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戦争の終結はなぜ遅れたか -終戦に至る原爆投下の位置づけ-

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以下、太平洋戦争の帰趨は少なくとも1944年7月に「絶対国防圏と目されたサイパンの陥落でおおよそ決まっていました。
それではなぜその戦争の終結までに1年以上もかかってしまったかについてまとめてみます。

また、結果的に原爆により、戦争の終結が早められたという、あまり認めたくはないアメリカ側の基本認識がそれなりに的を得ているということも最後にふれてあります。

 

1.天皇の終戦決断のタイミング

「ニューギニアのスタンレー山脈を突破(1943年9月)されてから勝利の見込みを失っていた。一度どこかで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思ったが、独乙との単独不講和の確約があるので国際信義上、独乙より先には和を議したくない。それで早く独乙が敗れてくれればいいと思ったほどである」
(昭和天皇独白録)

昭和天皇はこのように終戦直後に語っているが、その敗戦の受け入れの意志を実際に固めたのは、もっと後、1945年の6月頃と推測される。以下、これを順を追って見ていきたい。

 

2.重臣グループによる終戦工作

一方、岡田啓介元首相や近衛文麿前首相による終戦工作がサイパン陥落前後(1944年7月)から本格的に始まっている。

が、これはまだ具体的なものとはいえず、まずは東条英機内閣の退陣につながるも、まだ軍部を巻き込んだものとは言えなかった。

「敗戦必死なりと陸海軍当局のひとしく到達せる結論にして、ただ、今日はこれを広言する勇気なしという現状なり」(近衛日記)

これは木戸内大臣に当てられた意見書で、日付は1944年7月。この時点で木戸とともに皇族内閣にて降伏するというシナリオもできていた。ただし陸海軍の強行派が戦争継続を主張しているうちは講和は難しいであろうという認識でもあった。(『木戸幸一日記』)

 

3.一撃講和論

さらに、この時期、昭和天皇はいわゆる「一撃講和論」に固執していた。

1944年9月26日に木戸内大臣に対して、昭和天皇は敗色濃厚なドイツの来るべき降伏にあわせて講和をすすめることができないかとの意見を述べている。(『重光会議手記』)だが一方で次のようにも語っている。

「私は参謀本部や軍令部の意見とは違い、一度レイテで叩いて、米がひるんだならば、妥協の余地を発見できるのではないかと思い、レイテ決戦に賛成した」(昭和天皇独白録)

しかし、レイテ沖の海戦で当時の残存海軍兵力の主力が壊滅し、陸上でも1944年12月には大勢が決してしまう。

さらにサイパン島などマリアナ諸島がすでに陥落していたこの時期、ついに1944年11月より東京の空襲が本格化する。当初は軍需目標に対する精密爆撃だったのが、次第に無差別都市部爆撃となり、1945年1月14日には伊勢神宮が被害を受け、同27日には銀座周辺が爆撃される。

そのような状況下、1945年2月には天皇は各重臣と戦争の先行きについて意見を聞く個別の会談を行った。

出席者は平沼、広田、近衛、若槻、牧野、岡田、東條。すでに戦争終結にむけた動きを極秘裏に行っていた岡田・牧野もここでは敗戦受け入れの結論は述べず、唯一近衛のみが和平を主張する。「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる近衛上奏文が出されたのはこの時。近衛は前年から東條内閣の打倒工作と終戦工作を極秘裏に進めていた。

その近衛にむけて天皇は次のように語った。

「参謀総長などの意見として、たとえ和を乞うとしても、もう一度戦果をあげてからでないと、なかなか話はむつかしいというが近衛はどう考えているか。梅津や海軍は、台湾に敵を誘導しうれば、こんどは叩きうるといっているが・・」(「侍従長の回想」藤田尚徳)

 

4.東京大空襲と沖縄

この近衛との会談の5日後の2月19日に米軍は硫黄島に上陸。さらに6日後に東京大空襲が開始される。

なお、近衛に語った「もう一度の戦果」というのは真近に迫っていた沖縄戦も念頭にあったはずである。沖縄戦は1945年3月26日から開始され、4月6日には最後の組織的な海軍の反撃(菊水作戦)も失敗に終わる。天皇は次のように語る。

「私はこれが最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏もまたやむを得ぬとおもった」(昭和天皇独白録)

「沖縄で敗れた後は、海上戦の見込みは立たぬ、唯一縷の望みは、ビルマ作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して相当の打撃を与え得るのではないかと思って梅津に話したが、彼は補給が続かぬといって反対した。」(昭和天皇独白録)

「雲南作戦も望なしということになったので、私は講和を申し込むより外に道はないと肚を決めた」(昭和天皇独白録)

結局は「絶対国防圏」とされたサイパンの陥落から、いくども講和のための一撃を狙い、そして失敗してきたわけである。

 

5.終戦のための組閣開始

そしてこの翌日、4月7日鈴木貫太郎内閣組閣。2.26事件で軍部に狙われ、九死に一生を得た天皇の最側近のこの人が内閣を組織するという意味は、すなわち対軍部ということであろう。

実際に、この人事は憶測を読んだ。

「鈴木貫太郎は日本のパドリオだという噂が一斉に流れたんです。バドリオとはムッソリーニの後に政権の座につき、イタリアを終戦に導いた首相ですからね。つまり鈴木さんは戦争を終結させるための首相だというのわけですよ。この噂を聞いて軍の中の本土決戦派の連中は鈴木さんの自宅まで大挙おしかけていって、『総理、あなたは戦争を止めさせるために総理になったのですか』と迫った」

だが、鈴木貫太郎はこのあたりで大芝居を打ち始める。「貴公のようなものがいる限り日本は安泰。本土決戦に向けて邁進しよう」というような回答がわざわざ新聞にまで掲載されることになる。
2.26事件を生き残った鈴木貫太郎にとって軍部の横暴は計算ずくのことだろう。鈴木貫太郎が首相就任時にもアドバイスをしていたという政財界に帰依者を多数抱えていた龍沢寺の山本玄峰は、当時の弟子であった田中清玄にこう言っていたという。

「軍は気違いじゃ。気違いが走るときは、普通人も走る。日本の軍という気違いが刃物をもって振り回している。今、はむかったら殺されるぞ。そのうち気違いは疲れて刃を投げ出す。それを奪い取ればいい。」(田中清玄自伝)

鈴木貫太郎は疲れるまで待つつもりだったのだろう。老練といえば老練、愚鈍といえば愚鈍。この人に対する賛否はまさしく両論である。

 

6.天皇の決断

この1945年4月の末にムッソリーニが死亡し、ヒトラーは自殺。ドイツの降伏は翌5月8日。これを受けて鈴木首相と外務大臣、陸海大臣と総長による天皇が臨席しない最高戦争指導会議(5月11日~14日)で、ソ連の仲介を通じて和平交渉をすることが決定する

ただし、天皇を交えた翌月の6月8日の御前会議では戦争継続が確認されている。すなわち本土決戦である。

極秘裏にソ連仲介での和平を探りながら、公式には戦争継続の姿勢を緩めぬということだ。

この時点で天皇の肚は決まっていたようだ。5月8日に講和時に武装解除と責任者処罰は致し方ないとの決断を木戸内大臣に語った。(『高木日記』)、それを受けたものとして、戦争継続が議論された御前会議の翌日に6月9日に、木戸内大臣からの上奏「時局収集の対策試案」を受けるこれは天皇の意向を踏まえたものとみなして差し支えはないだろう。

内容は率直たるもので、「沖縄がもはや陥落したからには次の先行きが暗く、迎え撃つ戦力も45年下半期には喪失する。軍部より和平をすすめるのが良いものだが、現状それはできそうもない。ドイツがベルリン壊滅のようになった二の舞いを避けるべく、天皇陛下によって和平を決めてほしい」というものだった(「木戸幸一日記」)

木戸内大臣の言葉どおり、6/21に沖縄守備軍は全滅。そして翌日に天皇は最高指導者会議を開き、戦争終結にむけて動くように初めて指示を与えることになった。ここで初めて、米内海相と東郷外相は5月の戦争指導会議で和平交渉の開始されていることを明言する。

 

7.ソ連への和平仲介交渉の拙劣

しかし駐日ソ連大使を通じての交渉はうまく進まない。

陸軍はソ連が対米国の戦略的必要上、日本が弱体化することを望まないであろうという読みのもと、この方策を強行に主張していた。が、この時の東郷外相は終始悲観的であった。致し方なく、ソ連と直接交渉するべく近衛が引っぱり出されるも、その近衛自身は先に触れた「近衛上奏文」にて、その当時の陸軍がソ連と通じているという説に捕らわれており、その脅威に警戒していた立場として、全くこれには乗り気ではなかった。

「あの急迫した時代に、六月いっぱいもの長時間をかけてソビエト側と無益の交渉をしていた、そのことである。満州問題をソビエトの有利に解決して、そしてソビエトをわが方に引き付けようとする魂胆から出発した日本の提案のごときは、当時の情勢において、とうていソビエトを満足させるものではなく、日本の壊滅が目の前に迫っているとき、こんななまやさしい考え方でソ連をわが方に引っ張るなどは、私の目には、いかにも児戯に類したこととしか思えなかった」-当時の駐ソ大使佐藤尚武-(「昭和史探索」半藤 一利)

内実、ソ連はカイロ会談でアメリカから対日参戦を強く要望されていて、そのタイミングを計っている状況であった。1945年2月のヤルタ会談では対日参戦をトルマーマンに約束もしている。そのためにこの和平交渉について返事を引き延ばしていたのである。また、この直前の1945年4月には日ソ中立条約の非延長も通達しており、ソ連が日本に有利な仲介をするとはとても考えられない情勢でもあったのである。ソ連は7月18日に近衛の特使派遣を拒否する。

 

8.ポツダム宣言の「黙殺」と原爆投下

そうこうしているうちに7月26日ポツダム宣言が発表される。この間、軍部、特に陸軍は本土決戦を主張するものが多数であり、これに気を配るつもりか、鈴木はこれを「黙殺する」と答え、これがアメリカには「ポツダム宣言拒絶」と報道されることになった。

そして8月6日、広島に原爆投下された。

トルーマン大統領の原爆投下後の演説は次のとおり。

「7月26日のポツダムで発布された最後通牒では、この強力な破壊は日本人の身に降りかからないことになっていた。日本の指導者たちはこの最後通牒を即座に拒絶した。もしいまなおわれわれの要求を飲まないとなれば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が空から降るものと思っていただかなければならない」(広島への原爆投下を知らせるトルーマン大統領演説)

8日に東郷外相が天皇に原子爆弾に関する情報を報告したところ、次のように述べたという。

「この種の武器が使用させるる以上、戦争継続は愈々不可能になれるにより、有利なる条件を得んがため戦争終結の時期を逸するは不可なり。条件を相談するも纏まらざるに非るか。なるべくすみやかに戦争終結をみるよすに努力せよ」(「「終戦史録」外務省)

翌9日に緊急で戦争指導者会議の開催が決定。しかし同日、トルーマンの予告通り長崎に再び原爆が投下される。

そして深夜に御前会議が行われポツダム宣言受諾が天皇の聖断により決定する。

「言葉は不適当と思うが、原子爆弾の投下とソ連の参戦は、ある意味では天佑であると思う。国内情勢によって戦争をやめるということを、出さなくてすむからである」(米内海相 8月12日の発言『検証 戦争責任Ⅱ 読売新聞戦争責任検証委員会』)
「原子爆弾だけに責任をおっかぶせればいいのだ。これはうまい口実だった。」(迫水久常 当時の書記官長『大日本帝国最後の四か月』)

終戦工作を行っていた重要なキーマンである米内海相と内閣書記官長岡田啓介の発言である。
この後もなおもポツダム宣言に条件付きで応じるか、無条件かをめぐって陸軍が強行に条件付きを主張するも、再び14日に天皇の意向が示された。そして翌日に終戦となるも、この日にはいわゆる宮城事件という近衛師団将校の反乱が起きるも、これは鎮圧された。

なおソ連による8月9日対日参戦布告は、広島への原爆投下を知り、ソ連の仲介や圧力なく日本がアメリカ単独で降伏してしまうことを恐れてのことだったとの説が有力である。

 

9.まとめ:終戦が遅れた原因と原爆

(1)少しでも大きな損害を与えて、それを契機に和平を図る(天皇による一撃和平論) 1943年9月~1945年6月

(2)ソ連を通じて講和に持ち込む(戦争指導者会議での決定) 1945年6月22日~1945年8月9日

この2つの動きが終戦を志向していたことは間違いない。

だが、結果として(1)は机上の空論であり、かつ具体的な動きも乏しかった。

その間、近衛文麿を中心とする工作もあったが、これが直接の成果を結ぶことはなく、むしろ沖縄戦の敗北と日本各都市が壊滅的になるほどの空襲をへて、やっと(2)ソ連を仲介とした和平工作が動き出した。ここまで、昭和天皇の言う勝利の見込みを失ったという1943年9月から1年と9ヶ月。

そしてソ連を仲介とする工作も、これも実を結ばず。これは単に陸軍を中心とする国際情勢を甘く読んだが故に単に終戦をおられせただけの結果となる。ポツダム宣言が出た7月26日もこれに積極的に受諾の動きは見当たらない。むしろこれに対する国内世論と陸軍への目配せを考えた鈴木首相の発言がマイナスになった。

陸軍を中心とする戦争継続の強硬派の存在という原因がもちろん最大の終戦が遅れた原因となるのは当たり前の話だが、これに輪をかけて以上のような紆余曲折があったわけである。

そうすると本格的に陸軍首脳も含めたポツダム宣言受け入れのきっかけとなったのは、8/6の原爆投下だったことになる。

「聖断まで時間がかかったことは問題を残した。太平洋戦争における日本の戦死者175万人の過半数と民間人死者80万人のほとんどがサイパン陥落(1944年7月)以後であるこを考えればなおさらである」(『昭和天皇-理性の君主の孤独』古川隆久)

 

 

コメント

  1. 田鶴 より:

    拝見いたしました。何故こんなことになってしまったのでしょうか。
    制空、制海権を奪われたら到底勝ち目が無いので、普通はここらでそれなりの休戦となるはずです。しかし日本は損害もかまわず、戦い続けていた、何故なのか。何故なのか・・・・  どうもそれは、こういうことのようです。
    1944.6月で実は敗戦だった。1944.7月からは終戦に向けての人員殲滅作戦が行われた。
    本土に残された働き盛りの人々は、南島に出征させ、全ての占領地で玉砕、生きては戻さないと、生き恥をさらすなとして、各地の将兵を本土には戻さなかった。関東軍もソ連が侵攻し、シベリアに抑留、本土には戻さなかった。原爆では、陸軍の第二中心の勢力が全滅。戦艦大和も裸で突撃し全滅。若者は特攻隊で、つまり中心兵力は全てそれなりの方法で全滅させた。勿論非戦闘員も、全土の主要都市は無差別空爆で、活動力の中心となる人々はほぼ殲滅した。これらは戦力が無く一方的にやられっぱなし、とにかく1945.8月まで戦わされた。何故なのか、その目的はただ一つ、本土から活動力のある人々を一掃した後、終戦にすることだった。終戦後に活動力のある人々を残せば、敗戦後のロシアで起きたような政権転覆が起きかねない。1944.7月からは戦争ではなく終戦に向けての一方的な有用人員整理、殲滅作戦であった。