-->“Mishima: A Life In Four Chapters”について - Football is the weapon of the future フットボールは未来の兵器である | 清 義明

“Mishima: A Life In Four Chapters”について

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永らく解説文を読むことによってのみ知っていた映画を見ることがついにできた。

ポール・シュレイダーの“Mishima:A Life in Four Chapters”である。
三島の資料をかたっぱしから封印していたことで知られる三島未亡人と、その意をうけた「右翼」の抗議もあって、日本では劇場公開されなかったばかりかビデオやDVDでも日本では封印されていたといういわくつきの作品である。

これが鹿砦社出版の三島由紀夫と一九七〇年という鈴木邦男氏と板坂剛氏の対談本の「参考資料映像」としてDVDの「付録」についたのである。

しかしこの「映像」、本来であればこのDVDの付録に先の両氏の対談があるのがしかるべき話で、まったく取り扱い方が逆。もちろん、それには理由があるのではないか。このDVD付録、拍子には「幻の映像」と書かれているだけで、タイトルすらも書かれていない。

版元の鹿砦社といえば、まず思い出すのは、その昔「スキャンダル大戦争〈1〉」というムック本の「資料」扱いで、大江健三郎の「政治少年死す」と深沢七郎の「風流夢譚」を、もとの書籍をスキャンしたそのままで掲載していたことだ。

解説すると、大江健三郎の「政治少年死す」(1961)は、社会党の浅沼委員長を刺し殺した右翼青年をモデルにした短編「セヴンティーン」の続編。深沢七郎の「風流夢譚」(1960)は、時の皇太子夫妻が斬殺される夢物語を描いた作品。ともに当時の右翼の抗議と脅迫により、現在でも出版されることなく封印された作品だ。後者にいたっては、版元の社長の家に右翼の賊がはいり家人を殺めるという事件までおこしている。

おそらく著作者や著作権管理者に許可なく、当時の掲載誌のスキャンそのままを掲載するという手口にも驚いたが、いずれにせよ読むことがかなわなかった二編を読むことには今でも感謝している。それに、大江も深沢七郎の著作権管理者も「勝手にやられた」と言い逃れできるわけで、封印された作品を世に出すことに黙認ということになるのだろうから、リスクをかぶるのは鹿砦社だけになる。このへんもおそらく計算された荒業なのだろうと思う。

ルーカス=コッポラ・プロデュースの作品”Mishima:A Life in Four Chapters”も、きっと日本では誰もこの「資料映像」にすることには文句は言わないだろう。三島未亡人はすでに亡くなられているし、ご丁寧にもこの「付録」の本編の対談は一水会の鈴木邦男氏なわけである。一水会は、三島由紀夫の市ヶ谷での自決の志を継ぐとして出来た新右翼団体である。もちろん映画はアメリカ資本なわけで、それだけは難癖・・・というか当たりまえの話であるが権利侵害を言ってくる可能性はあるでだろうが。

前置きが長くなった。映画について。

市ヶ谷への三島由紀夫の乱入/自決の日の一日を再現した再現ドラマ風の映像に、過去の三島の小説作品を映像化したシークエンスが3つ挿入されるという仕掛け。

原題の”4つのチャプター”というのは、これに加えて三島の市ヶ谷乱入の再現ドラマが最後に「文武両道の道」と題されたチャプターが最後に入るためで、三島の自決そのものがひとつの「作品」であったかのような取り扱われる。

映像化される小説は、『金閣寺』『鏡子の家』『奔馬(豊饒の海)』。

金閣寺は坂東八十助が、金閣寺を燃やす吃音症の僧侶を演じ、『鏡子の家』ではグランド・ホテル形式の小説の登場人物の中から、美青年の売れない俳優をピックアップし、沢田研二にマゾヒスティックな遊戯に破滅していく姿を演じさせている。『奔馬』では、財界の大物を刺殺したあとに切腹自殺をする政治青年の役に永島敏行。

主役の緒方拳をはじめ、脇役に至るまで錚々たるメンツ。美術は石岡瑛子なのがオリエンタリズムで鼻につくが、『タクシードライバー』の監督ポール・シュレイダーは、もうこころゆくまで自分が考えるミシマの世界を描いたのではなかろうか。

映画では、4つのチャプターに加えて、回想シーンもフラッシュバックされている。あけすけに三島の同性愛嗜好も描かれているのだが、それも含めて重要なのは、この映画が三島自決事件のひとつの解釈をしっかりと提出しているところだ。

徴兵忌避まがいで戦場にも行かなかった貧弱な青年。『金閣寺』の吃音の見習い僧侶のように、貧弱でコンプレックスだらけの人間は、美に対して復讐を試みる。その倒錯した発想は、『鏡子の家』の俳優のようにマゾヒズムに陥って自滅を志向する。復讐のように相手を滅ぼしながら、自らも破滅することが、自己を実現する方法であるかのように。

一方、作家としての成功の裏腹、三島は同性愛の相手から貧弱な体と侮辱を受け傷つく。(余談だが、これは美輪明宏本人が三島に言った実話に基づく)

だが、あるきっかけから、肉体をボディビルで鍛えることをおぼえ、肉体すらもあたかも自分の文学作品のように自らがつくりあげていくことができることに気づく。その時から、三島の肉体そのものが作品となっていくこととなる。しかしその「生きた芸術作品」としての肉体は、老いに醜悪になっていく運命である。

あたかも、金閣寺を放火した青年が、米軍の空襲で金閣寺と一緒に焼け死ぬことを夢想していたのに、結局はそうはならなかったかのように。

「美しくなろうという男の意思は女とは違って必ず死への意思なのだ」(Mishima:A Life in Four Chapters )

それならば自らの破滅そのもので美に復讐し、それを永遠たらしめるのが最大の自己実現といえるのではないか。しかも『鏡子の家』の青年のように汚辱にまみれることで、美に復讐するのだ。

「世界を変貌させるのは行為なんだ」(「金閣寺」)

三島の倒錯した性嗜好のひとつに切腹フェティシズムがある。

よく知られているのは、やはり三島夫人によってオリジナルフィルムがすべて焼却されたとされていた映画『憂国』である。これは臓物がこぼれおちるところまで描いた切腹シーンがある作品である。この”Mishima:A Life in Four Chapters” が収録された『三島由紀夫と一九七〇年』には、以前から噂にはなっていた三島がゲイの同人誌に匿名で投稿したといわれてる『愛の処刑』も収録されている。

この作品はサディスティックな美少年にそそのかされて、ランニングシャツの体育教師が切腹する物語。性的な興奮とともに教師の血の中で美少年が心中していく姿が克明に描かれているのだが、強烈な被虐嗜好と血のフェティシズムのアマルガムに目がくらむばかりの作品である。

たくましい肉体をもった体育教師が、美少年と血まみれになり臓物をあふれさせながら至上の恍惚に至る・・・実はこの作品のテーマは、ほとんどそのまま三島自決事件に引き継がれている。意気盛んな青年とそれに先導されるかのように死に至る過程は、この”Mishima:A Life in Four Chapters”よりも、むしろ現実の三島の自決の事実に忠実な若松孝二の『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』に克明に描かれている。



若松版の映画は、「美青年との心中」というテーマをピントをずらして後景にとどめるまでにしている。そのため、自決事件の再現フィルムとしてはなかなかの出来だが、あまりにも物語の中の三島は、決起の上っ面のみをたどりす、それが単純すぎていて鼻白むような作品だ。通俗的な右派の三島信者の解釈に忠実だともいえよう。

だが、三島の作品を克明に読み続けてきた読者ならば、すぐにわかるのだ。あの事件はいわば「手の込んだ自殺」なのだと。

「知性などを超えたはるかに本質的なものが何かあるはずだ。芸術と行動を調和させる何かが。私はそれが死であると考えた。」(“Mishima:A Life in Four Chapters”)

三島の死は壮大な迷宮のような謎を残したが、それはたぶん三島のトリックのなせるものだ。自分の肉体と人生を芸術に昇華させえると考えた自意識が引き起こしたものである。三島の自決に際して、自衛隊が治安維持に出動できなかったのに不満で諌死するなどというものが、いったい現実で何の意味があるのか。ところが、その空虚な意味にむかって時代錯誤としかいいようのない割腹自殺をとげるというようなものこそが、彼にとって汚辱の極みであったのだ。

映画”Mishima:A Life in Four Chapters”には、汚辱のなかで死んでいくというイメージが少ないようにみえるのは、それはこちらが日本人であるからだろう。西洋人の目からみれば、切腹という行為そのものがエキセントリックの極みで正気の沙汰ではないグロテスクなものだからだ。さらに『鏡子の家』のマゾヒズムの描写からも直結されていると考えればなおさらだ。

この映画を三島未亡人が許可しなかったのはいろいろな理由があるだろうが、決定的だったのはタブーとなっていた三島の同性愛嗜好をあっけらからんと描いたところだろう。だが、それよりも、この映画は深く三島の死についての極めて複雑な謎を解き明かすための見事なガイドブックになっていることこそ、三島未亡人は恐れなければならなかっただろう。

「天皇」という呪文をかけて三島はそれを壮麗に飾り立てた。そしてそれはある局面では比較的精緻ですらあった。だが、わたしはそこにはさほど目はとられない。それは監督ポール・シュレイダーも同じだった。

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