トンデモな「江戸しぐさ」は何をめざしていたのか
「江戸しぐさ」という、江戸時代の江戸の庶民がつくったというマナー集みたいなものがあって、それがなぜだか過度にいろんなところでもてはやされていたところ、これがどうやら歴史的には根も葉もない「ねつ造」、いわゆるトンデモではないかということが、しばらく前から話題になっていた。
これがついには道徳の教科書にまで掲載されていることがわかり、どうにもこれはおかしいんじゃないかということになった。
まあ書いてあることは『気くばりのすすめ』みたいな、誰も否定できないようなマナー集みたいなことなので、それはそれで目くじらたてる話なのかという指摘もあるし、それはわからないでもない。この「江戸しぐさ」が現代に伝わらなかったのはそれを伝えようとした江戸っ子が虐殺されたからだ・・・というような、いわゆる古史古伝のようなところはともかくだが。
ただ、事実として検証されていないことがこうやって公的教育にまで広がるのは自分もどうかと思うし、不自然に思って疑義を唱える人もいるだろう。そして、どちらかというとそちらの方が正しい姿のような気がする。
これが、いわゆる文化ナショナリズムというものです。
国民や共同体を統合する物語「文化ナショナリズム」
国民や共同体の構成員を統合し秩序立て、モラルや倫理を普及させるために、文化や歴史をその目的のために動員することを「文化ナショナリズム」といいます。
「伝統という言葉は当然のように、遠い昔から受け継がれてきたものと思われている。だが、伝統とされているものの多くは、実はごく最近、それも人工的に創り出されたのだ」
この「創られた伝統」の著者によれば、例えば、スコットランドの伝統文化の象徴となっているタータン・チェックのキルトやバグパイプは、近代になってイングランドとの伝統の違いを強調するスコットランド・ナショナリズムによって捏造された伝統だそうな。
こういうことは、実は世界的な事象であって、特にマスメディアが発達し、国民国家が出てきた18世紀後半から世界中、この手の歴史ねつ造のオンパレードとなる。つまり国民統合のために、「伝統」というものが動員されたわけである。しかもさしたる根拠もなく。
「日本人論」のフィクション性
80年代には日本の企業文化がいかに素晴らしいか、それがどのように日本人の国民性に根差しているかという「日本人論」のビジネス本がたくさんあった。これがいかに恣意的で、単にアイデンティティの称賛のためにあったのか、バブル崩壊後20数年たった現在如何にその「日本人の優れたところ」が今では足枷のように扱われているかはご承知のとおり。
今,『国家の品格』という本がベストセラーになっていることも,ある意味では日本人ほど自らの国民性を論じること を好む国民は珍しいという事情と相通じているのではないでしょうか.歴史的にみても,明治期以降だけでも万巻の書が,日本人の特質について考察し,その 折々には広く関心を集めました.とはいえ,ある時間が経過してしまうと,一時のブームは忘却され,また次なる日本人論に飛びつくという「習慣」が形成され てきたように思えます.(中略) 明治以来の社会変動の中で,日本人論は日本人の外国に対する自国意識の高まりによって顕著に現れてきたこと.明 治期の前半には日本人劣等説,後半には優秀説が対照的に現れたこと.大正期にはより客観的に日本人をとらえる国際主義が登場し,昭和戦前期には風土や文化 との関わりで緻密に日本人が論じられ,日中戦争以降は日本精神論を中心とするファシズム日本人論が盛んになった.そして占領期には,敗戦前から180度転 回した日本人の反省と新しい国民性への展望が試みられるようになる
上記の『日本人論』の紹介文章にある「日本人ほど自らの国民性を論じること を好む国民は珍しい」というのも、ひとつの日本人論になってしまっているのもご愛嬌。自らの国民性を論じることすらも、別に日本特有の現象ではない。
既存の日本人論批評家は日本的特殊性の強調を批判する中で、日本人論的な知的活動が日本に独自であるという前提を持つことにより、日本人論と同じ知的文化に拘束されてしまった。19世紀のドイツにおける知識人のドイツ人の独自性に対するこだわりについて、「『ドイツ人とは何か』の問いが決して消えることがないのはドイツ人の特質である」というニーチェの言葉を思いだすまでもない。自民族の独自性の知的関心は、時空を超えて広く観察される現象である。 『文化ナショナリズムの社会学』吉野耕作
その都度社会や共同体や国家のために都合が良いように歴史や文学や史書やカルチャーが継ぎはぎされて、ひとつの「国民性」という道徳的で倫理的な模範像となるフィクションが出来上がるわけである。
それが合理的に説明するのに窮したときに、歴史が動員されるのは定番。なぜなら歴史は都合がよいところを切りだすのに便利だからである。しかもやろうと思えば、江戸しぐさのようにねつ造さえできる。
共有体験としての文化ナショナリズム
もちろんだからといって、そこに説かれている倫理や道徳やマナーが否定されるというわけでもない。
ある共同体や民族が統合されて、秩序ある生活を営むためには、やはり文化的な統合されたものが必要なのは言うまでもない。
「インターネットは民主主義の敵か」でも書いたとおり、人々が良質なコミュニケーションをとり、分断されない共同体として機能するためには、それなりの共有体験や歴史や文化が必要なのである。
民族の疑似的な共有体験には神話があり、国家とネーションの統合にはよく文化価値が利用される。誰しもが知っていたり、それについて体験があったりすることは、共同体の仲間意識をつくるのに大きな役割を果たしている。
これらは、多様な人たちが同一文化のもとに住んでいるという事実に実感を与える。お互いに面識がなくとも、違う種の人たちでさえ、同じ市民同士となれる。このとき、人々は仲間としてその市民を潜在的な味方とみなす。
これは別にいわばなんでもかまわない。POPな文化やサブカルチャーは資本主義を通じて、やはり世界を横断した共有体験を形作るだろう。アニミやコミックやハリウッド映画、POPミュージックは確実にこの共有体験を形作る。
「江戸しぐさ」は確かに感心するべきマナーで見習うのにいいものもあるだろう。江戸時代の庶民が、江戸にやってくる異なる習慣や風俗をもった人たちと円滑なコミュニケーションをとるためのノウハウだった・・・という考え方も自分は好きだ。
しかし、様々に看過できない類のトンデモな記述があるかぎり、現代ではこの手の文化ナショナリズムは通用しない。
イスラム原理主義やアメリカのキリスト教原理主義の勃興も、自分たちをとりまく社会がうまく機能してないという危機感から現れた現象といっていい。つい20年前まではこの危機感を、コミュニズムが吸収してきた。しかし、20世紀をかけて、その壮大な実験は様々な悲劇を招き失敗に帰した。崩壊した社会主義国家の後には、次々と民族主義が跋扈した。文化ナショナリズムと共有体験を求めて。しかし、それは単なる先祖返りに過ぎない。「江戸しぐさ」のようにトンデモぶりを誰かに指摘されてしまうだけだろう。
わたしたちは、偽史や神話や宗教に頼ることなく、偏狭なナショナリズムに陥ることなく、これから新しい共有体験を見出していかねばならない。たぶん資本主義はこれの先兵となるだろう。マルクスは資本主義が世界中の隅々まで行きわたり、そのあとでしか本当のコミュニズムは実現することない預言した。マルクスの弟子たちは、この預言を聞き捨てた。人がもっと行きかい、移民たちが文化を混淆させ、そしてそれを秩序立てるための共有体験と文化装置が世界の隅々まで浸透したときに、はじめてそれが可能になるだろう。そのとき、共通の文化は別に宗教である必要は必ずしもない。サッカーでもハリウッド映画でもポップミュージックでもアニメでもかまわない。無理に宗教や歴史を動員すれば、また悲劇は繰り返すばかりであろう。
コメント
[…] 関係があり、そして時にはねつ造してまで、それを作り出すかということは、江戸しぐさを例にして書いてみたことがある。国家そのものではなくとも、文化的にその影響下にあるものを […]