演技技巧の快感とだまし絵のストーリー / 「ダウト」 ジョン・パトリック・シャンリー 【映画】


◇「ダウト」公式サイト
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ジャズやロックだと、ソロ楽器による「バトル」というものがある。何小節かずつソロを交換しあうなかで、その巧みさを競い合いつつ、ひとつの曲として成立させるものだ。
映画「クロスロード」みたいなのは大袈裟としても、そういう技巧の競り合いが生み出す緊迫感は、やはり堪えられない味わいがある。
この映画は、まさにそれ。
演技の技巧のソロ交換が作り出す快感を得るための映画。クロースアップの表情の交換が延々と物語を作り出していくことに素直に圧倒される。
もともと戯曲だったこの物語を、原作者みずから映画にしたのは、舞台では不可能である表情のクロースアップによって作品をつくりあげたかったからではないか、と思う。
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そして、際立つのはメリル・ストリープの精巧な表情の作りこみ、その瞬間的な速度、変化のリズム。
編集もそれを意識して、ワン・アクションのクロースアップの表情とセリフ回しを徹底的につないでいく。
中盤クライマックスの校長室のシーンなど、まったくもって脱帽。
こういうところを見せていく心理ドラマなのだから、ストーリーはそんなに目的が必要なものはいらない。むしろ邪魔になる。
こだわれば、そこに掘り下げるものはあるだろうところにも、あえて深くは触れない。わざと通り過ぎる。それがむしろ映画的なストイックさだと思う。あえていうならば、この映画はストーリーを追ってはいけないのである。これは、もちろん、この映画のストーリーがダメだということではない。
しいてストーリーをまとめてみるならば、カトリックの修道院の神父による児童虐待の話。しかし、そこには現代的なカラクリが仕込んであり、公民権運動の時代の背景や同性愛の問題、または修道院的な理知の古めかしさや時代錯誤感がだまし絵のようにストーリーの中にはめ込まれていて、観る人を混乱させる。
つくりだされたストーリーの変拍子のリズムにのって、「ダウト(疑い)」は、ひとつの結末を見出すが、それも投げ出されたままのものだ。
しかし、これでいい。
その複雑な変拍子に精密極まりないメリル・ストリープが女優として思う存分にやりつくしているからだ。
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おしむらくは、前半がやや退屈。あそこまで、説明的な描写はいらないのではないかと感じるのだが、だまし絵のトリックの一部と思えば、我慢できなくはない。
秀作。
FWF評価: ☆☆☆☆

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