「地獄の黙示録」は、当初ジョージ・ルーカス監督のもとで撮られる予定だった。
当時、「THX-1138」という悪評紛々たるSF前衛映画をつくったばかりのルーカスは、その後始末に追われていた。ギャラの取り分で揉めている間に、所属する映画会社ゾアトロープの社長であるコッポラは、勝手に予算を集めて、フィリピンでその映画の撮影を開始してしまった。
憤懣やるかたないルーカスは、これまで考えていたその映画のコンセプトをあきらめず、「オレはオレの『地獄の黙示録』をつくる」と言い捨て、次の作品の構想を開始した。
「THX-1138」の失敗から今後は一転して大当たりをとった「アメリカン・グラフィティ」のロイヤリティをつぎ込み着手したその物語は、最初「メース・ウィンドゥの物語」と名づけられていた。「遠い昔、銀河の遥か離れた片隅で・・・」というお伽話風のテロップから始まるその作品は、後に「スターウォーズ」というタイトルになり1977年に公開される。
「地獄の黙示録」が公開されたのは1979年。
スターウォーズよりも数年前にクランクインされていたにもかかわらず、公開はスターウォーズに2年遅れている。
本稿では、フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスという70年代のアメリカン・シネマの土壌で独自の映画的な偉大な足跡を残した2人が、新しいアメリカの神話というテーマで2つの巨大な作品をつくりあげた背景についてまとめたい。
ベトナム版とSF版の「地獄の黙示録」
ジョン・ミリアスが、ベトナム戦争のシュールで狂気に満ちた戦場をシニカルにとらえた作品を最初に構想し、それにコンラッドの「闇の奥」の物語をベースとしてもってきた。
「闇の奥」は、エリートコースを歩んでいた貿易商の男が、その明敏な知性ゆえに、アフリカの奥地で精神に破綻を来たし、狂気の王として君臨するストーリーだ。
植民地支配の矛盾というテーマを、ミリアスは現代のベトナム戦争の舞台にもってきたわけである。
善と悪が入り混じり、それ引き裂かれる狂気と苦悩。それは、コッポラの「地獄の黙示録」のシュールな戦争シーンやエピソードの中に圧倒的に描かれている。
しかし、この基本ストーリーに対して、コッポラとルーカスは、さらに異質の物語の原理を持ち込んだ。
その物語構造を「スターウォーズ」と「地獄の黙示録」とが共有しているからこそ、「スターウォーズ」は現在、その物語構造から先に進むことができていない。
たぶん、スターウォーズは初期構想と呼ばれている9部作のうちの7番目の物語はつくられることはないだろう。極めて作り難い理由がある。
神話要素の導入:「エディプス神話」と王権継承の神話群
コッポラとルーカスが、ミリアスの「地獄の黙示録」のコンセプトにさらに付け加えたのは、神話要素である。この物語は、エディプス神話と王殺しによる王権継承の神話群の2つの神話構造がベースとなっている。
「地獄の黙示録」の冒頭に流される音楽は、ドアーズの「ジ・エンド」。独特なピッキングでシタールに似た呪術的な旋律を紡ぎだすギターに、フェンダーのキーボード・ベースがうねり、そこにジム・モリソンの朗読が重なる。
「父さん、僕はあなたを殺したいんだ。母さん、僕はあなたと・・・・」。エディプス・コンプレックスを直接的に取り上げた悲劇的な作品であり、この曲はそういう題材をとりあげることにより、ロックやポップの枠組みから突出している。
エディプスの神話は、王権継承の禁忌の秘め事に迫る。実は自分が親を殺し、母を娶った忌まわしい存在であるという秘密。しかも、そのことは自分が全く意識しないあいだに完遂されている。
スターウォーズは、父殺しの物語である。
ダークサイドに落ちた父を殺さなければならない。しかしそれは病んだ世界に光明を取り戻すための手段なのだ。
ジェームズ・フレイザーによって著された未開社会の神話や宗教に関する研究の金字塔ともいえる『金枝篇』では、「森の王」の王権を巡る神話を伝えている。病んだ世界の中心にいる王を殺すことによって王位はそのものにより継承され、世界は豊かな空間として回復される。
金枝篇が伝える王位の継承者は聖なる樹の金の枝を持つものとされている。その金の枝を折ることができるのは逃亡奴隷だけ許されている。
逃亡奴隷の父殺しによる王権継承。スターウォーズのサーガの前半(エピソード4からエピソード6まで)は、そういう物語に要約できる。もちろん、王権の継承者であるルーク・スカイウォーカーには、そういう意識はない。奇妙な運命があり、目の前の善を成すことに一生懸命なうちに、父と対峙し、そして父に許されるがごとく殺しが行われて、そしてそれが王位を彼にもたらし、そして世界は秩序を回復する。
一方、「地獄の黙示録」のカーツ大佐を抹殺することを指令されてきたウィラード大尉には、カーツ大佐との血縁関係はない。しかし、彼が傍観者的な気質であることをのぞけば、カーツ大佐と似通った性質であり、そして自分自身がカーツ大佐の物語を、違った位相で引き継ぐものとしてのクローズアップされている。
俺が彼の物語を伝える羽目になったのは、思えば偶然のことではない。
彼の物語は俺の物語。
彼の物語が懺悔録ならば、俺のも同じだ。
「地獄の黙示録」:ウィーラード大尉の台詞より
「スターウォーズ」が、神話的要素を一本の柱として、壮大な未来の冒険譚である一方、地獄の黙示録は戦場の壮大なカタルシスと狂気を背景にさらに神話世界の謎そのものに迫っていく。
人はなぜ「ダークサイド」に堕ちるのか
両作品が人間がダークサイドに堕ちていく秘密を次のように解き明かしている。つまり、愛といったものでさえ「恐れ」を媒介すると、ダークサイドに転化する。そのように理性や正義が簡単に悪を生み出す構造があるのだ。さらに、それに真っ向に向き合うものは、存在そのものが引き裂かれてしまい、「地獄に落ちた激しい魂」(T.S.エリオット)となる。ダースヴェイダーとカーツ大佐は、そうした逆説としての犠牲者なのだ。
-人間の心には戦いがある。理性と非理性や善と悪との戦い。そして、善が必ずしも勝つとは限らない。時には『ダークサイド』が勝利して、リンカーンの言うところの人間の「善性」を打ち負かしてしまうこともある。
「地獄の黙示録」:ウィーラード大尉にカーツの暗殺指令を出す情報将校の台詞より
-怖れはダークサイドへ至る道じゃ。怖れは怒りに通じる。怖れは憎しみに通じる。憎しみは苦しみに通じるのじゃ。お前の心に大きな怖れを感じるぞ。
「スターウォーズ・エピソード1」:ヨーダが若きアナキンを諭す台詞より
-私は恐怖を見た。おまえが見たものと同じ恐怖を。・・・言葉で言い表すのは難しい。恐怖を知らぬものに何が必要なのかを。言葉で説いて言い表すのは不可能だ。恐怖には表情がある。それを友にしなければならない。
「地獄の黙示録」:カーツ大佐の台詞より
これで終わりだ、すばらしい友よ
これで終わりだ、ただひとりの友よ“The End” The Doors
王権継承後の困難
病みながら君臨する王の地位を継承する以外に、世界に救済はもたらされない。
そうして、ルーク・スカイウォーカーは父ダース・ヴェイダーを殺し、ウィラード大尉は、カーツ大佐を殺す。
幾つかのプロットの違いはある。
スターウォーズで君臨する王は、ダースヴェイダーが「父」のような存在として敬愛してきたパルパティーン皇帝ではある。ダースヴェイダーは、自分が息子に負けて、ダークサイドから生還するとともに、今度は自分の「父」であるパルパティーン皇帝を殺す。スターウォーズ・エピソード6では、一挙に3代の父子の王権継承の物語が完了するのだ。
しかし、「地獄の黙示録」の方は、さらにプロットは謎を呼ぶ。ここはスターウォーズの作られていないエピソード7以降の物語に関係する。
ウイラード大尉は、カーツ大佐の不可思議な庇護の下、暗殺命令を出した軍との連絡を絶ち、その意向とは別に、自分自身の選択として、カーツ殺しを行う。
カーツ大佐の机の上には、王殺しの由来が書かれた「金枝篇」(J.フレーザー)と、病んだ王のために槍と聖杯を探しに旅に出る騎士の物語「聖杯伝説」を分析した「祭祀からロマンスへ」(J.L.ウエストン)の2冊が、これみよがしに置かれる。
病んだ王と苦難に陥った世界を救うための2つの物語を分析する書物が、同じのテーブルに、聖書とともに雑然と並べられている様は象徴的だ。カーツは、王が病んだときに、若き継承者によって王が殺されることによって、その王権が継続される選択と、王のために若い騎士が聖杯をもらたすという選択の2つを併置している。
カーツにとってそのどちらかでもよかったのであろう。判断はウィラード自身に委ねられている。
王殺しを選択したウィラードのその後は複雑だ。
カーツの苦悩を知ったウィラードにとって、軍に戻るつもりはない。象徴的な祭祀が行われるなか、カーツを殺害したウィラードを、再生を象徴する恵みの雨が降る中、住民は武器を捨て、伏して迎える。だからといって、カーツの王国をそのまま継承するつもりもない。
再生と救済はカーツの王国では成し遂げられたものの、果たしてそれはこの世界に訪れたことになるのであろうか。ヴェトナムから遡る、無意識の世界のようなジャングルの闇の奥。それに似たものは、実はいくつもあるということを表したのが、「地獄の黙示録-REDUX(特別完全版)」にて追加された、フランス人プランテーションのエピソードにある。カーツの王国は救済された。しかし、それが本当に世界の救済にいたるものなのか。
(ちなみに、この「完全版」ではカットされた幾つかのエピソードが追加されているが、もっとも大きな違いはラストシーンにある。あの圧巻となる美しい、ラストシーンの王国の爆破の光景が丸ごと削除されているのだ。これは、旧バージョンに寄せられた、王国がなぜ最後に爆破されるのかという疑問に答えたものと思われる。コッポラ自身は、あのシーンはイメージに過ぎないし王国は爆破されないと言っていたらしいので、よりこの結末の意味が明らかになったのである。むろん、あのシーンがカットされてしまうというのも残念な話なのだが)
「地獄の黙示録」に、コンラッドの「闇の奥」の筋立てをそのまま適用するならば、ウィラードはこの後、カーツの家族に会いに出かけるだろう。カーツを殺して彼の王宮を出るウィラードの片手に大きな書類の束が抱えられているのが、その証左である。ウィラードは彼の家族に会い、彼の「功績」を伝えるだろう。しかし、その後にウィラードはどこにカーツの王国を継承すればよいのだろうか。きっと彼はアメリカに帰る。そこに彼のダークサイドの王国は築かれることがあるのだろうか。
おそらく、本当の王国は彼がこれから帰るアメリカそのものなのではないか。そこには無数の病んだカーツがいて、大地は荒廃しているだろう。
一方、共和国での王位たる地位を継承したルーク・スカイウォーカーは、ジェダイマスターとして一見してハッピーエンドとなったかのようにみえる。
幾つか発表されているスターウォーズのスピンオフ小説を考慮に入れないで、この後のルーク・スカイウォーカーの物語を、物語構造の定型として想像してみる。
きっと彼は彼の王たる出自と継承の物語をもう一度繰り返さなければならない。そのときに王位を継承するアウトサイダーがまた現れるのだ。アウトサイダーがダークサイドなのかも知れないし、またはスカイウォーカー自体がダークサイドに落ちるのかも知れない。いずれにせよ、スカイウォーカーは、病んだ王として乗り越えられなければならない存在に堕落する。
ヒントはいくつかある。
スターウォーズ・エピソード4から6まで、特に終盤に向けて、ルークの服がどんどん黒い色になっていくのに気付いていく人はいただろうか。ダークサイドの誘惑は近づいているのだ。
あたかも、カーツの懺悔をウィラードが共有していくように、ルークは父の物語を共有していくことになろう。この困難な物語の繰り返しをスターウォーズ・エピソード7は引き受けなければならない。
苦悩するカーツ大佐はT.Sエリオットの「荒地」の詩篇を朗読していた。エリオットは、「荒地」の後に、荒れ果てた世界の回復と神の恩寵を求めて、「四つの四重奏」を書き起こす。これと同じ苦難がルーク・スカイウォーカーには待ち受けている。
理性は神話を反復する
植民地時代のアフリカに舞台を取るコンラッドの小説にならって、無意識を探索するようにベトナムのジャングルの闇の奥へ川を遡行していくプロットは、神話要素を絡めながら、とてつもない謎を秘めた映画作品として結実した。
神話要素は、内省に結びつかなければ機能しない。単なるロマンとしてしか読まれない。「スターウォーズ」も「地獄の黙示録」も、SFアドヴェンチャーとして、戦争スペクタクルとして観ることはもちろん可能だ。しかし、それだけではダメなのだ。
例えば、ちょうど今日、「地獄の黙示録」と「スターウォーズ」が人間がダークサイドに堕ちる理由として説いたものと似たような話が新聞に出ていた。
9.11多発テロ事件がおきた直後の米国は、国民の両親に照らして、前例のない規範に基づいて行動した。希望と楽観主義、忍耐と機会という伝統的な価値観を示すより、むしろ怒りの形相を世界に向けた。多くの意味でわれわれは平静を失ったのである。
その結果として、我々が見たのは失望である。
R.アーミテージ元米国務副長官:08.2.24読売新聞「地球を読む」より
狂気と矛盾に満ちた戦場の「理性」が悪に容易く落ちていく変貌。「啓蒙はラディカルになった神話的な不安である」とアドルノとホルクハイマーは喝破した。理性は神話要素のダークサイドの物語を反復する。
映画の中ではそれは善悪の彼岸に位置する物語だ。
2つのアメリカの新しい神話
きっと、ルーカスとコッポラは誓っていたのだろう。オレたちは新しいアメリカの神話をつくる、と。
そのためには、多くの神話と同じく闇の奥に遡行して、残酷な禁忌を取り扱わなければならない。しかも、それは壮大なショーとして映像化されなければならない。
コッポラは、これみよがしで神話要素をそこら中にちりばめた。ルーカスはアメリカの建国の歴史をパロディめいた仕立てで映像に織り込んだ。関税同盟・市民戦争・評議会が共和国と帝国の歴史を動かす。
だが、その神話の本当のコアの秘密に気付いているものは少ない。思い起こしてみよう、神話というのはもともととてつもなく残酷なものなのだ。それに気付くものと気付かないものの頭上に聳え立つのが神話作用だ。
「地獄の黙示録」で音響を担当し、ジョージ・ルーカスとも様々な仕事をともにしているウォルター・マーチは次のように語っている。
「地獄の黙示録」で本当に探求したいのはヴェトナムの何だったのだろう。中心となる物語はなんだったのか。それはある小さな部族民が、その時代の銀河で最大の軍事力を持つ帝国の攻撃に精神力で抵抗するという話であった。そこで彼(ジョージ・ルーカス)は自分が語りたいと思うその物語を選び、政治的な社会的な文脈をすべてはずして、はるか彼方の銀河を舞台に設定した。・・・反乱軍はヴェトナム人、帝国は実はアメリカである。だから「スターウォーズ」は本当は「地獄の黙示録」のジョージ流の作り方だった。」
ルーカスとともに、途中から「地獄の黙示録」のプロジェクトをはずされた原作脚本を書いたジョン・ミリアスは、この説を一笑に付す。ルーカスは闇の奥さえ読んでいない、と。しかし、ジョン・ミリアスのシュールで狂気と矛盾に満ちたヴェトナム戦争のアメリカというコンセプトから、ルーカスとコッポラは、もう一歩先に進めた物語構造を取り入れていたことはこれまで説明してきたとおりである。「スターウォーズ」がルーカスの「地獄の黙示録」となるという意味はここにある。
やや浅薄なウォルター・マーチの読みは参考程度にしておこう。彼はポイントだけは抑えている。
狂気と矛盾に落ちた帝国、そしてそこからドロップアウトしていく男の「地獄墮ちした激しい魂」。そして、その男のつくった王国を、息子は継承して再生していかなければならない。病んだ世界が救済されるのはこの繰り返しの中にしか可能性はない。多くの神話はそれを語っている。
さらにいうならば、「地獄の黙示録」のウィラードのその後も、「スターウォーズ」のルークのその後も、結局は引き受けるのは最終的には私たちである。神話とはそういう機能をもつものなのでもある。
参考
・「ルーカス帝国の興亡」 G.ジェンキンズ
・「解読『地獄の黙示録』」 立花隆
・「『地獄の黙示録』完全ガイド」 K.フレンチ
・「『地獄の黙示録』撮影全記録」 エレノア・コッポラ
・空腹版「解読 地獄の黙示録 特別完全版」
・スターウォーズの鉄人
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