆は「彼の方法は不健全になった」と訳している。
ようするに、ただでさえ難解な映画にも関わらず、それをさらにいい加減な訳でわからなくしているというのが、立花隆の主張である。
だが、本書「字幕の中の人生」を読んでみると、どうやらこれは立花隆のほうが映画の事情をよくわかってないというのがよくわかってくる。
このへん、大変面白い。
まずは、世界の中でこれほどまでに外国映画が字幕で上映されているのは日本だけであるということ。
ほとんどの国は吹き替えが主流で、俳優の声を大事にして字幕を選ぶような趣味は珍しいとのこと。
そのため、インデペンデントで映画で、アート性を前面に出す映画でさえ、吹き替えでないと配給側は難色を示すらしい。
よくあるようにヨーロッパの人が出てくる話なのに、なぜか皆最初から英語をしゃべっているようなことは、これが理由なわけである。
ソフィア・コッポラ監督の「ロスト・イン・トランスレーション」という日本を舞台にした、スカーレット・ヨハンソンとビル・マーレイの映画があった。あれは日本に来たアメリカ人が徹底的に日本語がわからずに途方にくれるエピソードだらけのストーリーだったわけだが、なるほど、あれはきっと字幕も日本語も吹き替えされていないところに、あの映画の妙味があったわけですね。
普通だったら、日本人は流ちょうな英語をしゃべったりするわけです。例えばラスト・サムライみたいに。
トーキーがはじまってから、字幕に慣れてきた日本人だったとしても、字幕には限界がある。
だいたい、文字数にして、縦1行10文字が限度で、一秒間に3・4文字というところが読み切るスピードの限界。
これを超えると、字幕が読み切れないということになるし、それにばかり意識がいってしまい画面が追えないということにもなる。
「字幕を読む」というが、人は実際には字幕を読んでいない。チラッと目で見て内容をつかみ、あとは画面のアクションや俳優の表情を観ている。当然である。観客は映画わ観にきたのであって、字幕を読みにきたのではない。言いかえれば、字幕はチラッと目を走らせただけで、なんなく内容のつかめる文章でなければらない。
あまりに原文至上主義の正確な訳し方や、リアルすぎて話し言葉調になっているのもダメな字幕。
映画の中の登場人物の声を聞きながら、自然と頭にはいっていくるような自然な役がもっともいい字幕。
映画をトータルに楽しむことを困難にするような字幕のつけかたに、私は賛成ではない。
オリジナルのセリフを尊重しつつも、映画をトータルに楽しむために、この「余分な作業」は負担にならない程度のものであってほしい。そこにはおのずと正しいバランスがあるはずで、そのバランスに忠実であることが、字幕をつくるもののもつべき姿勢であり、責任であると思う。
ここまで読むと、立花隆の主張が、字幕翻訳がもっとも気をつかって考え抜いた末に身につけていった技術とかけ離れていることがわかってくる。
超大作「地獄の黙示録」の翻訳は、単に戸田女史がコップラの通訳をしていたから偶然にまわってきた仕事で、まだこの頃は彼女には大した字幕翻訳の実績はなかったそうである。
コッポラ本人から抜擢されて手がけた仕事が、立花隆のような門外の著名な評論家に批判されたのに、この作品以降、戸田奈津子が本格的に字幕翻訳の仕事をはじめるのは、映画業界の関係者が皆このことをわかっていて、どちらが正しいのかをキチンと理解していたからだろう。
いずれにしても、金枝篇をはじめとする神話学の知識、エディプスコンプレックスや聖書、コンラッドからドアーズまでの造詣がないと理解しきれない広大な作品であり、最後の最後にはコッポラ自身まで収拾つけられなくなってもしまったテーマの作品であるから、仮にどんな翻訳者が訳したとしても難解なのは間違いない作品が「地獄の黙示録」。
【参考】アメリカの2つの神話の闇の奥 / 「スターウォーズ」と「地獄の黙示録」
そして、この作品は戸田奈津子の字幕翻訳者としての出世作になる。
「フルメタルジャケット」で、スタンリー・キューブリック監督が戸田女史の翻訳を他の人間にやり直させたエピソードについても語られている。これも興味深い。
キューブリックの完全主義は知る人ぞ知る話だが、どうやら翻訳にも完璧主義で、いつも翻訳したものをまた英文に逆翻訳してチェックをしてるとのこと。
そのために、例えば”Son of a bitch”というようなセリフでさえも、「メス犬の息子め!」というような訳にすることを求めてくるらしい。そんな訳はどう考えてもおかしいし、これまでの戸田女史のポリシーからいえば、「バカヤロー」とか「この野郎!」ぐらい翻訳するのが自然だろう。そして、そっちのほうが観るこちらとしても正解だ。
さらには軍隊のシゴキのシーンの中で「ケツの穴でミルクを呑むまでしごき倒す!」というような罵倒語まで正確に訳していったら、それはどうなのかと。
これも戸田女史のほうに分がありそうだ。
さて、一方で、今度は戸田奈津子の誤訳についての話も多数ネットには転がっている。
◇wikepedia”戸田奈津子”
確かに言い訳できぬレベルの誤訳も多数あるわけだが、これの理由も直接は触れてはいないものの、しっかりこの本では書かれてある。
一番説得力があるのが、巻末に付せられた戸田女史の担当字幕作品一覧。
1980年の「地獄の黙示録」以降、年間で十数本の字幕を担当しているが、90年代からその本数が圧倒的に増えてくる。
92年:38本
93年:34本
94年:29本
95年:50本(!)
96年:46本
年間50本ということは、休みなしに働いて一週間に1本の映画を翻訳していることになる。
さすがに、これはどうかと思う。
さらに、フィルムの到着はいつもギリギリであり、試写会までに本当に数日の時間しかないようなこともあるらしい。
確かにこれでは、難しいテーマや方言やスラングが混じった、翻訳が難しい映画でなくとも誤訳のひとつやふたつもしそうである。
実際にいくつか戸田女史がやってしまった誤訳や指摘されてなおした話などもいくつか出てくる。
が、これは戸田女史でなくともありうる話なのではないだろうか。つまり、字幕をつけるための配給会社の段取りと、さらに字幕翻訳するコストが非常に安く、あまり人手をかけられていない現状が問題なのである。
そんなわけで、勉強になった一冊です。
けっこう映画好きならマストな書籍じゃないでしょうか。
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