ジャームッシュの映画論、またはメタ映画 / 「リミッツ・オブ・コントロール」 【映画】

◇「リミッツ・オブ・コントロール」公式サイト
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  あらすじ:
     「自分こそ偉大だと思う男を墓場に送れ」という不可解な任務を与えられ、
   一人の男(イザック・ド・バンコレ)がスペインにやって来た。
    “孤独な男”なるコードネームを持つ彼は、任務遂行を目指してスペイン中を巡っていく。
   そんな“孤独な男”の前に、彼同様にコードネームを持つ名もなき仲間たちが
   現れ始めるが……。 (シネマトゥデイ)
 

映画冒頭の殺し屋の雇い主?のセリフのとおり、「想像力とスキルを使え、主観でもかまわない。そうして、自分こそが最高だと思っているものに知らしめろ」ということで、そのセリフは観客にも投げかけられる仕掛けです。そうしてはじめて、観客は「支配の限界(リミッツ・オブ・コントロール)」を超えて行け・・・ということでしょう。
このテーゼは、ストーリーの筋立てに沿って一応は展開されます。
そして同時に、それはこの映画に対する態度も決定します。この映画に対する観る立場になったら、想像力とスキルを使ってくれ、主観でもかまいませんから・・・ということです。
冒頭、ランボーの酔いどれ船の有名な一節が映し出されます。これもそういう風に映画を観てくれということなんでしょう。
まったく禅問答のような話なわけで、まったく狐につままれたように観ることになってしまう映画ですし、むしろそれは作り手の望むところであって、観客はそれぞれ疑問を持ちながらスクリーンのエンドロールを迎えることになるでしょう。
仕方ないです、そういう映画なんですから。
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映画力は、もちろんそういうところ以外で働くところが多いですから、幾何学模様のオンパレードや謎めいた透明ビニールや独自なキャラクターの女性俳優達のテイストを味わうだけでもいいでしょう。
映画はそういうものでいいのです。
そういう意味で、この「想像力とスキルを使え、主観でもかまわない。そうして、自分こそが最高だと思っているものに知らしめろ」というテーゼを、ひとつの映画論として受け取りました。
つまりこういうことです。
映画の作り手から渡されるものを、観客はどのように受け取ってもかまわない。
映画に筋立てはあるだろうし、メッセージもあるかも知れない、しかしそんなものは所詮映画にコントロールされる道具に過ぎないのだ。
この映画で、主人公は、謎の依頼人?から送りこまれてくると思しき、メッセンジャーと毎度毎度不毛な会話をしながら、一応の結末(暗殺の現場)に送り込まれます。
しかし、そのメッセンジャーから渡される指令を守りながらも、主人公は決して彼らを「仲間」とは見なさい。
そろいもそろって、このメッセンジャーは、音楽や映画や科学や美術について語る。
殺しの相手は、これらの音楽や映画や科学や芸術を否定して、世の中はそんなものと違うところでまわっていると断言しながら殺されていく。
きわめてシュールな筋立てで、一応の任務の達成をしつつ、あっさりと物語は夢のように終わって、そして最後のしめくくりには「NO LIMIT NO CONTROL」(限界がなければ支配もない)
映画に支配されてはいけない。それは映画をつまらなくする。
しかし、それは観る側が限界を設定しているからなのではないか?
その限界を打破するために、音楽や科学や美術や、これまでの映画についての知識(スキル)を使うのだ。それが映画に支配されることから自由になることになるのだから。
映画冒頭のランボーの「酔いどれ船」の詩を引用してみよう。
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    無情の河を下り行くうちに、船曳の綱を引く気配が消えていった
 

ランボーの「酔いどれ船」は、乗組員が蛮人に残酷に殺されてしまった後に、大海原に冒険の放浪に出る。
この映画は、確かに「ストーリー」は、ランボーの詩の中の水夫のように縛られて釘付けにされて殺されてしまったかのようです。
しかし、ランボーの酔いどれ船が、そこから先、ヨーロッパ(理性)から離れた、本当の物語を体験することになるように、映画を観るという本来冒険であるべき体験は、そこから始まるのではないか。
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以上のような解釈をもとに、この映画のメタ映画として、または映画論としての側面を演繹することは可能でしょう。
もしそれが妥当となるならば、まあ、しかし、ジャームッシュらしい映画論ですよ。
何がジャームッシュらしいかといえば、それを本当に映画一本使ってやっちゃうところですよね。
そりゃ、みんなだだっぴきになりますよ。みんな想像力とスキルを使いたくないから、映画に観に来るような人が大多数なわけですから。
また、自分としては、そんなこと主張するために、2時間ももってまわって映画をつくることに対して、よくやるよなあ~と苦笑するモードにもなるわけですよ。
間違っても人にはお勧めしません。
映画について、真剣に考えてみたいと思っている人だけ、そういうジャームッシュの難渋で遠回りした、そして決して観客に阿らないことをスタイルにする意気を観てみてください。

FWF評価: ☆☆☆

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