炭酸が抜けてしまったらシャンパンは甘いだけの酒 /「死刑台のエレベーター」 ルイ・マル

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◇「死刑台のエレベーター」
ルイ・マル監督のニュープリント版「死刑台のエレベーター」(1957年)を、渋谷シアターイメージフォーラムでこの時期に公開しているのは、日本版リメイクとして公開されている、同名作品(2010年緒方明監督)に当てこまれたからであろう。
その日本版の作品の巷の評価は極めて芳しくなく、観に行こうか微妙なところである。
たぶん観ることはないだろう。
緒方監督は、昨年の人情コメディ「のんちゃんのり弁」が、俊足ヒッターの2塁打のような喜ばしい出来となっていて、期待していた監督であるが、これまで目にした評価と予告編と、そして何よりも原典となっているルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」の映画としての評価のされどころ勘案すると厳しい。ジャック&ベティとか早稲田松竹で2本立てになったら考えなくもない。
さて、『ルイ・マルの「死刑台のエレベーター」の評価のされどころ』、と書いたところについて、以下に触れておく。
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1957年の作品で、ストーリーとしてはそんなに凝ったものではない。
同時代までのハリウッドのクライム・サスペンスと比較すれば、痩せてヒョロびた犯罪映画の筋立てといってしまってよいと思う。
完全犯罪を目論んだにも関わらず、誰がどう考えてもそれを忘れちゃダメだろうというような証拠を残してしまい、それに気付いてクルマにカギをつけたまま殺人現場に戻り、エレベーターにとじこめられてしまうのは、いったい犯罪映画の主人公としてどういう不手際か問い詰めたくなるような拙劣さ。
あげくの果てには、そのクルマも町のチンピラに盗まれてしまい、そのおかげで全く関係ないもうひとつの犯罪に巻き込まれるのは、果たして「ヌーヴェル・ヴァーグの傑作」と派手なコピーにふさわしい事態なのか。
ジャンヌ・モローの恋人は、共犯でありつつ夜の街をおろおろと彷徨うだけで、ひとつとしてストーリーのアップ・アンド・ダウンに貢献しない。映画の中の美女の飾り物としてはいいのかも知れない。物憂い表情をこの映画のカメラは確かによく撮っている。
この映画は、ある種の斬新さが評価されたのであろう。
しかし、そのポインドは決してサスペンスとしてのドラマ仕立ての巧みさでは決してないというのは、観た人間ならば、不平として皆感じるところであろう。
よって、同時代のヌーヴェル・ヴァーグのムーブメントなしには考えられない作品である。
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低予算らしい極めてヌーヴェルヴァーグらしい荒削りな作品を、若干25歳の監督が仕上げたセンセーショナルな映画的な出来事が、まずひとつ。
そして、それがジャンヌ・モローの美しい顔立ちと、マイルス・デイビスのインプロビゼーション(即興演奏)だけでつくられたモード・ジャズがスクリーンに配されて、それが詩的な映像に思えた。そういう極めて時代的なものが張り巡らされた「傑作」なのである。
【参考】1959年のジャズと映画の関係
よって、このまんま2010年の現在にリメイクしてしまったら、1950年代のシャンゼリゼやモンパルナス界隈の騒々しい議論や新しい映画への期待があるわけでもなく、炭酸気泡が抜けたシャンパンのように、単なるチンタラ間抜けな甘い犯罪映画にしかなりようがないと思われる。
それでも、残り香のような気品が未だ感じとれるのは、撮影が素晴らしいからだ。
マイルス・デイビスももう死んでしまった。
「音楽の歴史を4回変えた」と豪語し、いつも昨日を振り返ることなく、新しいステージを切り開いていったマイルスデイビスの1990年の遺作はヒップ・ホップ作品だった。「オレの新作をレコード屋のジャズの棚に並べるな」とまで言い切っていたマイルスなら、リメイクの話など一笑に付していただろう。
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ヌーヴェル・ヴァーグ初期の重要作品としての価値はあるものの、この映画にはそこまでの力しかない。ルイ・マルは後にもっと素晴らしい作品を残している。
クライム・サスペンス映画の進化は、この「傑作」をすでに乗り越えてしまっているのだ。

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