◇『ベニスに死す』公式サイト
トーマス・マンの『ヴェニスに死す』を読んだのは、中学生の時だった。なぜこのような死と没落と少年愛という禁忌に満ちたテーマの作品をわたくしが読むことになったかといえば、それは先ごろ亡くなった北杜夫の影響です。北杜夫はトーマス・マンの大ファンで、自分のペンネームも実はトーマス・マンの『トニオ・クレーゲル』からとったものでした。
(杜二夫=トニオ→あまりにもそのままなので”二”を抜いて杜夫のペンネームに)
北杜夫のどくとるマンボウシリーズの青春記などでは、この影響で同性愛や少年愛に無邪気にお遊びながら走っていく姿が描かれております。
そんな北杜夫ファンの中学生が、この無邪気な少年愛の風景を真に受けて、『トニオ・クレーゲル』や『ヴェニスに死す』を読んだから大変です(笑)
頭の中に渦巻くクエスチョンマークだらけ。美に滅びていく中年作家の固執する対象が美少年で、結局一言たりとも口を聞かず触れ合うこともないまま死んでいくのです。
(映画の本作でもそうですね。コレラの蔓延を忠告しにいくシーンでの少年との接触、あれは主人公の想像シーンです。お間違いなく。)
そうしてまったくもってして当然ながら、自分にとってこの物語は嫌悪の対象でしかなかったわけです。これは中々中学生としては正統的な考え方だったと思います(笑)
ただこの北氏は映画の『ベニスに死す』についてはあまりよい評価をしてなかった記憶があります。どうもあの少年のイメージがお気に召さなかったか、またはヴィスコンティ風の退廃模様があわなかったようで。
さて、その北杜夫といえば、三島由紀夫もトーマス・マンを大好きだったため、ほぼ同世代で東京育ちの北杜夫にかなりのシンパシーを感じておりました。ただし、躁状態の北氏が奥さんのご容貌についてひとくさり批評されたため、そのあとは絶交状態になってしまったようですが(笑)
トーマス・マンの影響下にある三島は、美と汚辱というテーマについて幾つもの作品を残しております。「ベニスに死す」の重要なモーチフである美少年と海は『禁色』に有名ですし、醜い老いが美の観察者となり、やがてぽっかりとした無残な死の結末となるのは、『豊饒の海/天人五衰』で深化されるテーマです。
その三島由紀夫は映画ファンでもあるのも有名ですね。ヴィスコンティの作品だと『地獄に堕ちた勇者ども』を、「荘重にして暗欝、耽美的にして醜怪、形容を絶するような高度の映画作品」と絶賛しております。もし、三島由紀夫がそのヴィスコンティが「ヴェニスに死す」を映画化しているという話を聞いたら、そしてそれを観ることができたら、どのような反応を示したか、考えると楽しいですね。
もちろん、三島由紀夫はこの映画前年に死去してますから無理な話です。自分が撮った陰惨極まりない映画『憂国』の主人公のように、死と割腹の醜悪と美を一手に引き受けるように三島は死んで行きました。
この映画、「ただひたすらに美しい」というようなコピーがDVDのコピーになっておりますが、三島はキチンとわかっていました。ヴィスコンティは、醜悪や恥辱やグロステスクを美として甘受する資質に満ちていることを。
小説『ヴェニスに死す』はずっと内省の言葉だけで孤独に綴られていきます。その中の主人公のモノローグ「われわれは必ず邪な道に踏み入らなければならないだろう」はひとつのキーワードです。これを映像の中で拡大し、さらにはこれでもかとクローズアップさせて接写したのが、ヴィスコンティでしょう。
老醜の作曲家、悪臭に満ちたベニスの街、嘘に塗り固められた人々、ラストシーンにいたっては、染めた髪の顔料が額に流れ落ちています。これ、「ただひたすらに美しい」んでしょうかね(笑)。ダーク・ボカートの主人公なんて、ほとんど『バットマン』のジョーカーですよ。汚辱と退廃、死。それらが混在していることがヴィスコンティの「レアリスモ」なのです。美しい美しいって言葉を本気にして中学生がこれ観たらどうするんですか(笑)
さて映画は、小説と違ってもともとのモデルであったマーラーを大胆にフューチャーしている作品です。
原作の主人公が小説家になっているのとは違って映画は作曲家。映画の狂言まわしにマーラーの友人だった人も出てきます。この人の語りが、小説の主人公の代わりに、難渋かつ形而上学的な美学論と芸術家論をうまく観客に伝えてくれるはずなんでしょうが、どうもそうはなってません。あくまで道化。ここはちょっと残念なところではありますね。
この役者は、「自分のセリフの意味が全く理解できなかった」と後日語っているようですが、ぶっちゃけ自分もわかりません(笑)ただ単に芸術論を中途半端に使って道化にしちゃった感じですね。ここはヴィスコンティの失敗だと思います。
そういえば、この作品で使われていたマーラーの交響曲第五番は、今もっとも日本で戦略的に映画の武器を使いこなすことができる監督園子温の『恋の罪』でも使われておりました。
女性の性のなかにある忌まわしい部分をこれでもかとスクリーンに投影し、バタイユを思わさせる陰惨を実在の殺人事件にはめ込んだ力量が印象的な作品でした。
その映画の中で、カフカの「城」、田村隆一の詩篇などとともに、あけすけに物語性を補完する存在として取り扱われていたのが、マーラーの交響曲第五番。
ずばり、これは本作の音楽の「引用」でしょうね。先ほどの小説の中のモノローグにこのような一節もあります。
認識は威厳も厳格も持たぬから。認識はものを理解し赦し、性根をもたず、体裁も顧みない。認識は奈落に、深淵に気脈を通じている。いや、認識こそ奈落なのだ。(中略)われわれにはただ彷徨することしかできないのだから。
トーマス・マン『ヴェニスに死す』
この言葉と以下の田村隆一は簡単に接続することが可能です。
言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
さらには「彷徨」というキーワードを介して、カフカの「城」の物語的な引用は、「ベニスに死す」の引用とここでぴったりと繋がるわけです。
・・・と、この文は『恋の罪』のレビューではありませんので、詳細はそちらをご覧ください(笑)
後期ヴィスコンティの作品の中でも、この作品はちょっと特異な受け取られ方を日本でされているような気がします。特にドイツ三部作『地獄に堕ちた勇者ども』(1969年)、『ベニスに死す』(1971年)『ルードウィヒ/神々の黄昏』(1972)のなかで、どちらかというと一番ドロドロ感が少ないからだと思います。「ただひたすら美しい」とか軽々しく言えちゃうこともできる内容ですからね。
先に紹介した三島の『地獄に堕ちた勇者ども』の作品評にはこんな言い回しがあります。
「心をおののかせる暗欝なリリシズム」
「嫌悪に充ちた美」
まさに、これはそういう映画なのです。この映画を観てヴェニスに行こうと思う人もいないでしょうし(笑)
デジタルリマスター版をジャック&ベティにて。
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