鮮烈なカラーが忘れられない / 「修羅雪姫」 藤田敏八 【映画】

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銀座シネパトスの梶芽衣子特集にて。
仕事終了後、職場からバスで東銀座へ向かい、シネパトスのある三原橋地下街の銀座の数少ない戦後丸出しの商店のならびの中から一軒選び、そのままメシと酒を飲み、そして21時からのレイトショー突入というコースが、今の自分にはとても楽しい。
そして、映画はそういう自分の行動パターンにひたすら忠実であるものが嬉しいのである。
修羅雪姫は、まさにそんな映画。
さそりシリーズや修羅雪姫など、梶芽衣子特集では、もう何本の腕が飛んだかがわからない。そして、ひたすら血の噴出。
梶芽衣子の白い肌と雪。白い着物には黄色の蝶の文様。白と黄色と赤、しかも黄色は雪に映えるレモンイエローです。
もうね、なんなんでしょう、このすさまじい色彩感覚は。
そこに血が吹き出る。吹きかかる。この映画は、血を魅せるための映画です。そのために、血の中で人々が蠢きつづけるシーンを描きたいがための映画です。
三島の切腹フェチを丸出しにした映画「憂国」でも思いましたが、血の噴出というのは、性的な欲望の擬似行為(つまり射精ですね)とか、体内回帰願望とか(誰でも人間は生まれるときは血まみれなんです)、そういうのを考えざるを得ないですね。
そんなわけで、タランティーノの「キル・ビル」に対して、あまりに日本映画のイメージを間違って解釈していると非難している人もいるそうですが、そういう人に言いたいのは、それなら、こういう映画はどうなのよ?ということです(笑)
あっちもめちゃくちゃでしたが、こっちもめちゃくちゃですよ!
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親の恨みつらみのために殺人マシーンとなった女のコの映画・・・こういう風にまとめるといいのかも知れませんが、そこに明治の時代背景が重なり(まあ時代考証はめちゃくちゃですが)、さらには飛び散る血、そして鮮烈なカラーが、渦のようになりながら、そして最後は演歌で締めくくられます。
まさにカルト!

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