中国の1978年、文革終了直後の開放路線の中で始まった、中国における空前の日本映画ブームについて概括してまとめた新書。
以前、「君よ憤怒の河を渉れ」(1976年/佐藤純弥監督)が、中国で絶大な人気を博したという話を書いた。
正直、この時点では、自分にはこれが何故中国で「大ヒット」となったのか、さっぱり理解できなかった。BGMとなっている奇天烈なシンセサイザーの音に、?マークが頭の中を飛び交い、そのままエンディングとなったというのが正直なところだ。あまりに奇怪な作品、これが国際的な観賞に耐えうるものとはとても思えなかったのである。
ようやくと、この「中国10億人の日本映画熱愛史」によって、その人気の源泉がわかったのである。
1905年から中華人民共和国の成立の1940年代末までの45年間に1600本もの映画が、東洋のハリウッドと称されてきた上海を中心に制作されてきた。それ以降も映画制作は続いていたのだが、次第にソ連式の文化芸術の管理体制が敷かれはじめ、ハリウッド映画は禁止され、自由な映画制作もままならないようになっていく。
そして、1966年から1976年までの文化大革命期にこれが完全にストップする。
この10年間に制作された映画は、社会主義的演劇の映像化作品を中心に、プロパガンダ映画がわずか70本程度が製作されるのみとなる。
その文化大革命の終焉とともに、これまでの文化大革命で否定されたものが、少しずつ復権されはじめてくる。
映画もその中のひとつなのだが、それよりも重要なのは、豊かさを肯定的にとらえる視点や、家族や恋人に通じ合う愛情の感覚、センチメンリズムなど、これまで「ブルジョア的」「反革命的」と糾弾され失われつつあった感情そのものが、やっと公に表現できるようになってきたことである。
文革時、家族愛は否定され、子は紅衛兵の吊るしあげの中に加わり自分の父を糾弾した。
この光景は、チェン・カイコーも後年に告白しているし、「ビートルズを知らなかった紅衛兵」の著者も書きとっている。
革命はヒューマニズムやセンチメンタリズムに惑わされるような軟弱なものであってはならない、それは暴力的なものである。
だが、その否定に継ぐ否定は、数百万人の死者と経済的・文化的な混乱を拡大するだけであった。
実の父や肉親を否定し、唯一の父を革命の父、毛沢東に捧げた中国人民は、やがて、その毛沢東の死とともに、いわば孤児となる。
文化大革命の終了とともに、時には死とともに失われた名誉や財産や地位が、失墜した人達に戻ってくることになる。しかし、そこに復讐は許されなかったし、ほんの一部のものを除いて文革の罪は問われることはなかった。
(文革終了11年後、「芙蓉鎮」の中で、やはり文革時代に映画監督の地位をはく奪され、地方に下放させられた謝晋監督によって、この光景はシビアに描かれている)
1978年に改革開放路線の一環として、日本映画が解禁される。文革後に一般公開された初の資本主義国の映画である。このときの最初の3本が、「君よ憤怒の河を渉れ」、そして「サンダカン八番娼館 望郷」「キタキツネ物語」だった。
これらの映画の中で、「君よ憤怒の河を渉れ」には、これまで否定されてきたキーワードが特に多数ちりばめられていたのである。
「都市」「ファッション」「恋愛」「家族愛」「復讐」。当たり前の70年代日本の都市風景やファッションに、中国の人々は一様に驚いたし、恋愛や家族愛のようにセンチメンタルな感情があけっぴろげにやりとりされるストーリーもこれまで禁じられてきた惰弱なブルジョア・ヒューマニズムであり、新鮮であった。
また主演の高倉建は、寡黙でめったに感情を大げさに表さない役柄であったが、これはプロパガンダ映画の饒舌な登場人物に慣れてきた中国の人々にはクールにみえた。
いわれなき罪のために迫害されながら、冷静に難局に対応し、非人道的な敵方のやり口に超人的に対抗していく。しかもファッションはおしゃれであり、都市の光景の中で復讐は貫徹されていく。
女性も自分の家族のブルジョア的な育ちを打ち捨てて、迫害される人への愛のために自分の身を投げ出しながら、これもまた超人的な活躍をしていく。
ハリウッド的な映画文法では当たり前の登場人物の役回りと人物造形だが、これは確かに全て文革時に否定されてきた要素だらけである。例え拙くとも、これらをちりばめた「君よ憤怒の河を渉れ」が衝撃的であった理由がわかる。新しい中国の時代の象徴として、この映画は受け入れられたわけである。
それだけではない。高倉健は中国で国民的な人気を得たし、新しい日本人のイメージをつくりだしたと言えるだろうし、これに続く日本映画の人気は、しばらく衰えることはなく、テレビの普及がはじまる1980年代まで続いていく。
「日本映画の人気が衰退」といっても、それは狂熱的な人気が衰えたということであり、「君よ憤怒の河を・・」のように10回以上観たとか、深夜の回まで延々上映されてそれでも全上映回が満員とか、チケットの取引価格が10倍、屋外上映に一万人集まり、そのスクリーンの裏側に、左右逆転した巨大な白布を観る数千人観客がいたとかいう話がなくなったというだけである。
また、映画製作人にも影響を与えたことも多いという。編集技法やカメラワーク、シンセサイザーの音楽、さらにはファッションまで、後に続く中国映画は多大な影響を受けたという。
「砂の器」や、栗原小巻主演の「愛と死」などについては、この書籍でもページを割いてその人気の余波や映画人に与えた影響を解説している。その他も多数の日本映画が大ヒットしている。
山口百恵がテレビドラマ「赤い疑惑」シリーズによって、これも凄まじい人気となったことも、コン・リーの「菊豆」の映画評の中で書いたが、映画のブームの後には日本のドラマが大量に解禁されて、「おしん」をはじめとして、大きな反響となったこともこの書はまとめている。
多くの日本映画やテレビドラマ、近年ではトレンディドラマやアニメまで、日本映像カルチャーが中国の現代文化に大きな足跡を残したこと、そしてその背景がうまくまとめられた書籍である。
ただし、これらの日本映像カルチャーがどの時代においても政府の政策と密接にかかわり合いがあるのであって、よくよく考えてみると、どれもこれも中国の国策が反映された証左といえなくもない。
80年代中頃から、中国映画は国際観賞にも耐えうるクオリティを認められはじめる。国際賞を獲得する映画も多数現れ、正直、近年では映像スケールやビジュアルクオリティでは、自分はもはや中国映画に日本映画が追い抜かれつつあると考えざるを得ない。
これもひとつの国策であると考えているのだが、これはまた別途何かの機会にまとめてみたいと思う。
そんな意味で、今もいろいろと喧しい日中関係であるようですが、高倉建や山口百恵とかを前面に押し出していく日本の国策もあったりするんじゃないでしょうか(笑)
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