呪われた亡命者の崇高なるファンタジー / 「ノスタルジア」 アンドレイ・タルコフスキー

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20代の頃、この映画を観て、まったくわからなかった。
自分の中では、わけがわからないけど世評は極めて高い映画の代名詞がこの「ノスタルジア」で、まだ若かった頃の映画経験の無さではクリアすることができない、目の前に聳え立つ高いハードルだった。
その難易度の高さは、自分の映画鑑賞や映画への愛情に対するモチベーションまで奪っていくようなものだったことも書いておきましょう。
そして今回の20年ぶりの再鑑賞でも、やはりそのわけのわからなさは全く変わることがなかったのである。しかし、今回はそのわからなさは、ハードルとして自分を疎外するよそよそしいものではなかった。
この映画は、誰にもでもお勧めするような映画ではありません。
ひとつの極北にある映画でしょう。
詩的に映像を異化して、語りえないものをスクリーンに語らせようとするストイックな映画の極み。
繰り返し繰り返し現れる火と水の美しい映像。無表情な登場人物たちの静態的な有様に、それらが現れては消えていく。
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ストーリーを整理してみましょう。
故郷に帰れば農奴になるだろうロシアに帰国し、結局は自殺したロシア人の作曲家の足跡をイタリアに追う旅の中、主人公は世界の救済を願って奇行を繰り返す狂人と出会う。
狂人との邂逅と対話を行ううちに、同行する女性は主人公に愛想をつかし離れていく。
そんな状況の中でも、主人公は水と火と廃墟のイメージに包まれた舞台の中で、故郷と家族を思う。
ある日、狂人はローマの都会に出て、世界の救済のための説法をし、「音楽」と彼がいうところの火に包まれて焼身自殺をとげる。
すでに心臓の病に侵されている主人公は、その狂人の言い残したメッセージのとおり、干上がった温泉を蝋燭の火をともしながら横断することによって、何かを完遂し、そして狂人の死を知らないまま、彼も死んでいく。
故郷を想いながら、自分の死によって救済がもたらされるイメージは、ラストシーンのロシアの故郷とイタリアの廃墟の大聖堂とがモンタージュされた映像で表される。
この有名なラストシーンの美しさだけでもすばらしいし、そして火や水の映像美に詩的なカタルシスを感じるだけで、この映画はいいのだ。
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ここからは、少し余分なところに分け入ることになります。
タルコフスキーは、きっとこの作品を構想していたときに、自分自身の亡命を考えていたに違いないだろう。追い求めていたロシアの作曲家の境遇は、そのままタルコフスキー自身になるものと考えていただろう。
家族と故郷を捨て、そして温泉を火をつけた蝋燭をもったまま横断することによって成就するだろう世界の救済などという滑稽かつ悲劇的な狂人の夢にシンパシーを感じながら死んでいくだろう主人公の姿は、タルコフスキー自身が再現していくことになる。
1983年のこの作品の完成の翌年、タルコフスキーはソ連から亡命。
そして、なんということだろうか、1986年に亡命後初の作品である「サクリファイス」を完成させてから胃癌で亡くなる。
家族と故郷があるロシアを捨てる痛切さと、温泉の向こう岸に蝋燭の火を歩いて渡すような意味のない行為が、どこかで主人公の中でつながっている。
しかも、これだけの宗教的なイメージと逸話に満たされていながらも、それを主人公は頑なにはらいのけている。
そして自分だけの救済のイメージにたどり着いていく。
徹底的にストイックに、詩的な映像を紡ぎだし、語りえないものを語ろうとするタルコフスキーは、物語としての映画的には混乱の極みだ。ストーリーもあるのかないのかわからない程度。
宗教も故郷も捨てながら、自分自身の救済を見出すという行いが、結局は悲壮でグロテスクな姿でしかない。しかしそれゆえに、この悲壮さとグロテスクな姿は、崇高に見えないだろうか?タルコフスキーが問いかけたかったのは、ここなのではないかと考える。
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タルコフスキーは、自分自身の亡命を、呪われた亡命者のような末路として予感していたのでしょう。救済などはそこに秩序立ってあるわけではなく、宗教的イメージと個人の故郷のイメージがデフォルメされたおかしな光景になるだろうとも考えていたはずだ。
故郷と宗教からの呪われた亡命。そんなテーマが、まともな映画的な物語で秩序づけられるはずがない。崇高なる亡命者のファンタジー。この映画の難解さは、そんな主題の複雑さが請来したものなのです。

渋谷シアターNのタルコフスキー特集にて。

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