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復帰不可能な孤独 ・・・「ジョニーは戦場へ行った」、乱歩の「芋虫」、そして若松孝二の「キャタピラー」 

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◇「キャタピラー」公式サイト

 

人生の中で観た映画の中で、もっとも精神的トラウマを残した映画を問われるならば、間違いなく「ジョニーは戦場にいった」(1971年)をあげることになろう。

最初にこの映画を知ったのはメタリカの”ONE”のプロモーションビデオ。

クロスカッティングで映画の本編が映像シーンに挿入されるのだが、その映画のただならぬ雰囲気に、レンタルビデオで映画を借りた。そして、その衝撃にしばらく憑りつかれてしまう。衝撃の正体は、恐怖である。

 

 

第一次大戦の前線で、口も耳も目も鼻も吹き飛ばされて四肢も切断されてしまった兵士が、病院のベッドの上で回想にふける物語である。彼は、医者や看護婦に囲まれているが、自分の意思を伝えることができない。

彼は自分の肉体に、永遠の暗闇のまま閉じ込められてしまったのである。そこでは回想する思い出だけがリアルで、現在の姿は色あせた非現実なのである。この映画では過去の回想シーンがカラーで、現在のベッドの上の自分を取り巻く現実は白黒である。

唯一、彼は体をもぞもぞと動かすことだけが出来るのだが、もうひとつ生殖器だけが無事なのである。看護婦が肉の塊となっていてただ呼吸しているだけの「芋虫」を哀れに思い、生殖器を愛撫するシーンがあったのを生々しく記憶している。

この映画「ジョニーは戦場へ行った」は反戦映画の極めつけの一本として取り扱われている。映画化される前に小説として第二次世界大戦中に発表された原作(監督自身の作)は、アメリカにおいて発禁処置に近い取り扱いになり、さらに朝鮮戦争時期にも発禁に再びなった。

だが、この映画の恐怖は、自分にとっては、戦争の恐怖というより、生きながら自分自身が暗黒の世界にたったひとりで取り残されてしまう徹底的な孤独と復帰不可能性にあった。

肉体を失って陥った、人間の絶対的な孤独を取り扱おうとしたというところが正解であろう。もちろん、戦争の悲惨を訴えるモチーフは完璧に舞台として機能している。

江戸川乱歩の「芋虫」は、フリークス趣味と被虐愛がテーマと断言できる。そこに「反戦」といった思想は極めて薄い。
貞淑な妻が、四肢を失い、耳と口に障害を残した「黄色い肉の塊」となった醜い姿の夫を、性的に虐げていくことに快感を見出していく姿が、この小説のゆるぎないテーマである。

だから、完全な不具者を「肉独楽」として性の道具にするには、邪魔な目をつぶしてしまう。つまり夫の自意識を、妻は嫌ったのである。これをひとつの愛の物語とする結末までもが、反戦映画と名付けるには難しい。

「ジョニーは戦場へ行った」と乱歩の「芋虫」。ともに、生殖機能だけは屹立することができる不具の肉体に閉じ込められた兵士の物語である。
だが、物語の力点は、それぞれに一筋縄で「反戦映画」とカテゴライズするだけではおさまらない何か人間の暗い秘密を握っている作品である。得体の知れない恐怖と性的な陰画が、これらの作品を人に強烈な衝撃を与えるのだ。

さて、若松孝二の「キャタピラー」。

中国戦線で女を犯して殺した過去をもつ「軍神」とその妻。

妻は夫をやっかいものとして取り扱う。そこには愛ではなく、「軍神の妻」としての矜持があるだけだ。

妻役の寺島しのぶが下半身だけ脱いでまたがるのは、乱歩の芋虫のようなフリークスへの被虐趣味でもなく、「ジョニーは戦場へ行った」のような、哀れな兵士へのキリスト教的な奉仕愛でもなく、ただ単に軍国主義日本のシステムにまたがって性交しているだけだ。

やがて、芋虫のような不具となって頭もおかしくなっていた夫は、自分にまたがって腰を使おうとする妻に、かつての自分を幻視するようになる。つまり、大日本帝国の兵隊として、そのシステムを背負って快楽を得る自分、つまり、罪もない中国女を犯し殺す自分の姿を。

自分がそうしたように、軍国主義日本の矜持と傲慢から快楽を得ているこの女に自分は殺されてしまう恐怖。

そして、その恐怖から夫の生殖器は機能しなくなり、そして戦争は終わり、軍国主義日本も屹立することは出来なくなる。

映画はエンディングで、大日本帝国の敗戦により、芋虫になっていったものたちを、なめていくように映し出していく。東京裁判で絞首刑になったBC級戦犯。広島と長崎の原爆投下の被害者。

BC級戦犯の死刑囚の中には軍隊組織の中でやむに止まれず行ったことを罪状にされたものもいたという。広島と長崎の被害者は非戦闘員ばかりだ。そして、それぞれが「キャタピラー」となってしまった。

「キャタピラー」は、「ジョニーは戦場へ行った」「芋虫」ともに、モチーフとして表層で取り扱ったものをテーマに昇華させきっている。

同時に、先行する2作品が本当のテーマとした、絶対的な孤独恐怖と倒錯した愛からは離れてしまっている。

フリークスの兵士との性的な関係を、大日本帝国のシステムと直結するものとして取り扱った腕力は、若松孝二らしいものとして拍手をささげたい。

どうせ「芋虫」を撮るなら、こういうテーマだろうよ!生のまま、ぶったぎりで、誰もが目をそむけていたい材料を料理するのは、若松孝二の持ち味である。
排泄、性行為、火傷の引き攣れ、切断された四肢の断面、カメラは全く動じない。

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FWF評価:☆☆☆★★

コメント

  1. キャタピラー

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