チベット問題にかかわる日本の人たちの正義感には、いくつかの罠が含まれている・・・という話は前のエントリーにて書いた。
そのからくりをあっさりと暴露しそうになっている絶妙な映画を見た。
「チベットチベット」 監督:キム・スンヨン(金昇龍)
在日韓国人三世が、卒業旅行に旅に出る。
「日本人」として育ってきた彼は、韓国語はわからないし、「民族の誇りを持て」と教えられてきたことにも違和感を持っている。旅行から帰ってきたら、日本名の「金森太郎」として帰化するつもりでもある。そうして、民族などは声高に唱えることではない、これからは「世界市民」としての生き方をしていこう・・・。
韓国から始まる世界旅行の行き先は決めてはいないのだが、ひょんなきっかけで、チベット難民の受け入れ窓口となっているネパール、そしてダライラマ亡命政府があるインドへ向かう。
民族のディアスポラを前に、そこで彼が考えたことは・・・。
1997年の彼の旅のドキュメンタリーは、悲惨なチベット人の現在の話が続いていくにもかかわらず、明るく、そして最後の最後には肯定的だ。これだけ複雑な問題があっけらからんと語られるところに、この映画と作り手のパーソナリティの面白さがある・・・という風に理解してしまえば、これは単なる西側視点から見た多くの自己満足視点の映画の片割れとなってしまう。
民族とは何か?それを幻想と笑うことは容易い。ほとんど日本人として同化し、帰化まで選択しようとした彼が見るチベットは、本当は彼の「民族」のものだ。
中国はチベット民族を中華民族に同化させてしまおうという政策を推進し、宗教的な自由を奪ってしまう。弾圧は過酷で、デモは流血の惨事となり、そして毎年数百人規模の政治活動の逮捕者が現れる。
ところが、それは実は彼の民族が日本から味あわされてきたことそのものなのではないか?この映画では、この部分があえて深くは語られない。しかし、結論は明快だ、彼は日本名を名乗ることをやめ、帰化をもチベットの体験からやめている。声高に語ることはなく、あっさりと、そして楽天的に。
チベットの問題も在日韓国人朝鮮人の問題も、「探せば違いはたくさんあるだろうけれどおんなじもの」なのである。しかし、それは今語ることではない、チベットでは現在進行形なのだ。ならば、コミットするのはそちらなのではないか。
チベット問題を日本人が語ることは本当は非常に難しい。日本がやってきたことをそのままチベットにやっているからだ。もちろん、チベットだけではない。ウイグルも内蒙古も満州で中国が行った政策は、そのまま日本がやってきたことそのままである。そして、監督自身も同化することを自ら選ぼうとしていた。
それにこのようなディアスポラの悲惨は、世界中でまだまださまざまに行われていることなのだ。そして、それに日本はあるときは加担する。映画が終わった後に、キム・スンヨン監督とペマ・ギャルポ氏のトークイベントがあり、その中で、ペマ・ギャルポは次のマザー・テレサの言葉を引用していた。
日本に来てその繁栄ぶりに驚きました。日本人は物質的に本当に豊かな国です。
しかし、町を歩いて気がついたのは、日本の多くの人は弱い人、貧しい人に 無関心です。物質的に 貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊かな人たちです。
物質的に豊かな多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人 たちです。
愛の反対は憎しみとおもうかもしれませんが、実は無関心なのです。
憎む対象にすらならない無関心なのです。
◇マザー・テレサを偲んで
フリー・チベットの活動は日本人として難しい問題なのだという認識を、どれだけのチベタン支援運動にかかわる日本人は理解しているのだろう。この映画作品は、そのことを暴露する。アメリカ人もフランス人もイギリス人も、己へ突きつけられた「鏡」であることをどれだけ理解しているのだろう。
しかし、この映画は若い。しかし、その若さの選択だけがポジティブな回答なのかもしれない。
チベット問題を、この視点から語る貴重な映画である。チベタン問題に関心を持つ若い人に、自信をもって、見てほしいと推薦します。
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