柄谷行人は、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を在米中に読み、それをアメリカ人に向けて「基本的に卑しい、基地に基づいた小説(“Basically base novel based on the base”)」と評したと述懐していたことがある。
もちろん、その評価は、彼自身がアメリカに生活するなかで感じていた何かを抉り出すように触れてしまったから、そういう悪罵をつかざるを得なかったということだ。
村上龍が、先行する「占領小説」から隔絶していたのは、日本はアメリカに占領されつづけているという事実をつきつけながら、そこに反抗するまでもなく、ひたすらその事実の前に、あたかも甘美に滅びていく姿を描いたからだ。
もちろん、そこにはひとつの余裕がある。村上龍が「被占領体験」を描いたのは、すでに戦後30年もたった時代だからだ。
この映画の製作は1964年。
まだ本当に占領は誰もが可視できる事実であった。
大江健三郎は、この時代に占領するものに立ち向かう青年の姿を描いていたし、三島由紀夫があたかも歌劇のような壮麗な仕掛けで「日本」を自立させる激を唱えて死んだのは翌年のこと。
耳を劈き会話すらもできないような爆音に押しつぶされる米軍横田基地。
モテルの売春宿のマダムの一人息子は、何かを目指してひたすら何かにとりつかれたように、意味のない犯罪を重ねることによって、反抗を続けていく。
愛情を拒否するがために、鬼畜のような性体験が、映画では延々と繰り広げられる。
この無意味な反抗をカメラはたんたんと追っていく仕掛けなのが、この映画。
そんなわけで、ひとことでこの映画をまとめるならば、大江健三郎モデルの占領体験からの自立と破滅がテーマの映画です。
自己破滅を通じて、何かを見出していく・・・そんな仕掛けの中心に、タクシー運転手に身をやつした戦前の大学教授の一人娘の哀れな純愛がセットされているのが、しいていえばポイントでしょう。
ギラギラとした破壊力をみなぎらせる映画です。
しかし、自分自身としては、ひとつだけひっかかるところがあって、素直にその鋭利な映像についていけないのです。
総じて、ヨコハマ・ヨコスカ・オキナワ・・・といった、基地の町の映画や小説によくあるパターンなのですが、それは、肝心の米軍兵士がまったく演技してないし、ストーリーの中に機能していないことです。
あんな間抜けで月並みでまったく肉体的に怖くない米兵なんて、ぜんぜんダメです。
肉体なんですよ、パワーなんですよ。
柄谷行人がエキセントリックな反応を村上龍の基地小説に向けたかというと、そこが描けていたからなんですね。そこに、反発せざるを得ない自分がいるのが、むしろ恥ずかしいということです。
本当は、基地の鉄条網に対峙したときに、日本人はもって卑しく見えなければならないのです。それがあれば、もっと彼の反抗も、悲壮で荘厳なものに描けたはずなのに、いつもの基地映画のパターンで、パペット人形のような米兵しか出てきません。残念です。
さて、ところでこの映画って、映倫にひっかかって、わいせつ図画なんとか罪を適用されそうになったんですってね。
これは本当に時代でしょう・・・。ぜーんぜーん、エロくありませんよ(笑)
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