トリックの中の「国家神道」【2】孤豚の如き-天皇家の没落と国学による「復権」


トリックの中の「国家神道」 【1】ヤマト王権の「国家神道」 からつづく

万葉集にて「大君は神にしませば」と歌われた天皇は天武天皇か持統天皇と推測されている。

663年の白村江の戦いで敗北した倭政権はやがてクーデターにより政権が変わる。敗戦の責任を取らないまま死んだ天智天皇が死去し、その子が後継に即位したことに対する謀反である。

例によって、このクーデター(壬申の乱)も兄弟親族同士の骨肉の争いである。神話の時代から天皇家はこのような血族の中でお家騒動を延々と繰り返した。だから、教育勅語にいう「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相(あい)信ジ」が皇祖皇宗の教え・・・などというのは大ウソにすぎないのだが、ここではあまり触れないでおこう。

安吾史譚 (河出文庫) しかしこうした争いをへて、祭祀(宗教)・政治・軍事が天皇のもとに集約される。この時に「日本」という国号が新たに使われ、中国の最新の行政システムである律令制が全国に布かれ、そしてその政権の正統性を宣言する正史「日本書紀」が編纂される。

あらゆる「正史」はその成立の意図を読みこなしていく必要がある。あらゆる国家によって編纂されたものは基本的にそういうバックグラウンドを無視することはできない。

先に引用した「大君は神にしませば」の作者はご存知 柿本人麻呂。「日本一おおげさな歌詠み」と坂口安吾は彼を揶揄したが(安吾史譚)、基本的に万葉集もそういうイデオロギー普及のためのひとつのメディアだったことは間違いないだろう。

定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学 柄谷行人は、フィヒテの主張を例にあげながら、ネーション(共同体)においては言語によって政治が美学化されることによって感情的な国境線が出来上がるという。(『ネーションと美学』)さながら欧州でロマン派文学が国民国家のシステムをつくりあげるのに大きな役割を果たしたように。ポイントになるのは、政体や法律以外の場面で、国家をまとめる主要なイデオロギー装置として万葉集のような美学が動員されたということだ。

日本と天皇成立の時代からしばらくして、漢文を和文に近い表記で使う「古事記」や「万葉集」が出来上がる。当時、日本では様々な大陸からの流入者やその子孫が政治の中枢に至るまで多数いたため、一般的に書き言葉はすべて国際公用語であった中国語(漢文)でつづられている。日本書紀もそのひとつ。一種の国語運動である。そこには日本の成立をイデオロギー的に解き明かし、それを称揚する美的な言葉が綴られている。このへんから「日本」というものが出来上がったとみて間違いないだろう。

さて、やがて天皇家は徐々に権力を失いはじめる。といっても、長い歴史を読み解いてみれば、日本で天皇が政治的な権力を直接もっていた時期というのは、本当にわずかなものだったともいえる。また天壌無窮な神として君臨したのもわずかな時期だったともいえる。

天皇は時にみずから陰謀を起こしたこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥に逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。(坂口安吾)

日本文化私観 7-8世紀にアキツカミとなりながら自ら政治的なイニシアチブを握るような時代はそんなに長くは続かなかった。例外的にそれから600年後に後醍醐天皇は自らのリーダーシップをとり、建武の新政(1334)というクーデターを起こすが、これも長くは続かず、不遇のまま死んでいくことになる。それ以外は、皇位簒奪に脅えながら宮中にて細々としてさほど今のように多くない宮中神事を時折こなしていくような存在になっていく。江戸幕府が制度化した禁中並公家諸法度では、天皇家の権利を明確に制限し、その役割を宮中における芸術や祭司儀式のみとした。

この頃、神道も天皇を頂点とするヒエラルキーというものもなくなっていた。神道は仏教と融合するばかりではなく、仏教の圧倒的な優勢の前に細々と地域の神々や現世利益を祈るための場所となっている。もちろん、そういう天皇が総攬する神道というものも、時代的には本当に一瞬の間の出来事であり、むしろ例外的なことであったのだ。

全国の神社も天皇家とは全く関係のない素朴な地元の信仰とともにあり続けた。伊勢神宮でさえ、現世利益を祈るための場所であり、もともと地元の神であったものがアマテラスとともに祀られている。神道と思われている神が仏教や中国の神であることはままある話で、むしろそちらの方が長く人気を集めてきた。八百万の神といわれるが、アマテラス自体がそのワン・オブ・ゼムになっていたわけである。神道の祈祷祭司である地位は続くことになるが、それはあくまでも名目上のことばかりで、長い歴史の中で、それに神社神道が従ってきたわけではない。宮中の神道はそもそも歴史の中で、実際に民衆の中で奉じられてきた神道とは隔絶しているのは明らかなことだ。

日本の固有の宗教は、もともとは素朴な自然崇拝や祖先崇拝だった。それがヤマトによって、ひとつの序列に組み入れられた。征服された国々や民族の神は、「国津神」と名付けられて、「天津神(アマテラス)」に服属する神とさせられたわけである。だが、天皇が宗教上の頂点にたつ階層構造はその成立時点からして怪しかった。律令体制の中、各地域にアマテラスを祀る神殿を建築するように中央政府から何度も通達がいっていたにも関わらず、その建築はいっこうに進まなかった。
そもそも、その頃はすでに仏教が宗教として圧倒的なパワーをもっていた。神道の教義や儀礼すらも仏教の様式を借りてつくられたものも多い。だから、天皇を中心とする神道のシステムをいくらヤマト政権が推奨したのだが、却って仏教式の寺院が増え、やがて神社の中にすら仏塔が建立されるようになり、アマテラスはむしろ仏教の中の神のひとりなのだという説が大手をふって語られるようにすらなる。無理はないだろう。天皇家は歴代、仏教式の葬儀をあげ、菩提寺に葬られ、宮中には仏壇まであったのだから。ある意味、日本で一番古い家柄というだけの実質にふさわしいことともいえるだろう。もちろん天皇が現人神などという理解するものなどいなかった。ヤマト政権によってつくられた「日本」という国家概念も、天皇すらも、一般の民衆からは遠い存在であった。当時の政権とごくわずかな知識人のみがそれを知りうるのみで、民衆の生活は全く別のところにあったのである。

建国の事情と万世一系の思想皇室が文化の源泉であったという上代の状態が、中世ころまではつづいていたが、その後次第に変って来て、文化の中心が武士と寺院とに移り、そのはてには全く民間に帰してしまった、ということが考えられよう。国民の生活は変り文化は進んで来たが、皇室は生命を失った古い文化の遺風のうちにその存在をつづけていられたのである。皇室はこのようにして、実際政治から遠ざかった地位にいられると共に、文化の面においてもまた国民の生活から離れられることになった。(津田左右吉)

天皇制や神道が戦後に堕落したというのではない。もともとそういうものであったのだ。歴史の中に翻弄されながら親兄弟で相争い、時として自らの政治的威光を顕揚したいという時代時代の成りあがりものに担ぎ出されては都合のよいように利用され、支配者の思うところと違うとなれば、今度は追放されたり皇位を退かされたり。やがてその権威すらも形式上のものとなり、禁中の奥でひっそりと暮らすだけの存在になった。それが歴代天皇家の本当の姿である。

東京帝国大学の教師であり、明治期の日本研究家として俳句をはじめて英訳したといわるバジル・ホール・チェンバレンは次のように書き残している。

天皇のページェント―近代日本の歴史民族誌から (NHKブックス)真正な歴史の始まりから、現在生きている人々が思い起こせる時代にいたるまで、日本人ほど君主を粗末に扱ってきた人々はいないといってよいだろう。天皇は退位させられたり、暗殺されたりしてきた。幾世紀ものあいだ、皇位継承とは陰謀や血なまぐさい騒動を意味するものであった。流罪に処される天皇もいれば、放浪の身で殺害される天皇もいた。天皇が干魚の積み荷の下に身を隠し、遠く流刑にあった島から逃げのびたこともあった。(B.H.チェンバレン「ある新しい宗教の発明」-『天皇のページェント』より)

同時代の近代主義者である福沢諭吉もさらに手厳しく論評する。

初は国君自から政を為し,次で外戚の輔相なる者政権を専らにし,次でその権柄将家に移り,又移て陪臣の手に落ち,又移て将家に帰し,漸く封建の勢を成して慶応の末年に至りしなり。政権一度び王室を去てより天子は唯虚位を擁するのみ。山陽外史北条氏を評して,万乗の尊を視ること孤豚の如しといえり。その言真に然り。(『文明論之概略』)

文明論之概略 (岩波文庫) (最初は天皇みずから政治を行っていたが、やがて親族が代わって執務するようになり、次に武士が政権をとり、さらにはその部下が権力を握り、また違う武士に権力が移る。このように江戸末期まで続いてきたのだ。天皇家が政権から離れてから、その地位は単に名目上のものだった。「山陽外史」では北条氏が天皇家を「孤豚」のように扱ってきたというが、それは大変的を得ている)

こうして、政治の面からも宗教の面からも長い間孤立していった天皇家がなぜ明治になって突如権威を復活させるようになったか。

それは、水戸学と国学という二つの学問が江戸時代に中国の儒学の天子思想をもとに育まれ、それが幕末の動乱の中で旧体制批判の理論的な背景となったことによる。

江戸時代、今度は儒学が特に支配者層である江戸幕府の保護の下、隆盛を極めるようになる。そのなかで、日本の起源について、ある程度合理的な解釈が行われるようになっていった。新井白石は、記紀神話をいわば史料批判の観点から解釈し、現在まで続く邪馬台国論争のきっかけをつくり、林羅山は日本人のルーツが呉の太伯の子孫とする中国の伝承を紹介し、いわば東アジアの横断的な民族交流論の先がけを成す主張をした。

また、藤貞幹も記紀の史料批判を通じて、古代日本の風俗や言語や名前は朝鮮半島を通じて中国の文化の影響を強くうけているという今の学問的な認識に近い考えを表し、またスサノオノミコトを新羅の国王であったとする説を説いた。(日本書紀ではスサノオノミコトは最初は新羅に天上から降臨する。)

なかには荻生徂徠のように記紀神話はウソであるとバッサリ切り捨てる考えさえも出てきている。

しかも江戸初期に幕府はほぼ弾圧に近いような取り扱いで天皇家と公家に対する統制を強め、各種の権限をはく奪したり制限したりして、その宮中における祭祀のみが天皇家の仕事とする見解を固定化させた。(「禁中並公家諸法度」1615年)やがて、江戸幕府は対外的には「国王」と名乗り出すようにもなる。

ところが一方で、儒学の観点や中国の王権思想をつきつめていくと、違った考え方が出てくることになる。当時の徳川の親藩である水戸藩では、徳川光圀による古典研究とその集大成である「大日本史」の編纂を通じて、記紀神話に基づいた歴史観がまとめられていった。儒学の影響下に記紀神話と日本史を読み変えていく試みである。後に、明治維新政府の初期にはこの思想がいっときではあるが支配的な思想になった。

また本居宣長の国学思想は、古事記の研究を通じて、儒教や仏教を「漢意(からごころ)」として、外国の思想と位置付け、これを排して日本独自の思想をつくりあげるべきという主張をなした。文学を通じた一種のロマン派ナショナリズムであった。
ともに日本が世界の中心であるという確固たる思想に裏打ちされているところが特長である。これらの思想がはらむのは、日本をひとつの文化的歴史的な統合とみなして、それは世界に例のない優れたものとみなすいわば日本版中華思想であり、同時に決して表だって主張されないことにしろ、江戸幕府の正当性に結果として疑問を呈するものであった。

1849年、江戸湾でこれ以上にない露骨な砲艦外交が行われたとき、それなりに国際情勢に通じていた江戸幕府は中国の惨状を知っていた。そのために開国という現実的な判断をしたわけだが、その時に江戸幕府の弱体化が露わになり、そしてこの国学の思想に火がついたわけである。

この国学思想が、今でも国家神道の理論的な骨格となっている。つまり、日本におけるナショナリズムと宗教のアマルガムである。これを天皇家と神道の「復権」とすることもできよう。しかし、その内実はどちらかというと捏造に近いものであった。これについて続いてまとめる。

つづく

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