とある映画を観にいこうとして、上映館を間違えた。
そんなわけでたまたまやっていたジュリエット・ビノシュ特集で、レオス・カラックスの「汚れた血」を観ることになった。20年近く前に観た映画である。
映画館の暗闇の静寂に溶け込んだような青に支配された光景と、ひたすら走り続ける登場人物たちを観ながら、その20年に思いを巡らす。
そして、そのうち、今の自分と20年前の自分の速度の違いに気づかざるをえなくなった。
登場人物は疾走する。
ひたすら物語は速度の中で繰り広げられ、そしてその速度の中に、溶け込んでいく。
あらすじは、単にこの映画のパッケージに過ぎない。
愛の無いセックスで感染する病いが猛威をふるう世界の中で、その治癒のためのクスリを盗むという行為そのものは、主人公たちの振る舞いの暗喩にしか過ぎない。
疾走する愛だけが、現代の愛であり、それだけが現代の病を快癒させるものだ・・・なんという背徳的でスリリングな映画的な宣言なのだろう。ストーリーなど、どうでもよいのだ、映画は箴言を語るだけでも成立するのだ。
美しいジュリエット・ピノシェがラストシーンで、やはり疾走しながら、映画館の暗闇に溶け込んでしまうとき、そんな箴言がにぶい痛みをともないながら、自分に突きつけられる。
その箴言を20年前の自分はどういう風に受け止めたのだろう。
映像の詩的な光景、SFチックな舞台設定、演技の強力なテンションの高さ、それらが、語ろうとしても語りえないはずのメッセージを放ち続ける。
再び、その映画のメッセージにやられてしまう。やはり傑作。いい経験であった。
疾走するモダン・ラブ / 「汚れた血」 レオス・カラックス 【映画】
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