-->『関東大震災』 吉村昭 -デマの出所と第二の悲劇 - Football is the weapon of the future フットボールは未来の兵器である | 清 義明

『関東大震災』 吉村昭 -デマの出所と第二の悲劇

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関東大震災直後の悲惨は震災直接の被害のみならず「第二の悲劇」で増幅されている。

いわゆるデマと流言が引き起こした虐殺事件である。これには朝鮮人のみならず日本人までもが多数巻き込まれ虐殺されることになった。

さて、このデマの出所について吉村昭の推察がちょっと興味深い。

いわく、いわゆる朝鮮人が「井戸に毒をいれている」「集団で暴動を起こしている」「爆弾を持っている」というデマは、横浜でおきた「横浜震災救護団」による集団強盗事件が出所として拡散していったのではないかというもの。

ドヤ街であった中村町に住んでいた立憲労働党の山口正憲という人がいる。この男が震災終了後すぐに、前述の「横浜震災救護団」を急遽組織し、震災後の物資獲得を名目に、日本刀や銃器などで武装し、横浜市内の商店を数十人で荒らしまわり、食料や金銭などを脅し取っていたというのだ。どうやらこれがデマの出所になったのではないか、それが吉村と当時の横浜地方裁判所の推測である。

横浜の港湾業の実力者であった、当時の藤木組の藤木幸太郎の伝記『港と共に』(中出栄三)によると、立憲労働党の山口正憲は、この後にも、日本で最初の港湾労働者の争議の指導者であった糸川二一郎とともに、横浜市の政府貯蔵米倉庫を襲撃さえしている。

震災後、横浜地方裁判所において、結局ひとつの事実も確認できなかった朝鮮人による暴動や爆弾や毒などのテロなどの流言の出所を丹念に追跡していったときに、これがたどり着いた。この集団強盗事件とこれに影響を受けた各種の強盗団の跋扈がまずあって、そこからそれがいつの間にか朝鮮人が集団で襲いに来るという話に転化した。

前述の「横浜震災救護団」による集団での略奪や強盗には、デマが転化され拡散された原因とみられるポイントがある。ドヤ街で暮らしていた生活基盤が脆弱な人達の中には訛りの強い地方出身者もいただろうし、もちろん朝鮮の人もいただろうこと。さらにこの「横浜震災救護団」は、その強盗行為を行うときに赤い腕章を揃って巻いていたということ。銃器や刃物で武装した「救護団」は、さらに赤い旗まで押し立てていたとのこと。

これが震災のパニックで判断能力を失った横浜市民に強烈なインパクトを与えた。警察がこの自警団を鎮圧に乗り出すまでの数日間暴れまわっていた頃には、デマが膨らみ数百人の朝鮮人が来襲するという根も葉もない噂になって東京に伝わり、それを地方の新聞社や破壊されなかった通信網を伝わり、関東全域に伝わったものと推測されている。

当時、社会主義者の弾圧が始まっている時代であり、さらには朝鮮での独立運動も問題となっていた。これらの両者が結びついた活動をしていることもあり、赤い腕章とドヤ街の地方出身や朝鮮人などのイメージが混在され、爆弾やテロに膨らんだ。もろちん、そのベースにあるのは心理下にあった弾圧するものの加害者意識だと推測される。混乱に乗じて復讐があるのではという意識である。もちろん震災直後の混乱下で井戸に毒を投げたり、放火したり、爆弾を破裂させてなんの意味があるのかという合理的な判断はこういう極限状態では通じないようだ。朝鮮で独立運動のテロのイメージが意識下に潜り込んでいて、それが混乱の中で実態として錯視されたものだろう。

震災翌日の夕方になると、川崎や蒲田方面で「不定朝鮮人の集団が三隊にわかれて六郷川をわたってやってくる」という話になり、一挙に都内に拡散したという流れ。なるほど時系列で追っていくと、この朝鮮人の暴動という話は横浜方面から都内へ北上していくのが確認できる。なお、このデマの経路は当時の警視庁刑事部捜査課によっても後に確認されている。

もともと震災直後からライフラインは破壊されつくし、警察すらも電話などの情報手段が取れなくなっており、出所不明のデマが飛び交っていた。東京に津波が来襲するとか小笠原諸島の島が水没したなどの情報は、これを真に受けて、被害を免れていた地域の地方の新聞社がそのまま裏も取らずに流していった。この朝鮮人暴動のデマも、これらの新聞社が震災直後から次々と流していったのである。

最初、この情報を信じた警察だが、やがてデマであることを早々に確認したのだが、それを伝えようにも狂乱状態になって、すでに武装した自警団を組織し始めていた市民には全く受け入れられなかった。

震災翌日の夕方には、すでに渋谷まで伝わっていた「朝鮮人暴動」のデマは、形を変えて「朝鮮人がトラックにのって襲来する」というものになっていた。

たまたま朝鮮人労働者34名を焼け跡整理に派遣した土木会社のトラックが、この噂の広がっていた渋谷に居合わせてしまった。日本人の作業監督も含めて地域の青年団に袋叩きにされてしまった。渋谷署はこの朝鮮人労働者を保護するのだが、これを見た人々はあたかもトラックに乗って襲来してきた朝鮮人が警察に逮捕されたと誤解してしまう。これがまた人伝手で拡散してしまう。

千歳烏山では、京王電鉄からの依頼で朝鮮人労働者を派遣していた土木業者のトラックが青年団員に襲われ、鳶口、棍棒、竹槍等による暴行により数人が殺されている。この頃には襲来すると流布されている朝鮮人の暴徒は数千人とまで言われていた。後の調査で確認された「自警団」の数は1,145団体。ほとんどが凶器で武装しており、これも後に警察によって押収された数は日本刀、匕首、棍棒、猟銃、拳銃など1,947点にのぼる。

流言は、通常些細な事実が膨れ上がって口から口へに伝わるものだが、関東大震災の朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかったという特異な性格をもつ。このことは当時の官憲の調査によっても確認されているが、大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていたとしか考えられない。そしてその異常心理から、各町村で朝鮮人来襲に備える自警団という組織が自然発生的に生まれたのだ。(『関東大震災』吉村昭)

震災翌日の夕方には、このデマに流されるかのように、震災直後に設置された戒厳司令部までもが、「不逞鮮人の放火などに注意しを取り締まるように」という旨の通達を流してしまう。これをうけた陸軍の船橋の送信所は、爆弾をもった朝鮮人が来襲してくるために救援を頼むという電文を独断で発信してしまい、これもまたデマに輪をかけてしまう。

もちろん自警団は、消防や罹災民の救援事業をも行っていたのは間違いなかろう。しかし、異常心理とデマの拡散から、やがて検問所をつくり、手当たり次第に通行人を呼び止め、朝鮮人のみならず、誰何に答えられなかった人にまで危害を加えるようになっていったのである。この頃にはすでに警察のおさえも全く効かなくなっており、かえって「朝鮮人のスパイ」「朝鮮人が扮装している」など見られて殺害されるケースまで出てきている。世田谷では保護した朝鮮人を護送中の警察官が猟銃により射殺。後の政府発表によると、朝鮮人と間違われて殺された日本人は57名、49名が重軽傷とのこと。暴徒は、むしろ自警団であったわけである。電報を届けた配達人が鳶口で刺され重傷となったケースや、朝鮮人と間違われて誰何されていて嫌疑が晴れた嬉しさにバンザイと叫んだところで、生意気だと殺され河に死体を捨てられたケースなど、もはや地獄絵図である。

陸軍やマスコミや錯乱する一般市民とは別に、このデマに対する警察の対応は比較的的確だった。

震災翌日の夕方には、当時の警視総監が、流言防止、流言者の取り締まり、真相究明までの応急警戒、朝鮮人と内地人問わず不定行動の取り締まり、朝鮮人の収容保護、自警団の暴挙の取り締まりなどを通達し、翌日には「不逞鮮人の暴動」がデマであることを知らせ、それから三日後には総理大臣山本権兵衛からも内閣告諭にて「民衆各自の切に自重」を求める警告が出されている。このあたりから順次、警察による武装自警団の取り締まりやデマを流しているものの検挙も始まっているが、それでもまだ関東各地にまで拡散された殺傷はしばらく続いた。

特に警察署に保護されていた朝鮮人は格好のターゲットになった。すでに警察の抑止力を超えていた自警団は、警察までをも襲撃するようになっていた。埼玉県では警察が安全のために護送する朝鮮人が暴徒に襲われ、警察の制止を聞かずに凶器をもって襲い、熊谷町では40名、児玉郡では26名が殺されている。本庄警察署も日本刃やシャベル、鳶口、鉄棒で武装した数千人の暴徒に襲撃され、保護された朝鮮人33名が惨殺されている。群馬県の藤岡警察では署長までもが襲撃され「朝鮮人をかばう警察は社会主義者だ」「朝鮮人をにがした警察官は殺してしまえ」などと叫んだ群衆により、留置所に保護されていた朝鮮人16名が殺されている。
生き残った朝鮮人による記録はさらに壮絶であるが、ここでは触れない。

なお、この凄惨な殺戮から生き残った朝鮮人の多くは、日本人の協力でかくまわれていたり、警察に保護されていたりするものである。まさにシンドラーのリストである。デマと嘘を信じず、目の前の人を大勢に抗して助けていった人たちの記録を見るにつけ、自分もこうありたいと強く思う。

東京都内だけで保護された朝鮮人は11,000人。被害者数は各種の推定があるが、東京都の警視庁の9/2~9/5までの殺人で検挙された件数は55件とされていて、これを根拠にまたデマを流しているものがいるが、これまで見てきたとおり明らかにおかしい。それは単に震災の混乱のなかで検挙されなかったというだけであろう。内務省の発表の人数も231名といくらなんでも少ない。吉野作造による調査では2,711とされているがこのへんが説得力ある数字と思われる。いずれにせよ、数字は単なる数字である。事実はもっと深く、複雑である。

なお、朝鮮人による井戸に毒を投げた、暴動が起きた、爆弾騒ぎがあった、放火があったという公的な記録はひとつも存在していない。震災後にむしろこのデマがどのような経緯で広がったものかの調査は進んだが、実際の朝鮮人の被害については長らく隠匿されたままであった。前述の吉野作造の被害者数を推測した記事も差止め処置となっている。この恐るべき事件を証言してきた同時代の日本人が数多かったことのみが救いである。

 

 

関東大震災時の朝鮮人虐殺 -- 横浜における「不逞鮮人」流言と捜査結果の対比 - 読む・考える・書く
震災後間もない時期に出版された朝田惣七『横浜最後の日』は、著者が「一章一句と雖いえども、些いささかの潤色想像を加味した処ろ無く、全く有つた事を有つた通り、書いたに過ぎぬ。」と述べているように、当時横行した流言蜚語についても、著者が耳にした内容をそのまま書いている。また、横浜市役所が編纂した『横浜市震災誌』にも、生々しい...

コメント

  1. 金信広 より:

    隠ぺいする日本人、反省する日本人、逆説という最も卑劣な理由付けをする日本人、隠しきれない事実をとことん隠ぺい又は逆説で埋めようとする日本人を初めてここ数年のウエブで観てきた。この時の弔いの希薄さが現代の日本に顕れているような気がする。霊はバカにできない。死は納得できるものでなくてはならない。成仏、大事なことです。祟りを最も恐れる日本人、一丸になってこの不幸な出来事を反省し祈るべきだと。